第23話 対話

「どうぞ……まあ、お菓子なんて気をつかわなくてもいいのに」

 圭介のお母さんは、私の前に湯のみ茶碗をことりと置いた。

 白地に花柄の、上品な柄の湯のみ茶碗。

 そこには深緑色の液体がゆらめき、白い湯気と共に緑茶のいい香りが漂い始める。

 案内されたダイニングテーブルの席に、私は座っていた。

 訪ねた用件は、既に玄関先で伝えている。

 圭介のお母さんはしばらく無言でいたけれど、やがて私を室内に招いてくれた。

「祝日なのに、突然来てしまってすみません」

 私はテーブルの中央にクッキーとチョコレートが載った皿を置く圭介のお母さんに謝った。

「気にしなくていいのよ。祝日といっても、うちの人は仕事でいないし、圭介は出かけてしまったしね……圭介が女の子だったら、一緒に買い物にでも行ったかもしれないけど」

 圭介のお母さんはゆったりした口調でそう言って、私の正面の席に座ると微かに目を細めた。

「エリカちゃんは、お母さんと一緒にお出かけしたりするんでしょう?」

 それは予想外の問だった。

 もっと険悪なムードになって、お母さんから睨まれるかと思ったのに。

「あ……いえ、私はあまり……出かけること自体が少ないので……」

 よくよく考えてみれば、私の行動範囲はほぼバイトか近所の本屋ぐらいだった。

「そうなの……おばちゃんは、憧れてたなぁ……娘と一緒に服を選んだり、スイーツ食べたりしたかった……もう、永遠に叶わない願いだけどね」

 確かに、男子はある程度大きくなるとあまりお母さんとは出かけたがらないイメージがあった。

「私ね、子どもができにくい体質なの」

 ふと圭介のお母さんが口にした台詞に、胸がひやりとした。

 そんな個人的な話を、私なんかが聞いていいのだろうか。

 でも、戸惑う私を目の前にしても、圭介のお母さんは口を閉じなかった。

「何度も初期に流産して、ようやく生まれたのが圭介だった……あの子は、私達の宝物なのよ」

 私達の宝物……そうだよね……圭介のお母さんとお父さんにとって、圭介はたった一人の我が子だもの。

 宝物という一言が、私にずしりとのしかかる。

 私は圭介のお母さんから視線を外し、まっ白なレースのテーブルクロスの柄をじっと見つめた。

 頭に浮かぶのは、何度も見かけた小学生時代の圭介の小さな背中と、中学の制服を着た大きくなった圭介の背中だった。

 そのどちらにも、重暗く淀んだ空気が漂っている。

 私は、それを見るのが辛かった。

 私には、どうにもできないんだから。仕方ないじゃない。

 圭介から目をそらし、意識をそらし。私は友達と笑っていた。

 自分には何もできないのだから仕方ないだろうと自分に言い聞かせ、私は湧き出そうになる罪悪感に蓋をしたのだ。

 そんな私が、今さら圭介のお母さんに謝っても……いや、それでも、私は謝りたかった。

「ごめんなさい……私……圭介君がずっと苦しんでいたのを知ってたのに……何もしませんでした」

 本当に、私は最低だ。

 耳が痛くなるくらいの沈黙が続いた。

 それを破ったのは、圭介のお母さんの柔らかな声音だった。

「そうね……エリカちゃんが圭介に話しかけてくれていたら、圭介もまだ救われていたかもしれないわね……でも、もう過ぎてしまった事よ」

 私は俯いたまま、テーブルの下で握った拳に力をこめた。

「あの頃……私はどうしたらいいのかわからなくて、先生に何度も相談したの……でも、結局圭介は中学二年生から不登校になった」

 うん……知ってる。その頃、たまに見かけた圭介はいつも私服だったから。

「圭介が学校に行けずに部屋に閉じこもっていたあの頃、私はいつも不安だった。仕事先から帰ってきたら、あの子、部屋で首をつってるんじゃないかっていつも考えてた……それに、生きてるのを確認してホッとしても、この子の将来はいったいどうなってしまうんだろうってすぐにまた不安になったわ」

