暁⑥

 殺人と一言でそう言っても、女性は故意に人を殺めたわけではない。

 女性は女性の運転する自動車で小学生男児を轢き殺してしまったのである。

 女性は男と同年代の社会人で、それは何気ない休日の昼間の出来事だった。

 女性は車を停止させて、そこから車を発車させたとき、車の下にはかくれんぼで身を隠すために潜っていた小学2年生の男の子がいた。女性はその子に気づかず、そのまま轢き殺してしまったのである。

 女性の些細な不注意が招いたこの事故は多くの人に多大なる悲しみを与えた。

 女性の小さな過失が女性の身内から関係のない人間まで多くの人を動かした。

 その男の子の葬式に参列した人は女性のケアレスミスがなければ、本来なら葬式の日に平穏な日常を過ごしていたはずである。

 当然ながら女性はその男の子の親から多額の賠償金を請求され、女性はごく普通の生活から一気に借金生活を余儀なくされることになる。

 それだけだったら、まだマシな人生だったろう。

 だが、周囲からは罪のない子どもの命を奪った殺人犯としての烙印を押されるようになった。

 近隣住民や職場の人間から後ろ指を指され、避けられ、蔑まれる毎日だった。

 それだけではない。女性の親も犯罪者の親として差別の目を向けられるようになり、それに耐えられなくなった親は、その元凶を作った張本人である自分の娘を見放したのである。

 お前なんか自分の娘ではないと化け物を見るような恐ろしい形相で女性は親から虐待を受けた挙げ句、家から追い出されてしまったのである。

 しかし、悪いのは自分である。

 あのとき、子どもの存在に気づかなかった自分が悪い。

 多くの人の人生を狂わせた自分が悪い。

 一人の尊き命への埋め合わせをすることができない自分が悪い。贖う方法を知らない自分が悪い。

 多くの人に損害が生じているのに、加害者である自分が無傷でいられるわけがない。無傷でいてはいけない。

 これは罪人である女性への当然の報いである。それを甘んじて受けることが女性にとっての贖罪であると女性は思った。

 だが、それが完全なる贖罪であると女性は思わなかった。

 もはや、この世に贖罪の方法など存在しない。そう女性は諦観するのみであった。

 自力で希望を見出すことすらできなくなっていた。

 ついに、女性には自分も含め味方が誰一人としていなくなってしまった。

「私の周りには助けてくれる人も頼りになる味方もいませんでした。だから、私は逃げ出したのです。誰もいない、私のことを知る由もない人だらけの場所へ逃亡しました。それがこの場所でした」

 女性は切実に語っていた。女性は男に語るというよりは、女性自身に対して己の人生を振り返るかのように男の目には映っていた。

 今まで吐き出したくても吐き出せずに溜め込んできたものを、ずっと一人で抱え込んできた行き場のない苦しみをようやく吐き出せたことへの喜びからか、重い話に似合わず女性は少しばかり嬉しそうに話をしていたような気がした。

 それに付随するがごとく涙や嗚咽が定期的にこぼれ落ち、女性の話も潤滑には進まなかった。

 それでも、男は状況把握という当初の目的をすっかり忘れ、嫌な顔一つせず女性の話に釘付けになっていた。

「そして、あの手紙の話ですが、もちろん私もあなたもお互いに初対面です。ならばなぜあなたの家のポストに手紙を入れたのかと申しますと、それは偶然なことなんです。失礼も承知で言いますが、手紙を渡す相手は誰でも良かったんです。赤の他人だったら誰でも良かったんです。ここで持ち金を使って手紙を書き、私がたまたま入れたポストの家の主人があなたで、あなたは偶然にもその手紙を読み、偶然にもここに来た。馬鹿馬鹿しくて拍子抜けなのかもしれませんが、これがあの手紙の真実です」

 男はその話を聞いて、ふと当初の目的を思い出した。

 つまり、女性は全く面識のない人のポストに手紙を投函し、男はその手紙をポストから取りだして読み、そこにはこのベンチの場所が記されていたため、ここにやってきたという状況なのだろう。

 男はその赤の他人をこれから演じればいいのである。女性も他人行儀な言葉遣いであることも、これで頷ける。

「そうでしたか。事情は分かりました。それで、僕は具体的に何をすればいいのでしょうか?」

 状況を把握できた途端に男は流暢に口を動かし始める。

「具体的には、私に引導を渡してもらいたいんです」

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