無煩悩②

 ここでもう一つ疑問が生まれるだろう。それは、なぜ男がこのような生活を送っているかという男のルーツである。

 男は非常に裕福な家庭で生まれ育った。

 恵まれた環境で育った男は才能にも恵まれていた。

 空手、柔道、剣道、書道にそろばんと、全てにおいて有段者であり、全ての競技で全国大会の出場経験があり、優勝経験もある。

 芸術的センスや文才も異彩を放ち、絵画と作文でそれぞれ一度ずつ内閣総理大臣賞を受賞した経験もある。

 学業では常に成績トップの座を保持し続け、言語も日本語以外に英語と中国語とドイツ語を流暢に話すことができるほどである。

 学級委員長や生徒会長にも率先して立候補し、中学校と高校では生徒会長としての責務を全うした。そのため人望は厚く、異性との交際経験もある。

 男の人生は順風満帆そのもので、失敗のしようのないエリート街道を突き進んでいったのである。

 それでも男は現在、そんな過去の自分そして人間性までも捨てている。

 いや、人生の序盤にして人生を謳歌してしまったからこそ、男は今のような状態になったのである。

 その原因は、ある日男の中で生まれたとある思考である。

 男は思った。

 自分の人生に意味はあるのか、と。

 多くの人と関わり、多くを学び、努力を重ね、結果や功績を残した。だからなんだというのだ、と。

 男は自分が今まで起こしてきた行動やそれによって感受した感情に価値を見出すことができなかった。

 自分はそうやって生きてきて、最終的に何を得られるのだろうか。

 もし何かを得られたとしても、それはいつしか色あせて忘れてしまうのだろう。そして最後には、すなわち、自分の死が訪れた時には全て失ってしまうのだろう。

 いずれなくしてしまうものをいくら獲得して蓄えようとも、それは無駄なことなのである。

 多くを手に入れすぎ、高みへ上り詰めすぎた男がその絶頂から見た景色は何とも虚しいものだった。

 なぜこんな不条理な人生に自分という存在が放り出されなければならないのかも分からないまま男は人生というものに落胆し、絶望した。

 そして、人として危険な思想に陥る。

 何をしても意味がないのなら、何もしなければいい。何もする必要はない。

 そう思ったとき、男は何もしない、そして何も考えない非人間的な生活に好奇心を持ち、憧れを抱いた。

 普通の人間ならば至ろうとも思わないその境地を男はいつしか夢見るようになっていた。

 そして、高校卒業後に男は父親にその旨を余すことなく告げた。

 自分が18年間の人生を通して何を思い、考え、何を望んでいるのか。全てを父親に表明した後、具体的に自分がどうしたく、父親には何をしてもらいたいのかという依頼まで要請した。

 つまり、男は真面目な顔で自分を家庭にとって害悪以外の何者でもない家畜として飼育してほしいと懇願したのである。

 誰がどう考えても、下衆にすら値しない邪悪な願望である。

 狂っていた。この男は確実に狂っていた。

 何が狂っていたのかといえば、男はこれが己自身の人生の選択なのだと全く悪気に思っていなかったことである。

 答えなどあるはずのない問いについて男は無謀にも答えを導き出そうとした結果、男の頭はもはや常人のそれではなくなっていた。

 だが、狂っていたのはむしろ父親の方だった。

 父親はそれを受け入れたのである。男の思想に納得したのである。そして、一生息子である男を養っていくと約束したのである。

 これから大学へ進学しようとしている息子からの突然の告白に壊滅的な依頼。それを父親は何食わぬ顔で理解を示したのである。この時点で充分に常人の域を超えているのだが、それだけではない。

 理解をしたとしても、親として子どもの過ちを正し、更生させることが正しい行動であり、それは親の義務とも言える。

 がしかし、父親はそれを良しとした。息子を一切否定しなかった。

 むしろ歓迎していたくらいだった。

 男の母親はそれを聞いて猛烈に反対したが、家の主人である父親の高圧的独断によって、男の非人間的生活は強行され、妨害すら許さなかった。

 男はやむを得ず今のような生活を送っているのではなく、望んで自ら人外にならんとしたのである。

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