第42話 汐里 亮太の部屋

 エリカと駅で別れ、私は再び亮太の部屋にやってきた。

 マスクを二重につけ、玄関のドアを開ける。

「うっ……蝿、まだいる……」

 途端に聞こえてくる、ブーン、ブーン、という虫の羽音。

 午前中に部屋から追い払えなかった蝿が、まだ残っているんだろう。

 大丈夫。ここに来る途中にあるドラッグストアで、ちゃんと殺虫剤を買ってきたから。

 パチン、と部屋の明かりのスイッチを入れ、手にしたエコバッグから買ったばかりの殺虫剤のスプレー缶を取り出す。

 これと同じものが亮太の部屋にもあったはずなんだけど、午前にこの部屋に来た時には、見つけられなかった。

 もしかしたら、虫が取り憑いてる今の亮太が捨ててしまったのかもしれない。

『せっかく居心地が良くなってきたのに、これじゃ台無しだ』

 換気をし、ゴミを片付け掃除をしていたこの部屋を見て、亮太が言った言葉。

 買ったばかりのスプレー缶の薄いビニールを剥ぎ取りながら、私はぞっとした。

 あの虫、自分は害虫だと言っていた。

 害虫って一言で言ったって、色んな種類がいるじゃない? いったいどの害虫? そういえば、さっきエリカからもらったメモ用紙に、その情報は書いてなかった。

 自然と、スプレー缶の注意書きに目につく。

 そこには、使用対象となる害虫の種類がいくつか書いてあった。

 うわあ……どれも嫌だわ。

「ダメだ、一度気になりだしたら止まらない」

 私はスプレー缶をテーブルに置いて、スマホを操作した。

 先程別れたばかりのエリカに、亮太に取り憑いている虫が何なのか、知ってたら教えて欲しいとメッセージを送る。

「エリカなら知ってるかも……あ、もう返信きた」

(言ってもいいの?)

 どきりとした。

 エリカ、やっぱり知ってるんだ……

 知るのが怖いような気もする……でも……

「知らないと、ずっと気になるから……」

 私は再びスマホの画面にメッセージを入力して、送信ボタンを押した。

 答えはすぐに返ってきた。

(ムカデ。見たことないくらい、でかいやつ)

「ムカデかあ……」

 エリカから返ってきたメッセージに、はあ、とため息を吐く。

 ひとまず、私の想像していた害虫ではなくて安心した。それに、私はあまりムカデを見たことがない。

「調べてみる? ……いや、わざわざ不快になることないか……」

 スマホでムカデを検索してみようか迷ったが、それはやめておいた。

「そんなことより、亮太の実家の住所を探さないと……その前にこの蝿っ!」

 このブーンという蝿や蚊の羽音は、どうしてこうも人に不快感を与えるのだろう?

 私はスマホをテーブルに置き、代わりに殺虫剤を手に取った。

 そして窓を開けて換気し、部屋中に殺虫剤を撒く。

 白い薬剤の煙が吹き出ては消え、独特の匂いが充満し始めた。

 これは、けしていいにおいじゃない。

 人間とて、これの濃いものを吸ったら命はないのではないかとちらりと思わせるようなにおいだ。

「そりゃ、虫をやっつける為のものだもんね……うん、音が聞こえなくなった」

 私はほっとしてスプレー缶を床に置き、気合を入れた。

 亮太の実家の住所がどこなのか。

 亮太が実家と年賀状のやり取りをしていないのは知っている。

 ならば、手帳に書いてあるとか、昔の手紙とか……とにかく住所さえわかってしまえば、スマホで検索して実家に行ける。

 私はペーパードライバーだから車は運転できないけど、電車やバス……タクシーを使えばいい。

 私は数少ない亮太の部屋の引き出しを開けまくり、中を漁った。

 そして、気づいたことがある。

「私のもの……全部なくなってる」

 私はかなり亮太の部屋に入り浸っていたから、自分の歯ブラシやら着替えやらアクセサリーを置いていた。それが、何一つ見当たらないのだ。

 どきりとした。

 捨てられたのは間違いない。

 ただ、そうしたのが今の亮太なのか元の亮太なのかがわからなかった。

 いいんだ……私、一からやり直すんだから……亮太と……

 ここで落ちたら、私は動けなくなる。そんな時間はないのだ。

 私は押し入れの捜索を始めた。

 亮太は物を持つのが好きじゃないから、探す手間があまりなくて助かった。

 上の方の押入れは、よじ登ってなんとか探した。

 暗くてよく見えない。

 手を伸ばすと、埃が手につく感触と固いなにかがぶつかる感じがした。

 頑張れ、私……

 体をもう少し伸ばし、指先を伸ばし。なんとか引っ張り出したのは、埃まみれの缶だった。

 クッキーの詰め合わせが入っていたと思わせるような缶だ。

 私は手を洗い、ウェットティッシュで埃を拭き取って缶の蓋を外した。

「母子手帳だ……2冊ある」

 これ、とても大事なものだ。亮太とお母さんのつながりを示すものだもの。

 私はそっと母子手帳を手に取った。

 上の方に置いてあった一冊は、沢山のセロテープが貼られていた。

 ビリビリに破れたのを、直したように見える。

 母の氏名、石田亮子。子の氏名、石田亮一。第1子。

「これ……多分亮太のお兄さんのものだ……なんで亮太が持ってるんだろう……」

 私は修復跡だらけの母子手帳を横に置き、下にあったもう一冊の方を手にとる。

 母の氏名、石田亮子。子の氏名、石田亮太。第2子。

「亮太とお兄さんの名前……お母さんから一文字もらったものだったんだ……」 

 古びた手帳のページを、少し緊張しながらめくる。

 そこには、亮太の両親の名前と生年月日と居住地が書いてあった。

「お父さん、龍彦さんっていうんだ……」

 私はそのままページをめくっていったけど、亮太のお母さんが記入した形跡はほとんどなかった。

「まあ、兄弟がいると色々忙しいもんね……住所のところ、写真撮ろう」

 それが済んだら、母子手帳を缶に戻してそれを元の押入れにしまうんだ。

 こういう、きっと本人にとって大事なものって、本当は無断で見るものじゃないから。

 勝手に見てごめんね、亮太。

 S県N市。

 私は母子手帳に手書きで記入されていた居住地の住所を、マップのアプリに入力した。

 明日、私はここに行く。 

 湧き上がる緊張をひとまず隅に追いやって、私は再び缶を押入れに戻したのだった。

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