第3話 虫

「さて、何から話そうか?」

 夜の公園の、冷たいベンチ。

 私の意識は湧き上がってくる恐怖心を押さえつけるのに忙しく、ベンチや空気が冷たくてもそれにかまっている余裕はない。

 私は声をかけてきた圭介から、二人分の距離を空けて座った。

 何から話そう、は確かに圭介の声だった。

 だけど、明らかに口調が違う。昔の圭介のものとも、最近の圭介のものとも。

「あんた……誰?」

 私は覚悟を決めたのだ。

 どんなに怖くても、知りたいことを聞くと。

「誰……か……」

 ふふ、と圭介は笑った。

 唇の端っこが上がっていても、その目は虚ろで少しも笑っていない。

 私は思わず、視線を圭介から地面に移した。

「本当のことを言っても、君は信じないと思うがね……私は虫だ。人間ではない」

「虫? ……虫って……アリとかムカデとかの?」

 てっきりオカルト的な言葉が返ってくるのかと思いきや、虫……しかし、どういうことなのか、さっぱりわからない。

「そうだ……君達人間が、害虫と呼ぶような虫さ」

「嘘つくなよ……害虫なんかに人間を乗っ取るなんて真似、できるわけないだろ」

 私の脳裏に、殺虫剤を吹きかけられてバタバタしている害虫の姿が浮かぶ。

「まあ、君が知っているような害虫達にはできないだろうな」

「はあ?」

「私は神と出会い、その神から特別な力を授けられた特別な種なのだよ」

 また、変なキーワードが出てきた。

 神だって? もう、虫ってだけでも受け入れられないっていうのに。

「神って……今度は宗教の話?」

「いいや、違う。宗教とは、人間の思想の一つだろう? 私の神はな、自ら生み出した素晴らしい力を我らに与えてくださる、神なのだ」

 ……だめだ、こいつの言っていることは、何一つ理解できない。いや、ちょっと待って……今、我らって……複数形じゃなかった?

「まさか……圭介だけじゃないってことなの?」

 私は再び圭介に視線を戻した。

 相変わらず、圭介は虚ろな目をして笑っている。

「そうとも……害虫の繁殖力の凄まじさを、君は知らないのか?」

 知らないよ、そんな気持ち悪いこと。

「もういいや! とにかく、圭介を元に戻してよ!」

 圭介が語る言葉は、どれも理解できない。

 私は、自分の望みを静かに叫んだ。

 そうだ。私の望みは唯一つ。元の圭介に戻って欲しい。それだけなんだ。

「そりゃあ、無理な相談だな……こうなったのは圭介こいつ本人の意思なのだから」

 どきりとした。

 それは、無理という部分にじゃない。本人の意思、という部分にだ。

「私は神から制約を受けている。役目を果たすのは、相手の了承をきちんと得てからにしなさいと、きつく言われているのだ」

「了承?」

「君の深い苦しみや悲しみは私が背負うから、君は休んでいいんだよ? さあ、どうする? ってね」

 私の全身にズザザッと悪寒が走った。

 なんて耳障りのいい台詞だろうか。これを優しい声音で囁かれたりしたら……

「なにそれ……どこが了承を得てるんだよ……乗っ取っていいかどうかなんて、全然聞いてないじゃんか!」

「受け皿の広さや強度は、人それぞれ違う」

 圭介は淡々とした口調で言った。

「受け皿?」

「暴言、暴力、孤立……そういった環境に陥った時に抱く、感情の受け皿さ……これにヒビが入り、砕けるともう他人の言葉が届かなくなる」

 私の脳裏に、思い出したくない光景が蘇る。

 小学生の時に圭介が受けていた、嫌がらせの数々だ。

 それは命にかかわるようなものではなかったとはいえ、大人しかった圭介は相手のいいおもちゃにされていた。

「おや、震えているね……寒いのかな? それとも怖くなったのかな?」

 目の端に映る圭介は、膝の上で握った拳を見つめる私を見て笑っていた。

「私の頭上に咲く白い花を見ることができる条件は、圭介こいつに強い感情を抱いていること、なんだよ」

 もう、あの花の理屈なんかどうでも良くなってきた。でも、そうか……だからあの花は、私にしか見えなかったんだ。

「君が抱いている感情に名前をつけるとするなら、そうだね……」

 答えは、圭介に言われなくてもわかっていた。

 私は握った拳に、ギュッと力を込める。

 罪悪感だ。

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