小さな世界の勇者

「何だと? 貴様、正気か!?」

「当たり前だろ」


 もちろんただ崖から飛び降りるのではなく、斜面になっている部分に飛び移ったりしながらシュトゥルムを追う。

 「セウム」は足を速くする身体強化魔法だが、同時に身体を頑丈にする魔法も含まれている。これは近年になって魔法が発達した結果らしい。

 昔の人たちは、身体強化魔法を使う際には細心の注意を払って使わなければならなかった。それは、ただ足を速くしたり力を強くしただけでは、何も考えずに使うと身体が負荷に耐え切れなくなって壊れてしまうからだ。

 そこで人類は研究に研究を重ね、身体強化魔法に「身体を頑丈にする」という効果を含めることに成功した。

 しかしその分発動させる為の難易度が高くなってしまったので、適性があっても使う者が少ないというのが現状だ。


 そういったわけで、今の俺は通常人間が耐え切れない高さの場所から飛び降りることが出来る。もちろん無敵というわけではないし一歩間違えれば即死なので、普通はこのような無謀なことはしないわけだが。


 時間が経つごとにシュトゥルムの身体が地面から出る面積は大きくなっている。今はわずかに足が埋まっているのみだ。魔力切れが近いのかもしれない。

 やがて開けた場所に出たところでシュトゥルムの動きが止まった。

 その身体は埋まることなく完全に地面から出てしまっている。魔力が切れて逃げるのを諦めたのか。


「ようやく追い詰めたぞ」


 暗闇の中に沈んでいない時のこいつは、物理的な攻撃が通る。魔力がほぼ切れた状態の今なら俺でも倒せるはずだ。

 だが、シュトゥルムは口の端を吊り上げて言った。


「追い詰められたのはどちらかな?」


 言われて気付く。

 急な丘の中腹という、陸上の孤島とも言える地形。身体強化魔法の使い手でなければ来ることは難しいし、そもそも今この状況を知る人自体が少ない。

 つまり、今の俺は救援が全く望めない状況なのだ。

 狙ってはいなかったのだろうが、たまたまこの場所に行きついたことで、俺を倒して逃げ切る算段を立てたのか。

 しかし、そんなことはどうでもいい。


「お前だろ。何言ってんだ」

「いいや貴様の方だ」

「だからお前だって」

「悪あがきはよせ」

「お前は逃げられないじゃん。俺はどうにかなるけど」

「そんなことはない。追い詰められているのは貴様だ」

「いやいやお前だろ」

「何を言う。いい加減に貴様の方だと認め」

「もうどっちでもいいよ!」


 追い詰められていようが関係ない。俺はこいつを倒すとそう決めている。


「ああ、なるほど。時間稼ぎのつもりか? 中々考えたな」

「いや違うし」

「まあいい。そういうことにしておいてやろう」


 こいつ全然人の話聞かないな。

 俺は木剣を鞘から抜いて構えた。


「ほら、さっさと決着をつけるぞ」

「貴様、一対一には大層自信があるようだな」

「そういうわけじゃないけど。お前、魔力があまりないんだろ」


 特殊な能力や魔法さえ使われなければ、いくら魔王軍幹部が相手でもそうそう遅れは取らないと思っている。


「そうだ。だが、我はただの獣とは違う。あまり舐めてくれるなよ」


 まだ奥の手でも秘めているのだろうか。いずれにせよ油断禁物なのは確かなので警戒するに越したことはない。

