暁⑦

「具体的には、私に引導を渡してもらいたいんです」

「それは、僕も道連れになって殺人鬼に成り下がるということですか?」

「少し違います」

 その「少し」という修飾語は「かなり」の間違いではないのかと男は思ったが、深追いせずに女性の話を聞く。

「手紙には罪を贖う方法を教えて欲しいと生意気なことを書きましたが、そんなことを赤の他人に求めるものではありません。私は先程、私の犯した罪が殺人であると言いましたが、私はそれよりももっと恐ろしい罪を犯したのです」

「また罪を犯してしまったのですか?」

「はい。それは、この世の中に対して恨みを蓄積してしまったことです」

 男は女性の言っていることの意味が分からず、目線で補足を訴える。

「私自身に降りかかったこの不幸を全て私に原因があります。そのはずなのですが、心の根底では、それを全てこの世の中のせいにして恨み続けていたのです。人間は必ず何かしらの失敗をする生き物であって、失敗のない人間などいません。にもかかわらず、その失敗の中には埋め合わせのできる失敗と取り返しのつかない失敗があるのがこの世の中の不条理さだと思います。私は発車時の周囲の安全確認を一度怠った。たったそれだけ、たったそれだけの失敗でなぜ私はここまでどん底に叩き落とされなければいけないんでしょうか。私以外の人間でも私よりもたくさん失敗をして、それでも平然と何不自由なく生活している人間がごまんといると思います。表面上では、子どもを殺したことへの罪の意識を欠かしたことがないのですが、その奥底では周りにいる人間への妬みが止まらないんです。ついには、普通かくれんぼで車の下に隠れるかと、親はどんなしつけをしたらあんな非常識な子どもになるのだと、どう考えても子ども側にも非があるとさえ考えるようにもなってしまいました。私は今、私以外の幸せを持て余すほどに有する人間全てが憎くて仕方がないんです」

 表情が豹変し、凶器に満ちた本性を露わにした女性に男は絶句する。

 それでも、男は退かなかった。ここは正面から受け止めることが自分に課せられた使命であると直感していたからである。

 そんな男の反応を見た女性は「ごめんなさい。少し驚かせてしまいましたよね」と謝罪した後、本題に入る。

「まだ憎しみを持つだけなら、いつか消える感情だと思うんです。でも、この憎しみだけはいくら時間をかけようとも消える気がしないんです。憎しみなんて、特にこの世やあの男の子に対する憎しみなんて、持つだけ無駄なことだということも分かっています。それでも、今の私はそれを持たずにはいられないんです。それが私の犯した最大の罪です。私は一生絶えることのない憎しみを抱える悪そのものになったんです。このまま放置すると、いつ自制心がなくなって、何をしでかすのか自分でも分かったものではありません。だから、まだ私の中で罪の意識があるうちに、私という悪を終わらせてほしいんです。私はあの場所から、世の中から逃げてきました。それは自分のこの人生を終わらせるために逃げてきました。もう私の人生は終わりです。けれど、心のどこかでまだそれを拒む自分がいるんです。そこで、あなたにはどうかそんな私に人生を終わらせる決心をさせてほしいんです。全力で怒鳴ってもらっても、女だからって遠慮なく殴っていただいても構いません。どうか私に人生を諦めさせてください。お願いします」

 女性は男に懇願し、頭を垂れた。

 頭と共に垂れ下がるその長髪は近くで見ると、艶やかさとはかけ離れた汚らわしい髪質をしていた。

 男が女性の話に釘付けになっていたのは、どこか男の人生と重なる点があったからである。

 互いに形は違えど、世の中が不平等であることを体感した者同士なのである。この世が不条理なものであることを身をもって知ったのであり、知った時には手遅れになっていたのである。

