魂の話

日出詩歌

魂の話

 人の死はあまりにも呆気ないものだった。

 父から祖母の訃報を聞いた時、私は「そうか」とだけ返事をした。

 葬式の会場には親戚一同が集まっていた。

 見知った者。覚えていない者。初めて会う者。中には5時間かけて遠路はるばる飛んで来た者もいた。

 その内1人が、私に話しかける。

「おばあちゃん急に亡くなっちゃってねぇ。寂しいよねぇ」

「ええ、そうですね」

 嘘を吐いた。

 不思議とそこまで寂しさは感じていなかった。

 何しろ御歳91の大往生である。ふと触れた祖母の肩が思うよりずっと矮小だと感じた時から、いずれこういう時が来ると覚悟はしていた。それからは一度も「長生きしてね」という我儘を口にする事は無かったし、いかに思い出を作るかを念頭に置いて接してきた。何日か前に会話をした事も、後悔を軽減する免罪符になっているのかもしれない。ともあれ今日は故人を偲び悲しみに暮れる為に来たのではない。祖母を丁重に送る為に拳を固めてやって来たのだ。

 式場には祖母の生前の写真と、祖母が好きだったフラダンスのBGMが流れている。祖母らしい、粋な演出である。微笑む遺影の周りには花が飾ってあって、故人を送るには相応しい華やかさだった。

 私は父に促され、その奥で内心恐れを感じながら綺麗に横たわる祖母と対面する。

 途端に悟った気分になった。

 あ。

 これは人間じゃない。

 ただの死体だ。魂の抜け殻だ。

 魂は何処か遠くへ行った。本人はもう此処には居ない。

 どうやら自分は目の前のそれを人間とは認めないらしかった。

 老人の弛みが伸ばされ、頬には喜怒哀楽が無い。人形は硬いもの。人間は柔らかいもの。亡骸はその中間だった。肌は柔らかさがあるのに、そこには暖かみが無いのである。

 眠っているようだ、なんて嘘だ。

 亡骸はそこに在るだけだった。

 それからの私はなんとも冷めてしまっていた。

本人が居ない抜け殻を、本人だと言い張るのが辛かった。神聖な儀式の筈なのに、一種の飯事に思えて仕方なかった。告別式の空気も好かなかった。私は亡くなったと聞いた瞬間にさっぱり別れは済ませてきたつもりである。なのに寂しいふりをしたり、重々しく掘り返すのがなんとも苦しかった。

 それ以上に、死を直視するのが嫌だった。

 本来生者にとって死の意識は遠くに置かれるものなのに、唐突に形あるものとして目の前に突きつけられる。それに対して杭で胸を刺される様な耐え難い忌避感を感じていたのである。遺体を人間として認められない理由は、きっとそういうのも入っていたのだと思う。

 遺体に花を添える時も、自分で冷たい奴だなと思えるほど、事務的で淡々としていた。花を両手一杯に受け取り、隙間無く埋める。副葬品の服で飾っていく。着せ替え人形の様だった。

「故人様のお顔を見られるのは最後になりますので、是非お顔に触れてあげて下さい」

 葬儀屋にそう言われて、私の内に好奇心が生まれた。死の冷たさを感じてみたい、と思ったのである。死人に触れるのはここしかない。幼く邪な心がここにあった。

 死に触れるには少しばかりの勇気が必要だった。本来相容れぬものとの境界を越える試練であった。

 私は目の前にある死の気配に圧倒されていた。それでも幼い好奇心が私の腕を取り、少しずつ亡骸の側へ連れて行く。

 そして死にそっと触れた。

 一瞬身震いをして即座に手を引っ込める。

 人間と人形の中間。その表現はある意味正しかったのかもしれない。

 優しい肌には合わぬぞっとする冷たさだった。

 まるで氷解したばかりの保冷剤に似ていた。



 棺が閉じられた。

 喪主の挨拶として、父が前へ出る。

「皆様今日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございました」

 父の口から、祖母が亡くなるまでの状況が語られていく。

 深夜12時頃、マンションの下の階に住む祖父から我が家に連絡が来た事。その日の祖母は至っていつもと変わらず、立って歩いて会話もしていた事。それが祖父が夜中トイレに立った時に倒れていた事。父と母は本当は休みたい筈なのに、ほとんど一睡もせずに夜を越した事。

 救急車に運ばれている間、医師に告げられたという。

「もって後1、2時間だと、こう言われました」

 父はその時、どんな気持ちだったろう。

 今までずっと側に居てくれた人が、あとほんの少しで居なくなってしまうのである。

 祖母の残り僅かな時間を長くする事も短くする事も、自分達には出来ない。

 けれども動転していたってそんな事を言われたって、諦める選択は絶対に父には無かった。

 信じられないと思いながら。それでも奇跡を信じながら。

 声を絞って愛する人の名前を呼び続けた。

 父は涙声になってしゃくり上げる。私はそれを笑わない。

 それは父が祖母を愛してた証だから。

 私はそこに、何か暖かいものを見た。棺桶の中に横たわる遺体には足りないものが、ここにあった。

「病室でも手を握り続けながら、ずっと『お母さん、お母さん』と呼び掛けました。本人も手を握り返してくれている様な、そんな気がしました」

 祖母が最期まで生き、父も最後まで祖母を愛した。

 その証が、祖母の魂がこの思い出の中にはあったのだ。

 それ故、私はこれを魂の話と呼んだ。

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