第5話

「うそ。こんな事って」


 車内の電灯が暗くなっていく。靄に包まれた内壁が黒ずんでいる。ここに何時までもいちゃいけない。僕は思わず奈々の手を取って通路に立ち、車両を移動しようとした。が、結界そのものがこの一両だけにしかかかっていないせいで通路へと続く場所は既に暗黒へと変わっていた。僕と奈々が立ちすくむ。逃げ場がない。


「いい爽。全てこの世は夢幻。すなわち自らも幻となれるし、実体ともなれる。でも、もし、思い出して使える様になっても使い過ぎないでね」


 いきなり何を。


 僕に紙束を握らせて、そう言った奈々の姿がぼやける。体全体が黒く染まり靄よりも黒い煙となって車両内部を覆いつくした。外から来る靄が押し返されていく。息が……出来る? 不思議とその煙は吸い込んでもけむくはなかった。なにより煙を通して廻りが見通せる。


「奈々……」


 それは靄と煙の戦い。僕は怯えている事しか出来なかった。そう何も。


 黒い煙は押され、灰色の靄が車内に入ってくる。窓の外は鳶が砕け、窓ガラスも砕けた。靄となる速度が上がっている。瞬間、意識が白濁する。何も見えない。彼女の悲鳴が聞こえた気がする。





 どこだ? ここ? 僕は……知らない駅のホームにいた。呆然として辺りを見回す。ぼろい構内。山々や田畑が見渡せる。山がない方面にぽつんぽつんと家が建っていた。そこで気付いた。手には何か違和感がある事を。


「これ」


 奈々が僕に残してくれた二枚の紙だった。手紙?


――これを読んでいるって事は。何かが起こったのね。だからあの絵から行こうって言ったのに。ごほん。地図を二枚目に書いておきました。里には結界が張られているから、結界に触ってください。お父様が迎えをよこすでしょう。駅構内の壁に貼ってある絵は何かがあった時用にそこへ送る為の秘密通路になっています。たどられると厄介なので捨ててください。絵は一人用なので私がそこへ行く事は叶いません。また会おうね。爽――


「ごめん」


 誰に言うともなく呟いた。あの時あの絵から行っていれば。でももう後の祭りだ。貼られていた絵が描かれた紙を壁から剥がし、丸めてごみ箱に入れる。ホームの周りにある先程見た畑の一角から火が立ち昇っている。夕日と野畑焼が赤く輝いていた。


 何かが起こっている。その標的は、僕だ。それだけは分かった。両手が震える。僕が助かるにはここに行くしかないのだろう。奈々は……。


 考えてもしょうがない。出会ってからたった二日だ。だけどそう切り捨てるには僕の心は彼女に傾きすぎていた。


 ごみ箱に捨てた絵をもう一度取り出し、急いで駆けだす、畑に向かって。無人駅の改札をくぐり火があがっている近くへ。


「僕は、ここだ!」


 そして、絵が描かれた紙に大きな声を投げ掛けた。野畑焼の火の前に絵を翳す。数分が経ち。靄が絵から溢れ出した。次々と炎の中へ。全部燃やしてやる。そう思わずにいられない。


「ぐおおおぉぉぉ」


 おぞましい断末魔が響く。思わず紙を放しそうになった。耳を塞ぎたい欲求に耐える。そして、それは三十分も続いたのだ。ようやく靄が出てこなくなった絵をそのまま燃やしホームへと戻った。とぼとぼと歩み寄り、椅子に腰を下ろす。震える体を両手で抱き締める。


 と、電車が止まった。窓ガラスが割れた車両に僕の目はくぎ付けになっていた。


「奈々」


 降車口から彼女の姿がよろよろと現れる。僕は思わず立ち上がると彼女の前まで歩みよった。


「ばかっ」


 ぐーで殴られた。怒ってる。それは怒るか。やっぱり彼女の上着は破れていて、僕の上着を彼女の肩へとまわした。僕の胸に頭を押し付けられて数分が過ぎた。深呼吸をした奈々が顔をあげる。


「とりあえず」


 口にすると同時にもう一度はたかれた。痛い。でも、反論は出来ない。彼女が身を挺してまで逃がしてくれたのをふいにしたのだから。





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