 結局のところ、人生とは時の運なのである。

 女性はその日にした小さなミスが幼き命を奪う重大な事故に繋がってしまった。

 男は人生をかけて取り組むものに野球と小説を選んだが、どちらとも結果を残すことができなかった。選択を誤ってしまった。

 そして、二人とも世間の光の裏に隠された影となったのである。

 人は、世間は、光を見るばかりで、その闇に目を向けようとはしない。時には、避けようとする節すらある。

 だから、男の存在はかき消され、女性は孤独になった。

 男にとってその女性はそんなこの世の闇の部分を共感し、分かち合うことのできる唯一の人間だった。

 男は初めて心の底からわかり合える人間に出会えたと確信した。

 だからこそ、男は残念に思った。

「あなたの気持ちはとても共感できます。実は僕、売れない小説家をしておりまして、かれこれ10年貧乏暮らしをしています。それでも、この世には僕の数百分の一程度の労力で売れてしまうような才能の持ち主がいます。実際、高校時代にそんな同学年の逸材がいました。そいつは生徒会長も務めていて、小説で大賞を取るだけに及ばず、空手の大会で全国1位にもなっていました。僕は今まで努力を欠かしたことがないとだけは断言することができます。何をするにも努力さえしていれば、結果がついてくるものだと信じていたからです。しかし、僕がいくら努力しても、結果はついてきませんでした。この世には、努力をしなくても結果を出す人間もいれば、逆にいくら努力をしても結果の出ない人間もいるんです。僕は典型的な後者の人間です。僕とあなたは似た境遇にあると僕は思います。僕らはこの不平等で無慈悲な世の中の犠牲者なんです。だからこそ、あなたに僕から伝えることは簡単なことです。諦めたければ、それでいいと思います」

 男は女性に対して非情な提案をした。

 似た境遇に立たされた二人だが、明瞭に異なる点がある。

 それは、女性が人生を完全に放棄してしまったことである。

 女性はこの世の残酷さを知った上で、この世に失望し、絶望して逃避行に走ってしまったのである。

 故に男は完全に女性の気持ちに共感することができないのである。

「ここから生き続けるために必死になったところで、救われる確証はありませんし、僕たちのような運に見放された人間なら尚更その確率は低いでしょう。そうなれば、一層苦しみが覆い被さることになります。これまでに築き上げた人間関係も全て捨て去ったというのなら、割り切ってしまった方がいいと思います」

 男は女性の言う「引導を渡す」という行為を真っ当に実行した。

 それがこれで正しいのかと確認するつもりで女性の顔に目をやると、その女性は目を見開いたまま固まっていた。

「どうしました?」

「あ、すみません。ちょっと意外で」

 男が問うと、女性は苦笑して答える。

「意外、ですか?」

「あ、すみません。これはただ私が最低というだけの話なんです。正直に言いますと、私はなたに期待をしていたんです。私に対して何の先入観もない人なら、もしかすると、人生を諦めた私を救ってくれるのかもしれない、手を差し伸べてくれるかもしれないって。全然知らない人のポストに手紙を入れたのも、これが理由なんです。本当に最低ですよね、私。正直、あなたが私と似た境遇だと知った時は、本当にここから人生が変わるんじゃないかって心中跳ね上がる気持ちでしたけど、まさか本当に真っ向から死ねと言われるとは予想外でした。ちょっと落胆も含まれているかもしれません。やっぱり最低ですよね、私」

 女性の本音を聞いて、男は初対面の人を前に思わず大笑いしてしまった。

「そういうことですか。まあ、大抵の人なら、あなたに同情して『生きろ』とか言って何らかの救済措置を施すのでしょうね。でも、あなたは僕に手紙を送ってきましたからね」

「そうみたいですね。私はとことん運に見放されているようです」

 女性は優しく微笑みながら男と談笑を交わす。

 気づけば、朝日が顔を出し始め、張り詰めた冷気が少しばかり和らぐのを二人は感じた。

「今日はありがとうございました」

「僕なんかが何かお力添えできたようで光栄です。どうか、良い来世になることを祈っています」

 男は別れ際まで非道であった。

 女性と別れた男は朝日をその目で確かめると、そのまままっすぐ家へと帰宅していった。

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