 しっかりとシュトゥルムを観察しつつ、一歩を踏み出そうとすると。


 シュトゥルムの腕が、伸びた。


 一瞬目を疑ったが思考する暇はない。

 月明かりと夜目で辛うじて判別出来る、宵闇よりも濃い黒が伸びて、まるで鞭のように俺の左から襲い掛かった。

 何とか反応するが、その一撃は重く、硬い。


 慌てて構えた木剣ごと俺は吹き飛ばされる。


 からんからん。


 地面を転がりながら、離れた場所に落ちた木剣の音を聞いていた。


「うっ……ぐ」


 痛む身体をどうにか起こすと、自然とうなり声が漏れる。


 完全に見誤っていた。


「ぬう。今のでやれぬとは。やはり他の人間とは違うな」

「そりゃどうも」


 人間の身体構造なら有り得ない膂力だ。あれ程長く腕が伸びているのに力はしっかり入っているし、鞭のようにしならせて攻撃してくるので重さが増す。

 一対一で救援も望めない今の状況だと、身体強化魔法ありならまともにもらっても一回は耐えられるだろうが、二回目以降はわからない。それ程の威力だ。


「しかし、そんな便利な能力があるんだったら、憑依ももっと楽に出来たんじゃないのか?」

「憑依するには我の頭部が対象に近付く必要がある。そう簡単な話ではない」

「なるほどな。いい情報をもらったぜ」


 そして何よりあのリーチの長さが厄介だ。

 どれ程自在にあの腕を操れるのかにもよるが、懐に忍び込んで一発入れるのには相当苦労しそうだな。


「情報を得たところでもはや貴様には意味のないことだろう」

「何でだよ」

「我が優位に立ったこの状況、どう覆す気だ」


 そう言いつつ、シュトゥルムは俺の木剣へと腕を伸ばして拾い上げる。


「ほれ、お前の武器はここにあるぞ」

「『ル・セウム』」


 魔法を発動して瞬間的に加速し、木剣に迫り、掴んだ。

 シュトゥルムも多少は躱そうとしたが、動きが鈍い。


「やはりその魔法を使うと速さが段違いだな」

「当たり前だろ」


 しかし、腕から木剣を引き抜くことが出来ず競り合いになる。


「ふんっ!」


 するとシュトゥルムは腕を自分の元へと戻しつつ大きく横に振った。

 俺は振り払われてしまったが、手元には木剣が収まったままだ。

 再び地面に放り投げられた身体を起こすと、シュトゥムは自分の腕を凝視しながら独り言のように呟いた。


「力を抜いた際に取られてしまったか。これだから魔法を使わない戦いというのは少々苦手なのだ」


 今ので恐らく理解した。こいつの腕は、伸縮自在の糸のような物を想像すればわかりやすい。

 糸を引っ張っている時、つまりあいつが腕を伸ばしている時は力を入れ続けなければならないが、力を抜けば一瞬で元に戻る。


「まあいい。武器を取り戻したところでそうは変わらん」

「それはどうかな」

「抜かせ!」


 敵の腕が再び伸びる。やはり鞭のようにしならせて横から叩く気だ。


「『ル・セウム』」


 もう一度魔法を発動させると、腕を飛び越えることで攻撃を避けつつ、攻撃の進行方向の逆側へと位置取る。

 すると、敵は腕を逆に振るのではなく元に戻した。やはりだ。

 腕を伸ばす時には力を入れっぱなしにしているので、一度鞭のようにしならせて振った腕を逆方向へと動かすのは、強烈な負荷がかかっているので無理だ。故にあの攻撃をかわされると、一旦腕を収めざるを得ない。