 私は顔を上げて圭介のお母さんを見た。

 湯のみ茶碗を手にしたお母さんの視線は、どこか遠くをみているようだった。

 不登校という、現実の不安と。

 引きこもりという、将来の不安と。

 私はテレビで、成人の引きこもり問題を取り上げたドキュメンタリー番組を観たことがある。

 社会に出る恐怖と戦う息子を、年老いた両親が支えていた。人生の残り少ない両親が、残していかなければならない息子を心配するが……そんな内容だったのを覚えている。

 その時に私が抱いた感想は、“大変そうだな”くらいのものだった。

 その一家族の風景が、我が家にはまったく当てはまっていなかったからかもしれない。

「中学三年になって、学校に行けてないと高校受験はどうなるのかしらって心配していたら、あの子突然、商業高校を受験したいって言い出したの……私はびっくりして理由を聞いたんだけど、教えてくれなかった。でも、今思ったんだけど、それってエリカちゃんがその高校を選んだからなのかもしれないわね」

 えっ⁉ いや、そんな馬鹿な……

 突然出た自分の名前に、胸がどきりとする。

「い、いえ、それは単なる偶然だと思います」

 だってその当時、私が商業高校を選んだ事を圭介は知りようがないもの。

「そうね……まあ、受験の理由はともかく、今の高校に合格した時圭介は、高校は休まずに通うと私と約束したの。私は無理をして病気になる方が困るからって言ったんだけどね……その約束通り、圭介は今まで一度も学校を休んでいないわ」

 そうなのかもしれない。でも、今の圭介はあいつに乗っ取られそうになっている。

 私がゲームに勝たなければ、この先ずっと圭介の中身はあいつなのだ。

 明るい爽やか男子高校生の圭介は、お母さんを安心させるのかもしれないけれど……

「実はね……今日エリカちゃんが来てくれて……話ができて、少しホッとしているの」

 え……ホッとしてる? なぜ?

 圭介のお母さんが笑って言った言葉に、私は驚いた。

「私は、あなたやあなたのお母さんに、ずっと嫉妬してた。あなたと圭介が保育園児だった頃、私はエリカちゃんのお母さんと仲良くしてもらってたから、余計にそう思ったのかもしれない」

 あ、そうか……あなた達って、私とお母さんの事だったんだ。

「圭介の事で悩んでいた時は、エリカちゃんのお母さんを見かけても、なんとなく避けてしまって……本当は、話を聞いてもらいたかったのにね……ねぇ、お母さんは元気にしてる?」

「……はい、うちの母はあい変わらず能天気に生きてます」

 つい素直に返した私の言葉に、お母さんはくすりと笑った。

「そうね、エリカちゃんのお母さんは昔からそういう人だった……その明るささえ私は羨ましくて仕方なかったんだと思う。私は、人見知りだから」

 圭介のお母さんは、控えめと表現したくなるような笑みを浮かべた。確かに、うちのお母さんとはまったく雰囲気が違う。

「明るさというか……うちは兄弟が多くて騒がしいんです。私、一人部屋が欲しくても無理で……高校を出たら働いて、お金を貯めて一人暮らしするのが夢なんです」

 あ、なんか調子に乗って余計な事まで言ってしまった気がする。

「そうね、エリカちゃんのところは四人兄弟だものね」

 お母さんは笑って席を立ち、皿に盛られたお菓子をタッパーに入れ始めた。

「弟さん達に、お土産」

 にっこりと笑って、お母さんは私にタッパーを差し出した。

「すみません……ありがとうございます」

 こんな薄情な私に、お土産?

 ……なんて、優しい人なんだろう。

 私はなんだか胸がいっぱいになって、それ以上なにも言えなくなった。

 大きなタッパーにぎゅうぎゅうに詰められた、クッキーとチョコレート。

 私が圭介の正解にたどり着くヒントは得られなかったけど、やっぱり来て良かった。

 私がそっと吐いた小さな息は、深い安堵のため息だった。

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