暁⑤

 翌日のアルバイト帰り、男は聞いていた音楽を軽く口ずさみながら歩いていた。

 今朝もベンチにあの美女が座っていないかと馬鹿げた期待をしていたからである。

 話ができなくても構わない。その美貌をもう一度この目に焼き付けることができればそれで良かった。

 あまりにも気分が高揚していたせいか、目をつぶっていても自宅まで帰ることのできるほど歩き慣れた横断歩道で男は10年間で初めて信号無視しそうになった。

 男が思っていたよりも早く公園に到着してしまったことに戸惑いつつ、寄り道をすることなく例のベンチのあるところまで一直線に進む。

 すると、そのベンチには昨日の美女が座っていたのである。

 それを見て、男は驚愕のあまり咄嗟に近くのトイレの裏に身を隠した。

 男自身も正直、いないものだと思っていた。

 朝方にあの美女を見た衝撃が男の記憶の中に深く刻まれ色濃く残っているうちに、その記憶を基にして擬似的な高揚感を得ていたに過ぎなかったのである。

 この快楽にさえ浸ることができていれば、それでいいと思っていたところを、本当にその美女が座っていたのだから驚くほかない。

 男はトイレの裏でしばし考えた。

 もしも、あの人が昨日から朝にここに来ることを日課とするようになったのなら、その近隣住民であり、この公園の常連客である自分は歓迎の意もこめて挨拶をすることは当然のことであり、社会のマナーでもある。

 この際、人柄や人相は関係がない。

 挨拶を交わすだけで、余計な会話をしなければ、相手を不快にさせることはなかろう。

 よって、男は一つの結論を出した。

 明日もあの女性がいたら、挨拶をする。

 男は相変わらず度胸がなかった。


 そしてそのまた翌日。男はアルバイトに出かける前夜に玄関の前で深呼吸をしてから扉を開けた。

 期待するな。期待するな。さすがにいない。さすがにいない。アルバイト中もそうやって自分の中で反芻させながら男は公園に足を踏み入れた。

 期待するな。期待するな。さすがにいない。さすがにいない。

 伏し目がちに少し小さな声で呟いてしまうほどに自分に言い聞かせてから、顔を上げてベンチの方を見る。

 その女性は座っていた。

 三度見ても、その美しさが衰えることはない。むしろ、日に日に凄みが増している。

 これは決して冬の朝の暗がりで女性の顔が見えにくくなっているから、雰囲気だけで美しいと決めつけているわけではない。暗がりで見えにくくなっているのにもかかわらず、この人は美しくないわけがないと、その女性の美しさを信じて疑わせないほどのオーラを放っているのである。

 それほどその女性は美しかった。

 女性の存在とその美貌を確認したところで、次の段階に移行する。

 今日こそは逃げ出すわけにはいかない。

 凍える冷気で固まる足を強引に引きずって、着実に女性の方へ歩みを進める。

 その途中で男は女性の格好が昨日一昨日と全く同じ格好であることに気がついた。

 気のせいだろうか。だが、そうであろうとなかろうと男には関係のないことである。いずれにせよ美しいことに変わりはない。

 いくら近づいても、やはり女性の美貌が衰えることはなかった。

 やがて、男は女性のすぐ前で立ち止まる。

 その瞬間、女性は顔を上げ、男は女性と目が合った。

 即座に挨拶を口にしようと口を開こうとしたその時だった。

「もしかして、手紙を読まれた方ですか?」

 男が話しかけるよりも先に女性が歓喜に満ちた表情で男に質問を投げかけてきた。

 男には先を越されたことへの戸惑いもあったが、それよりも女性が投げかけてきた質問内容への戸惑いの方が大きい。

 それは初対面の人に対する第一声とは全く思えない挨拶だった。

 何の話なのかはさっぱり分からないが、恐らく女性が男のことを別の誰かと勘違いしていることのみ男には伝わった。

「あ、ああ。は、はい、そ、そう、です」

 だが、男は気が動転して、つい女性の話に合わせてしまっていた。

 なぜこんな安い嘘をついたのか男自身でも分からない。

 分からないが、ここで正直に話してしまうと、そこで女性との会話が終わってしまうとだけ男は直感していた。

 それだけは自覚していた。

「まさか来ていただけるとは思ってもみなくて・・・。夢のようで・・・。ちょっと、すみません」

 女性は男が来たことによって感動のあまり涙を流し始めた。

 それを見て男の戸惑いと罪悪感は募る一方であった。

「そ、そんな。泣くまでのこと、ですか?」

 とりあえず、男は当たり障りのないことを口に出してみる。

「ごめんなさい。正直言って、あの手紙はやけくそみたいなものだったんです。自分で書いて、ポストに入れた自分が言えることではないですけど、半分以上諦めていました。あんな手紙を読んでここに来る人なんていないって。私に会いに来る人なんていないって。でも、あなたは私に会いに来てくださった。今はそれだけでも感無量です」

 男の何気ない質問に女性は震える声で丁寧に答える。

 それでも、女性の言葉から何かこの状況を把握するための手がかりが掴めるのかと期待をしていたが、糸口すら掴めなかった。

 分かっていることは、自分が女性の書いた手紙を読んだという体を取っていることくらいである。

「だとしても、そこまでのことではない気がしますけどね」

 男は女性と何を話したらいいのか分からなくなった。女性と本来の相手との状況を推察できない以上、下手に喋ることができない。

 女性に促され、男が女性の隣に座ると、二人の間に沈黙が流れた。

 無音のはずの冬の朝に自分の心音だけが激しく響き渡る。

「何も事情は聞かないのですね」

 男が何を話そうかと思案していた最中、女性からそのように話しかけられる。

「じ、事情・・・とは?」

「あの内容では何も伝わらないじゃないですか。私がどんな人間で、どんな人生を辿って、そして、どんな罪を犯したのかが」

 恐る恐る男が女性に問い返すと、女性はその大きな瞳を長い黒髪の間から時折覗かせながら答えた。

 男はその「罪」という単語を聞いて動揺を隠せなかった。

 この女性は罪を犯したのか。もしそうだとしたら、どんな罪を犯したのか。

 そもそも、女性の口調や話を聞く限り、どうやら女性と本来の相手はそこまで知り合いというわけでもなさそうである。

 ますます迷宮入りしそうな状況にはなったが、手がかりは掴めそうな予感がした。

「そ、そう、ですね。正直聞いていいものなのか迷っていたところです。もし良ければ、聞かせてもらってもよろしいですか?」

 女性の話から察するに、その手紙の中には事情というものが詳しく書かれておらず、女性はまず男からその事情を詳しく聞かれるものだと思っていたようである。

 よって、その事情を女性から聞くことで、状況を把握することができると男は考えた。

「はい。私は最初からそのつもりでずっと待っていました。逆に大丈夫ですか?少し重い話になりますが」

「問題ありません。気兼ねなくどうぞ」

 逆に女性から許可を求められた男が快諾すると、女性は自分の過去について話し始める。

「私が犯した罪は、殺人です」

 女性は話の冒頭にそう前置きした。

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