 そして、その隙を見逃さずに一気に詰め寄った。


「おらっ!」


 気合を入れて木剣を振ると、相手は腕でそれを受ける。

 鍔迫り合いのようになりながら口を開いた。


「お前、その腕痛くないのか」

「人間と一緒にするな。我はそのような軟弱な生き物ではない」

「そうかよ!」


 鍔迫り合いを解いた。

 こちらは木剣で、相手は素手で、まるで剣戟のような打ち合いを繰り広げる。

 不思議な感触だ。あいつの腕は人間の素手とは全く違う。硬さで言えば木と同じくらいの感じだろうか。


 何度か打ち合ったところで相手に隙が出来る。それを見逃さず、腕を払って懐に一撃を打ち込んだ。


「ぐおっ!」


 シュトゥルムがわずかにのけ反り、すぐに後退した。


「わずかに隙を見せてしまったが致命傷には程遠い。それにお前の魔法も無限に使えるわけではなかろう。互いに魔力が尽きていれば分があるのは私の方だ」


 残念だがシュトゥルムの言う通りだ。

 「ル・セウム」が使えなければ、あいつの腕から繰り出される攻撃を回避する術はなく、近づくことすらままならない。

 もちろん致命傷を与えやすい可能性のある武器を持ってはいるが。


 俺がちらりと腰に帯びた剣に視線をやると、シュトゥルムがそれについて言及してきた。


「その武器は扱えないのだろう? どういった理由で腰に帯びているのかは知らんが、この状況で使わない理由など存在しないからな」


 シュトゥルムがそう思うのも無理はない。何せ、俺自身ですらもこの状況でこの剣を使わない理由がわからないのだから。

 剣を使えばこいつに致命傷を与えるのは容易いだろう。

 だが逆を言えば、そんな武器だからこそ俺は恐れているのかもしれない。相手は魔物とはいえ意思の疎通が出来る生物だ。つまり姿形が違うだけで、人間と戦うのと心持ちとしては同じと言える。

 俺は、人間を斬る覚悟なんて出来ていない。


『その剣は、斬る為ではなく守る為に抜け』


 親父の言葉が、またも頭のどこかで反芻される。

 わからない。わかんねえよ親父。守る為にはどうしたって斬らなきゃいけないだろう。斬らずに相手を無効化出来る技量を身につけろってことか? でもそんなものがあれば、そもそもこの剣を使う必要すらない。


 あれこれと考え込んでいる内に、気が付けば敵の腕が目前に迫っていた。

 かろうじて木剣で防御するものの、俺の身体は無造作に吹き飛ばされてしまう。武器も恐らくは崖下に消えてしまった。そうなるともう回収は出来ない。


「ははは! どうした、死の可能性を前にして怖気づいたか!?」


 身体を地に伏せたまま、俺はぼんやりとシュトゥルムの口上を耳に入れている。

 死の可能性か。確かに怖いのかもしれない。自分が死ぬことじゃなくて、他人が死ぬことが。

 戦う相手を死なせてしまうこと。あるいは、大切な人たちがいなくなってしまうこと。


 自分が死ぬなんて言われても、実感が全く湧かないこともあってどうということもない。なのに、関係のある誰かが死ぬとなるとこんなにも怖い。


「安心しろ。お前を消して逃げることが出来たら、回復した後にあの仲間たちもすぐにあの世へ送り届けてやる」

「何だって?」


 思わず口を開いた。


「特にあの『愛』を知る小娘だ。あやつの記憶は確実に覗く。そしてその後に消えてもらう」

「そんなこと、絶対にさせねえ」


 痛みで震える身体を無理やりに起き上がらせた。

 そんな俺の様子を見たシュトゥルムが愉快そうに笑う。


「やはりあの娘のことになると食いつきが違うな。それも一種の『愛』か?」

「ああ、そうだよ」

「お前は不可解で不気味だが興味深いのも事実。弱らせるまでの間に魔力が回復していれば、消す前に記憶を覗いておくのもいいかもしれないな」


 さっき、憑依されたクリスと戦っていた時の感覚を思い出す。大切なものを守る為に大切なものと戦ったあの気持ち。

 そうだ。そういうことだったのか。


 守りたい。でも、守る為には何かを斬らなければ、斬り捨てなければならない場合だってある。

 だから必要なのは決意、そして覚悟なんだ。


 戦う相手を倒さなければ大切なものを失ってしまう時。俺は迷わず大切なものを取りたい。

 敵を斬る。倒す為ではなく、守る為に。


 だから俺は決意した。大切なものを守り抜くということを。

 だから俺は固めた。その為に必要なら、誰かを傷つける覚悟を。


 勇者にはなれなかった。自分には手の届かない人類という広大な範囲の人々や、時には敵までも守ってしまう、偉大な力を持ったあの存在に。

 ならば今日からは、せめて手の届く範囲だけは。大切な人たちや、目の前にいる困っている人くらいは、助けられる存在に。


 勇者ではなく「勇気ある者」になる為に。


 もう迷うことはなかった。


 腰に帯びた剣の柄に手をかけ、躊躇することなく鞘から引き抜く。


 宝剣「レイノルド」。

 レイノルドというのは俺の父親の名前だ。ちなみに普通に生きているし、今朝も元気にご飯をおかわりしていた。

 どれだけ歳をとっても俺をからかって遊ぶし、適当で雑なところがあるんだけどどこか憎めないクソ親父だ。この剣をレイノルドと命名したのも他ならぬレイノルド本人であり、段々と殴りたくなって来た。

