第5話 梅干し

「おはよう、白鳥さん」

「おはよう」

 白々しい挨拶を交わす、早朝の教室。

 頭に白い花を咲かせた圭介と本音の話をしたのは、昨夜の事だ。

 まあ“虫”だの“神”だの、その話のほとんどがよく理解できないものだったけれど。

 圭介は、いつも通り海外の作家が書いたという本を読んでいる。

「それ、なんの本?」

 静かに聞いたつもりでも、私と圭介以外誰もいない教室には声は思っていた以上に響いた。

「これ、人間が虫になる有名な作品だよ」

 にっこりと穏やかに笑って答えた圭介に、背筋がゾッとする。

「虫って……あんたじゃん」

 あんな話信じていないけど、なんとなく言ってしまった。

「そうだね」

 圭介はあっさり認めて、再び本を読み始めた。

 その様子が余裕たっぷりに見えて、私は焦りを感じてしまう。

 昨夜、圭介から一方的に持ちかけられたゲームが原因だ。

圭介こいつを現実に引き戻せたら、君の勝ちだ』

 勝ちたい。どうしても勝ちたい。

 だけど、どうしたらいいのかがさっぱりわからなくて、気持ちは焦るばかりだ。

 タイムリミットは次の日曜。日付けが変わるまで。

「しかし……眠い……」

 夜中にあれこれ考え事をしていたせいで、今朝は異様に眠い。

 私はあくびをしながら、いつものように机の上に宿題と教科書を広げ、朝ごはんのおにぎりを取り出す。

 自分で握ったおにぎり。具は、おかかと梅干しだ。

 包んでいたホイルを持ち手の部分だけ残し、おかかのおにぎりを頬張る。

 お米の甘さと絶妙な塩加減。柔らかくなった海苔が旨い。

 鰹節に染み込んだ醤油の味と香りを堪能し、甘いお米をよく噛む。

 リュックから取り出したペットボトルの水を飲むと、少し頭がすっきりしてきた。

「さあて、宿題やるかぁ……」

 仕方なく、私は宿題に取りかかる。

 私は口を動かしながら教科書の文字を追い、ノートに文字を書いていく。

 私は好きなものは後に取っておく派だから、梅干しのおにぎりは最後に食べる。

 粒の大きい紀州産のはちみつ梅は、小さい頃からの大好物だ。

「梅干し……圭介は嫌いだったな……」

 私は手を動かしながら、思い出す。

『すっぱい!』

 あの時圭介は、目に涙を滲ませて顔を歪めていたっけ。

「あれ……いつの話だったっけ……そうだ、保育園の卒園遠足だ」

 次第にはっきりしてくる記憶の中の圭介は、保育園指定の体操着を着ていた。

 遠足先の動物園で、一緒にお昼ごはんを食べた。

 うちの母と圭介のお母さんが仲良しだったからだ。

『リカちゃん、梅干し食べれるなんてスゴイね』

 圭介は、私をエリカじゃなくてと呼んだ。

 ちゃんとエリカって呼んでって、何回も言ったのにその癖は直らなかった。

『私、すっぱいの大好きだもん』

 なぜか勝ち誇ったように、私は圭介にそう言った気がする。

『僕、嫌いな食べ物いっぱいあるよ……ニンジンでしょ、ピーマンでしょ……』

 指折り数え始めた圭介の弁当を覗き込むと、そこには明るい黄色のキャラ弁の世界が広がっていた。

 かわいい。

 そう思ったのに、なんとなく腹がたった。

 私は無言でおにぎりの梅をつまみ、それをキャラ弁の黄色の上に置いた。

『リカちゃん⁉』

 圭介は目を見開いて梅干しを見つめ、叫んだ。

『美味しいから食べてみなって! ほら! 私がかじった後のやつだから、小さいし……平気だよ!』

『う、うん……』

 圭介は私の勢いに勝てずに、恐る恐る梅干しを口にした。

『すっぱい!』

 慌てて水筒のお茶で梅干しを飲み込む圭介を見て、少し可哀想なことをしたな、と罪悪感が浮かんだ。

「あの後、チョコレートあげたっけな……悪いことしたな、あの時ゃあ……」

 いつの間にか、私の視線はリュックの中のおにぎりに注がれていた。

「これ、食うか? 梅干しのおにぎり」

 私は読書中の圭介に、アルミホイルに包まれたおにぎりを差し出した。

 圭介が嫌いなはずの、梅干しの入ったおにぎりだ。さあ、どうする圭介?

「えっ、これくれるの? 白鳥さん、優しいなあ……もしかして手作り?」

 圭介はにこにこしながら、おにぎりに手を伸ばした。

「……お前、梅干し嫌いだったろ?」

 私は圭介の問に答えず、逆に質問した。

「まあね、でも好き嫌いは良くないから、食べられるものは何でも食べるようにしたんだ! うん、おいしいよ!」

『すっぱい!』

 私の記憶の中の圭介は、今にも泣きそうな表情かおをしてる。

 目の前で嬉しそうにおにぎりを頬張っているのは、偽物の圭介なんだ。

「圭介は偏食なんだよ……」

 私は静かに自分の席に戻りながら、呟いた。

 ショック療法で元に戻らないかと思ったけど、満足げにアルミホイルを畳んでいる圭介の頭には、変わらずあの白い花が揺れている。

 失敗か……次は……どうしたらいいんだ……

 私は宿題とゲームの攻略方法とに、頭を抱えたのだった。

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