第九話 森に出るもの
M王国より西に広がる広大な森を五日歩き進むと、エルフ族の村に着く。
エルフは青い瞳と長く尖った耳、金色の髪に白い肌を持ち、狩猟と魔術に長ける。大抵は他の種族との関わりを求めないが、一部の好奇心に富む者は、冒険者になって、人間達とともに町で暮らす場合もある。
とは言え、ほとんどのエルフは森を出ることがない。逆に言えば、森こそが彼らの領域である、とも言える。
ところがその森の、エルフの村の近くに、ある時期から奇怪なものが出るようになったという。
ただしモンスターの類ではない。あらゆる魔法が通じないというそれは、もしかしたら最近この世界を悩ませている、「ゴーストのような何か」かもしれない。
その目撃譚を二つ、ご紹介したい。
オークのBさんから聞いた話だ。
オークというのは、豚に似た顔の人型種族である。男しかいないため、他種族の女をさらって子供を産ませるという性質を持つ。それ
オークは特にエルフの女を好むそうで、Bさんもしばしばエルフの村の周辺を訪れては、さらえそうな女はいないかと物色していた。
もっとも、エルフの方も警戒心が強いため、なかなか手を出す隙がない。
直接村に乗り込むのはBさんにとってリスクが高いし、村から離れたところを狙うにしても、エルフの方が機敏で逃げ足が速い。かと言ってしつこく追えば、弓や魔法で返り討ちに遭いかねない。
ではなぜ、そこまでしてエルフをさらいたいのか。Bさん曰く、それは「ロマンだから」だという。
美しく、かつ手に入れるのが難しい――。だからこそ、オークはこぞってエルフに挑みたがるものなのだそうだ。
ところがそんなBさんが、ある日を境に、エルフの村に近づくのを、パタリとやめてしまった。
とてつもなく不気味な体験をしたからだ、という。
ある春の昼下がりのことだ。
Bさんがいつものように、エルフの村に向かって、草深い茂みを掻き分けながら歩いていると、不意にすぐ近くで、ガサガサ、と草が鳴った。
初めは、獣か何かがいるのか、と思った。
Bさんは、携帯している大ぶりの
相手が鳥やウサギなら問題ないが、さすがにオオカミやイノシシなどに襲われたら、オークと言えどもひとたまりもない。
慎重に鼻をヒクつかせる。……獣の臭いはしない。
代わりに、人間の臭いがした。
しかも女である。オークの鋭敏な嗅覚は、対象のフェロモンさえ嗅ぎ分けるという。
しめた、とBさんは思った。
Bさんの目的はエルフだが、女は何人いても困ることはない。今日のところは、手っ取り早く人間をさらってしまうのもありだ。
そう考えながら、音の鳴った方へ目を凝らす。
背の高い草むらの中に、艶やかな金髪と白い顔がチラリと覗いて見えた。
濃い化粧に縁取られた黒い目が、Bさんの方を向いている。すでにこちらに気づいているらしい。
Bさんは鉈を手に、一歩踏み出した。
途端に、ガサガサガサ! と草が激しく鳴った。
どうやら女が逃げ出したようだ。広大な草むらに一筋の線を描きながら、Bさんから離れていくのが分かる。
「待て! 逃がさねぇぞ!」
揺れる草の隙間から、明るい金髪が常に見え隠れしている。女の姿は、ほぼ草の中に隠れてしまっているが、この髪のおかげで見失うことはない。
ただ、予想以上に素早い。ともすれば、こちらが草を掻き分けている間に、あっという間に引き離されそうになる。
Bさんは、脚にまとわりつく草を懸命に鉈で払いながら、女に追いつこうと進み続ける。
ガサガサ、ガサガサ、と草が騒めく。
樹々の合間をするすると抜け、女はまったくスピードを緩めることなく逃げていく。
「おうぃ!」
掻き分けられた草の跡を踏み辿りながら、Bさんは叫び、しつこく追い続けた。
その時だ。踏み込んだ足が、ズボッ、と
深い草のせいで、足元の悪さに気づかなかった。Bさんはたちまちバランスを崩し、その場にどさりと尻餅をついた。
草の海に肩まで浸かり、息を荒げながら前方を見る。女が足を止め、離れた位置から顔だけを覗かせて、こちらをじっと見返しているのが分かった。
「こいつ、
悪態をつきながら、Bさんが立ち上がろうとする。
そこで――ふと、おかしなことに気づいた。
女の背だ。いくら何でも、低すぎるのではないか。
さっきから女は、草の中から顔だけを覗かせている。それは草の背が高いせいだ、と思っていたが、それでも自分が尻餅をついて、ようやく肩まで届く程度でしかない。
だとしたら、あの女はなぜ、ずっと首から下を見せないのだろう。
背の低い子供なのか。いや、顔立ちはどう見ても大人だ。
まさか、ずっとしゃがんでいるのか。しかしそんな体勢なら、素早く草を掻き分けて逃げることなど不可能ではないか。
――どうなってやがる。
得体の知れない気味悪さを覚え、思わず額に嫌な汗が浮かぶ。
その汗を誤魔化すように、Bさんは鉈の柄を強く握り、叫んだ。
「おい! お前は……何だ?」
