無煩悩③
18歳から始めた生活も早20年。男は現在38歳。
男の両親は男が20歳の頃、意見の食い違いから離婚。よって、今では完全なる父親の財で生活をしているのである。
離婚の原因は確実に男にあるのだが、男は両親が離婚をしたという事実すら知らない。
それどころか、この20年間は父親とも一度も対面しておらず、電話などで会話をしたことさえもない。
それも父親自身が男を誰とも関わらせないように隔絶させたのだから、父親としては当然といえば当然の対応ではある。
自分が息子に会ってしまえば、息子が築き上げた生活に異物を混入させることになり、息子に思考を与えてしまうと父親は考えているので、父親はそのようなことを断固としてこなかった。
父親が完全に養うといっても、父親から直接手を下すことは何もないのである。
男は思考をしないので、淡々と過ごしたこの20年という歳月は男にとって刹那的なものなのかもしれない。
それは、日常的に刺激はなく、変化のない日々をひたすら送ってきたからだろう。
これは、そんな男のある日の出来事である。
その日、男は正午に布団から立ち上がって、グミ30粒の入った箱を取りに玄関口へと向かった。無意識的で普段通りの行動である。
異変はここから生じる。
ない。正午に届けられるはずのグミの入った箱がない。
男はそれを見て再び布団の上に戻る。
異変は異変である。だが、男はこれしきのことで動揺しない。この異変は過去にも発生したことがある。
箱がないということは正午よりも前の時刻に取りに来てしまった。そんな思考にすら至るまでもない。男はこれしきのことで思考をすることはない。
男はしばらく布団の上で過ごした後、もう一度箱を取りにいく。
ない。まだ箱はない。それを確認して、また布団に戻る。
約5分周期でこれを繰り返すと、時間は正午を過ぎ、男は何回目かで食料を得ることができるのである。
洗練され尽くした男の体内時計も時には誤差が生じる。これはその誤差の修復作業に過ぎない。出血した時にかさぶたができるようなものである。
男は決して思考をすることはない。
しかし、この日は違った。
何度繰り返しても箱はなかったのである。
ない。
ない。
ない。
ない。
ない。
ない。
ない。
ない。
ない。
ない。
今までいつかは終わりが訪れていたその修復活動に一向に終わりが来なかった。
それもそのはずである。今日の正午にグミを届ける使者が来ていないからである。
グミを届けるのにも誰か他人の労力を必要とする。人間がそれを行うに当たってミスがあるのは至極当然。今日はグミの配達担当の使者が辞職し、その代行を任された使者が仕事を忘れてしまったのである。
昼食は義務であり、正午に必ずしなければならない。それができないのなら、男はそれができるまで修復活動を続ける。そうすることで思考をする必要性を排除できる。
だが男は人間であり、機械のようにいつまでもその活動を継続させられるわけではない。
男はやがて空腹を感じてしまう。
空腹を感じることで男は食欲に襲われた。
どれだけ人間でないように徹しようとも、身も心もそうなってしまおうとも、男が人間であることに変わりはない。
どれだけ思考やそのやり方を忘れようとも、思考する生き物こそが人間であり、過去に思考を働かせた経験がある故にそれを思い出すことは難しいことではない。
食べなければならないというノルマは次第に食べたいという欲求へと変わっていった。
男はついに玄関口の前で立ち止まった。
そして、男は久方ぶりに考えた。
20年という時間間隙により記憶喪失に似たような状態にある男は、まず根本的なことを思い出すことから始める。
なぜ自分はこんなことをしているのか。男は最初にそれを思い出す。
それによって男は思い出すという行為を、思考のやり方を思い出していった。
自分は人間とはかけ離れた生活がしたくてここにいて、自分は今正午に食事用のグミを受け取るつもりだった。それを思い出した上でグミが未だに届いていない状況を見て、現在時刻は正午を過ぎており、それでもなおグミは届いていないと考えた。
ならば、どうすればグミを手にすることができるのかと男は悩んだ。
しかし、考えに考え抜いて、男には何も分からなかった。
それは、思考の仕方は思い出したが、思考力が足りていないからである。それに、思い出したとはいえ、全てを思い出したわけではない。
例えるなら、現在の男の脳内は幼児のそれのようなものなのである。
限られた記憶と乏しい頭脳では、問題を解決することができない。
時間にして数時間、男は玄関口前に立って考えていた。それでも男は明確な答えを導き出すことができなかった。結局、緊急用に設置された固定電話も全くもって意味を成さなかったのである。
空腹によって思考をする気力も失せてしまった男は思考を一旦引っ込め、欲望の赴くままに家中を探し回った。
物の隠れる場所も多くない家中をこれまた数時間捜索した。
もちろん見つかるわけもなく日はとうに暮れ、男の中では徐々に焦燥感がこみ上げていく。
気づけば、目を血走らせながら大量の水道水をコップに注いで飲み干し、空腹を満たそうと必死になっていた。
ウォーキングや歯磨き、シャワーのことを全て忘れ、食欲に散々振り回された結果、男は疲れ果て、睡眠欲という第二の欲求に駆られ、すぐに布団の上で眠ってしまった。
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