 まあ、今はそんなことはどうでもいい。


 俺が剣を抜いたのを見ても、シュトゥルムは余裕のある態度を崩さない。


「ようやくそれを使うか。しかし、扱えないのだろう? 実戦で使ったことがなくて振れないか、はたまた他の理由があるのか」

「そんなところだ。いや、そんなところだった、か」

「お喋りはここまでだ。行くぞ!」


 横に腕が伸びて敵の攻撃準備が始まる。


「『ル・セウム』」


 そのわずかな時間に魔法の発動を済ませた。その直後、強力な黒の鞭がこちらを目掛けて振るわれる。

 俺は腰を落として地面と限りなく水平に近い角度で剣を横に構えた。そして、敵の攻撃が当たる直前、身体を仰向けに倒しながら、わずかに自分の頭上を通過する黒い腕に対してそれを振った。

 確実な手応えだ。見ればシュトゥルムの腕は分断され、片方が月明かりを浴びながら勢いよく宵闇の中を泳いでいった。


「ああああぁぁぁぁ! 我の腕がああああぁぁぁぁ!」


 シュトゥルムの悲鳴を聞きながら身体を起こし、駆ける。

 油断していたところに腕を斬り飛ばされ、混乱の最中にある敵は急接近してきた俺にも上手く対応できていない。


「人間風情が!」


 慌ててまだ無傷な左腕を振って来る。俺はそれを左下から右上へ、逆袈裟斬りの軌道で斬り払った。


「左腕もおおおおぉぉぉぉ! おのれ!」


 となると、残る攻撃手段があるとすれば頭部かあるいは――。

 俺は飛び、空中で身体を横たわらせた。視界には足下を狙った、相手の足か尻尾かよくわからない部位を使った攻撃が映る。

 それは俺の足があった場所をしっかりと突いていた。


 剣を地面と水平に構え、腕を振りながら身体を時計周りに回転させる。

 まるで木を切ったような感触と共に、足の先端が転がっていく様子を見届けながら着地した。


「あ、足まで……」


 今斬った部分を失うとシュトゥルムは動けなくなるようだ。その場に留まったまま、上半身だけを動かして飛んでいった自分の足を見つめている。

 目の前に立つと、俺は背の小さくなったシュトゥルムを見下ろす形になった。


「ひっ」


 もはや抵抗も出来なくなった相手を見ていると、どうしても同情の念が湧いてしまう。

 しかし、俺はもう決めたのだ。守る為に敵を斬ると。


 剣を敵の目の前で構え、止めを刺すためにそれを振り上げた。


「ちょ、ちょっと待て!」

「何だ?」


 命乞いでもする気だろうか。思わず手を止め、剣を下ろしてしまう。


「わ、ワンワン! ワオーン!」

「え?」

「ワンワンッ! ハッハッハ」

「何やってんのお前」

「犬だ! 人間は皆犬が好きだろう!?」

「……」

「グルルルル……ワンッ! ワオーン! どうだ、愛くるしいだろう! もはや私を斬ることなど出来ないのではないか!?」


 再び剣を構えて迷わず刺した。


「キャイ~ン……」


 情けない声を出しながら、シュトゥルムの身体は灰になり、丘を流れる穏やかな風に乗って消えていく。

 ふと夜空を見上げれば、そこには星屑の海が広がっていた。


「仮に俺が大の犬好きだったしても迷うことはなかっただろうな」


 もはや意味のない指摘は宵闇を漂い、やがて月へと吸い込まれていった。

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