第11話
逝く間際だったかもしれない。僕の体はもう動かない。幻影の思いが揺らぐ。一切抵抗しない僕の気持ちが伝わったのかもしれない。彼女が無事なら、僕は幻影に体を譲っても良かった。そう、消えてしまっても。
(もう儂を切り離さないのか)
や、く、そく、する。口を動かした。声はもう出ない。
(もう儂に痛みを押し付けないのか)
う、ん。頷いて応えた。
(もう一人きりでは、ないのか……)
ふっと呼吸が楽になった。今迄の傷みが嘘の様に引いていった。
僕がいる。奈々もいる。お前と僕は一つになって共に。喜びも痛みも楽しみも全部。
(そう、か)僕の中にすとんと何かが戻っていく。これが僕の切り離した物だった。
果心居士の幻影はようやく僕の中で眠れるのかもしれない。訳も分からず涙がこぼれた。幻影が流した涙なのか良く分からなくなっていた。里をずっと見つめていた気がする。恨みで壊れそうになった気がする。痛みにのたうち、悲嘆にくれた。
生まれる前の自分を殴りたくなった。
しばらくの間、様々な感情に揺り動かされ動けなかった。
目を開ける。
「奈々……」
起き上がり奈々を探す。まだずきずきと体中が痛んでいる。見回すと黒い煙だけが辺りと包んでいた。
「これが、奈々?」
幻影と一つになれば直に返って来るものだと思っていた。数舜戸惑う。
「元に戻さないと」
彼女が人であった事を思い出せる何か。そう何かを。頭を抱えた手を下ろした瞬間、ぽけっとに入れたままの物にぶつかって僕は気が付いた。あった! 彼女の言葉を思い出す。
――幻術は現実に影響を及ぼし、現実もまた幻術に影響を及ぼす――
これなら幻影になった彼女を取り戻せるかもしれない。
急いで取り出し。僕は缶のタブを開け、黒い煙に向かって思いっきりぶっかけた。二人の思い出の飲み物、これなら。僅かに煙が渦を巻いた。
時間が過ぎる。煙が段々広がっていく。
「なんでだよ! 帰って来いよ。お願いだから……」
大声で叫んだ後、無力感で一杯になった。やっぱり僕は何も出来ないんだ。諦める事ができるならどんなに楽だったろう。二人の二日間を思い出す。
家で出会った。学校で向かい合ったネズミの彼女。家で再開して少し喜んでいた顔。電車での出来事。
学校? 夢で見たあの居士の顔が頭をよぎる。そうか。
思い出せ、果心居士と融合した今なら幻術が使えるはず。
「ううっ……」
思い出そうとする度に頭が酷く痛む。そして、僕は……。駄目だ、幻術じゃ彼女は救えない。
本当に?
(よく考えろ)
心の奥からそんな言葉が聞こえた気がする。
思い出の品物を使ってみた。言葉も投げ掛けた。何かが足りない。
声が届いていないのか? ふと体の中に電車で息をした時に彼女の断片を吸い込んでいる事を思い出した。言葉では多分今の彼女には分からないのだろう。
七宝行者、外法と言われる由縁に思い当たる。意識を集中させて、術を唱え、現実を捻じ曲げ、幻術に侵す。それは自身の体を蝕み、相手をも侵食する。幻を現としこの六宝をもって理とする。意識、術、現実、幻、相手と自身の体、物、理と言う七つの宝を自在に操る行者こそ七宝行者だった。
頭の中から足先までイメージする。術を唱えながら体中からゆっくりと肺へ。吸い込んだ全てを煙へと戻していった。これは服の一部か。彼女が度々服をぼろぼろにしていた事が思い浮かぶ。こうやって本体を守ろうとしていたのかもしれない。
僕は奈々に対する思いをありったけ乗せて、息を吐き出す。僅かに彼女の服の一部だった煙が本体の煙に混ざりあっていく。
煙が蠢く。最初は緩やかに。徐々にそれは一つの形を象り、奈々を構成していった。
「そう? 爽。あたし……」
どことなくぼんやりしている彼女へ駆けつけ抱き締める。
「痛」
昨日の傷が痛むのだろうか。そっと腕を解き、顔を見つめた。
奈々の頬が朱色に染まっている。と同時に、ん? と首を傾げた。辺りにコーンの匂いが充満していた。それに気づいて、僕を突きはがす。
「なんでポタージュまみれなのっ!」
頭の上から服の下までコーンポタージュで濡れている。頬を膨らませてぶるっと体を震わせた。
怒っている顔も可愛い。笑いながら、両目から再び涙があふれた。山の端に朝焼けの日が昇る。赤かったのはこの日の出のせいか、それとも。
短いけどとても長い三日間だった。ようやく全てが終わった事を実感したのだった。
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