第9話
ちらりと狼がこちらを見てあの幻影を僕の反対の方へと誘導する。
道を通り抜け、迎えとの合流地点へ。
居士が攻撃しない。子供をあやす様に狼との間合いを詰める。
走りながら僕は振り返り、無事を確認してまた駆ける。それを何度も続けた。坂を転びそうになり、木にわざとぶつかって速度を下げる。僕はもう一度奈々を振り返った。
飛び掛かる狼をついに骸骨が覆いつくす。静かに。柔らかく。もがきなら狼の輪郭がぼやける。そしてついには消滅した。
足を止める。
叫びたい気持ちを抑え、僕はその場にしゃがみ込む。
「これは夢だ。悪い夢だ。きっと幻なんだ」
こぼれる雫。頬をつたう温かさが現実だと僕に告げる。ふざけるな。こんな別れ方って……。地面を殴りつけた。指先から痛みが広がる。だけど、呆然と佇んでいる余裕は僕には無かった。ゆっくりと立ち上がる。奈々が稼いでくれた時間を無駄にする訳にはいかない。もう直ぐ動き出す。奴が来る。
僕は山の斜面を一歩一歩里に向かって歩き出していた。
「爽様」
侍女と名乗る女性が僕を里の長の家へと導いてくれる。
あの後、果心居士は追って来なかった。遠間で見た時同様静止していのだ。奈々から貰った二枚目の手紙、地図が僅かに発光する文字で書かれていた。現在位置と目的地が動いて僕に教えてくれた。合流地点で女性が待っていた。
数刻が過ぎる。
家々が規則正しく立ち並ぶ。暗い事もあって全貌は見えなかったが、里の入り口で一瞬立ち止まった。里を草木が覆う様に群生していて柵が里を囲んでいた。
思ったより里は大きく、人々は家の中に居るのか見当たらない。深夜とは言え、居士に攻撃していた人達は少しでも安全な場所に避難したのかもしれない。
辿り着いた家の中へと招かれた。記憶の中にあった時より少し歳をとった男性、長が床に張り巡らせた陣の中で対面してくれた。
侍女が持ってきてくれたお茶には触れず、起きた事を告げるだけでいっぱいいっぱいな僕の話しを聞いてくれる。
「奈々が消えた。ですか。爽様、お記憶は?」
「大分戻りました。でも、奈々が」
「爽様の、いえ、果心居士様の幻影がまだ居られます。なら完全に奈々は消えてないでしょう。幻影のまま取り込まれた。そう言う事だと」
一拍おいて長の口が開く。
「これは恐らく爽様にしか出来ない事です」
「やります! なんでも!」
僕の言葉に応え里の事を紐解いてくれた。長が神妙に語りだす。
「昔、爽様が生まれる遥か昔。爽様が果心居士様だった時、居士様はそれまでの生き方に後悔していたと書物に記されていました。ご自分の中にある幻術師としての記憶、そして、幻術で作った半身にその全てを託し、ご自分は輪廻の輪に戻る事を決意されたのだとか。やり直したかったのでしょう。普通の人間としての生を。ある石に封印された半身は果心居士様が亡くなると同時に抵抗を止め長き眠りにつかれたそうです。爽様が生まれるまでは」
僕の存在その物があいつと共にある。衝撃だった。なら僕は。
「あれはあくまで幻術で作られた者です。爽様と融合した時、本当の意味で果心居士様は復活なされる。爽様が育つまでの間、記憶と共に果心居士様を封印させたのは爽様ご自身。思い出されてはいないですか?」
長が苦い顔をして話してくれた内容を飲み込んだ。
「爽様。子供の頃ならきっとあの幻影に取り込まれてしまった事でしょう。ですが、成長した爽様なら、あるいは……」
「あの幻影は。もしかして里には無害なんでしょうか?」
一つの疑問を投げかける。里に危害が及ばないのであれば、なぜ皆僕を助けてくれるのだろう?
「果心居士様は長い事この里に封印されていました。その意識は昔居た里の者全ての夢の中に現れて、いずれ私達全てを滅すると言われたと伝えられています。その為に里への出入りを厳しくして結界を覆いました。爽様が転生なされるまでは。いつか果心居士様の生まれ変わりがあの幻影をなんとかして下さると信じて。それだけが我々の救いだったのです」
「里を捨てる事は」
「それこそ出来ません。昔里を捨てた数人が半年も経たずに戻って来た事があるそうです。ある者は半狂乱で、ある者はやつれはて、ある者は病死しました。果心居士様がそれを許さなかった。外へ行けるのは三か月が限度かと。結界内でこそ我らは暮らしていけるのです。奈々と爽様は特別と言っていい。爽様のお父様は本当の御父上ではありません。話すと長くなるので全てが終わった後に」
親父……。でも、育ててくれたのは親父だ。それだけは変わらない。
話し疲れたのか長は侍女が先程運んできたお茶を一口含んで飲み込んだ。
「僕は何をすれば」
「爽様。あの幻影を取り込んで本来の爽様になっては下さいませんか?」
彼女は知っていたのだろうか? いや、奈々だったらきっと反対しただろう。でも、そうする事でしか救えないのなら。考えるまでもない事だった。
「分かりました」
「今里の者が総出で結界を維持しています。術の外からの攻撃を抑える為に。爽様、私も行きたいのですが、ここを離れる訳にはいきません。頼めますか?」
話しながら長が周囲からの幻術を強化しているのは気づいていた。結界が破れればもっと悲惨な事になるかもしれない。だからこそ一人でやらなければならないのだと自覚する。
「はい」
にっこりと長が笑う。伝えられる事は全て教えてくれたのだろう。後は幻影と対峙するだけだった。
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