第32話 汐里 誘いと後悔
勤務中は、スマホを見られない。
だから、トイレに行く度に亮太からメールが来ていないか確認していた。
「来てない……か……相変わらず既読にはなってるけど……」
冷却期間を置こう、と言ったのは私の方なのに、亮太の事が気になって仕方なかった。
あれから、もう一週間が経っている。
「明後日からゴールデンウィークか……なんにも予定なくてつまんないなぁ……」
なんとなく呟くと、隣で手を洗う同期生のアカリが苦笑いを浮かべた。
「あれ、汐里、彼氏に振られたの? 付き合い長かったのにねぇ」
「別れてない、単なる冷却期間よ」
そう言いつつも、胸に晴れない
「私が男紹介しようか? 高収入イケメンのハイスペ男子」
「いらないわよ。うちの彼氏だってハイスペよ」
私はすぐさま言い返した。
収入は少ないけど、亮太の性格と外見はハイレベルなのよ! 背だって高いし!
「今度、彼氏と車で藤の花を観に行くんだ」
アカリは長く伸ばしたサラサラの髪の毛を、さっと手で払いながら言った。
そうか。単に自分が彼氏とそこにお出かけするのを自慢したくて、このあいだ話題にしたんだな。
私はようやくそれを悟った。
亮太に行こうと提案した、他県にあるフラワーパーク。
社内の休憩コーナーで一緒にランチをとっている時に、さり気なくそのフラワーパークを話題に登らせたのはアカリだった。
アカリの彼氏は営業部の2歳年上の人だ。
スマートで、女の扱いに慣れたようなソフトな物腰の男。
顔のつくりは悪くないが、私の好みじゃない。
一番鼻につくのは、いかにも俺はモテるんだぜ、というオーラが滲み出ているところだ。
まあ、実際にその男はモテた。
私の同期の高卒女子社員四人の内、三人がその男と肉体関係を持ったからだ。
私にはわからない、特殊なフェロモンでも出ているんだろうか?
そして現在、彼女の座に座っているのがアカリなのだ。
「汐里も一緒に行く? ミナも行くんだけど」
「は? ミナも行くの? 彼氏いるのに?」
ミナは、私同様アカリの彼氏と関係を持たなかった唯一の同期だ。
「別にいいじゃない。助手席にさえ座らなければ、私は誰が一緒でも大丈夫よ。それに人数いた方が、高速代が割り勘できて安く済むでしょ?」
アカリはにっこりと笑った。
「まあ、そうね……」
私はフロアの廊下を歩くアカリの背をちらりと見る。
モテる彼氏持ちの女という、どっしりとした安定感が細い背中から放たれているように見える。
「ううむ……」
やはり同期のミナの名前が出たことで、一気に気持ちは傾いた。
あの藤の花、きれいだよな……直に見たら疲れが吹き飛びそう……それに、見頃は今月の中旬までだし……
「行く気になった? 後でメールで詳しいこと送っておくね」
じゃ、とアカリは手を降った。
「あ、うん、わかった……」
浮かない気持ちと、休日を楽しみたいという欲が混ざり、なんとも言い難い気持ちになる。
「亮太のアパート……寄って帰ろうかな……」
私はぽつりと呟いて、自分のデスクに戻ったのだった。
帰り道の途中でスマホに届いたメールには、集合場所と時間が書いてあった。
アカリからだ。
「ミナにもメールしておくか……私も行くことにしたよ……っと」
私はスマホからミナにメッセージを送る。
すぐに既読のマークがついて、了解スタンプとメッセージが現れる。
『楽しみだね』
と。
私はスマホをバッグにしまい込み、足早に歩き始めた。
亮太が住んでる年季の入った木造アパートは、駅から歩いて15分ほどの場所にある。私の家は、同じ駅の反対口から歩いて5分だ。
行って、どうするというのだろう。
私は腕時計を見る。時刻は19時。今日は月曜日で、いつもなら亮太は帰宅している時間だ。
「亮太、晩ごはん食べたかな……」
ふと足を止め、スマホを取り出して通話ボタンを押す。
亮太の電話番号が画面に映しだされ、あと一押しで通話のコール音が始まることになる。
指が止まった。
声が聞きたい。でも……
同僚とフラワーパークに行く決心をしてしまったことが、私の行動をさらに鈍くさせている。
「子どもじゃないんだもん……お腹が空いたら、なにか買って食べるでしょ……」
私は呟いて、スマホをバッグに戻した。
再び歩き始めた足が重い。おかしいな、さっきと全然違う。
予定の15分を10分もオーバーして、私は亮太のアパートにたどり着いた。
「自転車……ある……」
亮太は自転車通勤をしている。勤め先までは、25分くらいかかると聞いていた。
アパートの階段下に置かれたシルバーの自転車を確認して、私は亮太の部屋を見上げる。
亮太の部屋は、二階の203号室だ。
「部屋の明かり……ついてないや……歩いて買い物にでも行ったのかな?」
どこか、ほっとしている自分がいた。会いたいのに、顔を見るのがなんとなく気まずい。
「帰ろうかな……」
私は重暗い気持ちを引きずったまま、何気なく集合ポストを見た。
一箇所だけ、折り込みチラシが
捨てるのが面倒だからって……あれじゃ郵便屋さんが困っちゃいそう。
203。
私は足を止めた。
折り込みチラシが
『こういうの溜まるの嫌だから、すぐ捨てることにしてるんだ……せっかくきれいに印刷してあるのに、捨てるなんて本当はもったいないと思うんだけど』
亮太はポストから一枚のチラシを丁寧に取り出しながら、そう言っていた。
『製本会社で働いているから、印刷物には愛着があるんだ』
少しはにかんだような亮太の笑顔が、フラッシュバックする。
心臓の音が、どくりと鳴った。
落ち着け、大丈夫よ……だって、既読ついてたもん。私が送ったメッセージ、ちゃんと見てるはずだもん。
私は震える手で、スマホの通話ボタンを押した。
プルルル、プルルル、プルルル、プルルル
「出ない……やだ、出てよ亮太……」
ガチャッ
「あっ、亮太? 私、汐里……」
『大丈夫だから、もう電話してこなくていいよ』
ガチャッ、ツーツーツーツー
私は頭が真っ白になった。
声のトーンがいつもより高かったけど、それは間違いなく亮太の声だった。
もう、電話してこなくていいよ……
「私……振られた……ってことか……」
重かった体に、力が入らない。
『あれ、汐里、彼氏に振られたの? 付き合い長かったのにねぇ』
今日、トイレでアカリに言われたこと……現実になっちゃった……え……なんで……なんでだろう……
「冷却期間置こうなんて、言ったからかな」
『私が男紹介しようか? 高収入イケメンのハイスペ男子』
「他に好きな
ダメだよ、それは私のポジションなんだから。亮太の甘さを知ってるのは、私だけじゃなきゃダメなんだから……
「どうして……冷却期間なんて……私……」
どうして言っちゃったんだろう。
これは罰だ。亮太の気持ちを試すようなことをした私に、神様が与えた罰なんだ。
カンカンカンカンカンカン
踏切の音が聞こえる。
踏切を渡って、5分歩いたら家に着く。
コーヒーの空き瓶に生けられた白い花が、街灯に照らされて鈍く光っているのが見えた。
ひたひたと迫る暗いなにかに、心が息を止めていく感じがした。
私、今、本当に生きてるんだろうか?
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