その途端――。
ぎゅぅ、と何かに足首をつかまれた。
細い指が、右のくるぶしに食い込むのが、はっきりと分かった。
女がつかんだのか、と一瞬思ったが、あり得ない。位置が離れすぎている。
足元を見下ろす。だが草が邪魔で、何も見えない。
Bさんは右足首をつかまれたまま、よたよたと立ち上がった。
視界が上昇する。そのまま、力任せに右足を持ち上げる。
草の中から、足首が勢いよく引き抜かれる。
その足首に――。
……手首が、絡みついていた。
手首だけだった。
ブッツリと断たれた血まみれの手首が、Bさんの足首を握り、ぶら下がっていた。
思わず悲鳴を上げかける。だがその瞬間、前方にあった女の顔が、ガサガサガサ! と音を立てて、凄まじい勢いでこちらに向かってきた。
いや、前方からだけではない。
右から。左から。背後から。いくつもの方向から草を掻き分け、何かがBさんのもとに集まってくる。
囲まれている――。
Bさんがそう気づくと同時に、女の顔が目の前で、ぴたり、と止まった。
見れば、女は首だけしかなかった。
女がBさんを見上げた。凄まじい形相で。しかし泣き
「……やめて」
か細い声で、女はそう囁いた。
「……もう、殺さないで」
その声を残して、女はふっと消えた。
頭も、手首も、周りにいた何かも、すべてがきれいに消え去った。
すでに草の音は聞こえない。Bさんは荒く息を吐きながら辺りを見回し、それから震える手で鉈をしまうと、急いでその場から逃げ出した。
そして二度と、エルフの村に近づくことはなくなったという。
これと同じものに遭ったのではないか、と思われる体験を、Kさんというエルフの少女もしている。
Kさんは、
ある日の夕暮れ時のことだ。森に遊びにいった妹の帰りが遅いので、心配して様子を見にいくことにした。
最近この辺りを、オークが徘徊しているという噂がある。もし妹の身に何かあったら、と思うと不安で仕方がない。
Kさんは一人、ローブをまとい、護身用の魔法の杖を手に、森の中へ分け入った。
……ちなみに後から聞いた話では、ちょうどこのタイミングで、妹が帰宅したのだそうだ。つまり入れ違いになったわけだが、当然Kさんには知る由もなかった。
獣道を探り、樹上にも目を配りながら、森の中を進んでいく。時折妹の名を呼ぶが、返ってくる声はない。
優れた聴覚で周囲の物音を慎重に拾いながら歩くうちに、Kさんはやがて、深い草むらに出た。
もう一度、妹の名を呼んだ。
返事はない。
ただ不意に、ガサッ、と近くで草が鳴った。
ハッとして視線を向ける。背の高い草の海に、誰かが両肩から上を覗かせて、佇んでいるのが見えた。
金色の豊かな髪が、夕陽を照らし返している。妹か、と思ったが、すぐに違うと分かった。
知らない少女の顔が、すぅっ、とこちらを見返してきた。長い髪が頬を隠して揺れる。外見の年齢は、自分と同じぐらいに思える。
もっとも、エルフと他の種族とでは、実年齢はだいぶ違うだろうが――。
化粧で縁取られた目が濡れて、目蓋が赤く腫れている。泣いていたのか。
「誰?」
Kさんが用心深く尋ねると、相手は何か、耳慣れない言葉を口にした。……それが名前なのかもしれない。
「こんなところで、どうしたの?」
もう一度尋ねる。相手は軽くしゃくり上げ、それから掻き消えそうな細い声で、こう答えた。
「……悪いやつに襲われたの」
「悪いやつ? オークのこと?」
心配しながらKさんが歩み寄る。
草の隙間に、白い肌がチラチラと覗き出す。目を凝らして分かったが、どうやら少女は裸のようだ。両肩も剥き出しだが、その下にも衣服の類は見当たらない。それどころか、あちこちに血がこびり付いているのが見える。
少女の痛ましい姿に息を呑みそうになりながら、Kさんは繰り返し尋ねた。
「オークにやられたの?」
「……分からない。オークって何?」
少女が首を傾げる。オークを知らないのだろうか。
「あなたは、人間?」
「……うん」
「どこから来たの?」
「……別の場所から」
要領を得ない答えが返ってきた。Kさんは、自分がまとっていたローブを脱ぎ、少女に差し出した。
少女は受け取らない。ただ泣き濡れた目で、こちらをじっと見つめている。
「その格好では寒いでしょう?」
そう言って微笑んでみたが、反応はない。Kさんは、さらに一歩、少女に近づいた。
……血の臭いが鼻をついた。どれほど酷い目に遭ったのだろう。
「ねえ大丈夫? うちで手当てを――」
「……私、悪いやつに襲われたの」
Kさんの言葉を、少女が遮った。
さっき聞いたのと同じ台詞だ。Kさんは内心焦れながらも、努めて落ち着いた声で頷いてみせた。
「そうね。だから手当てを――」
「……襲われて、酷いことをされて、殺されたの」
「え?」
――今、何と言ったのか。
「……殺されて、バラバラにされたの」
「待って。それってどういう……?」
もう一歩近づいた。少女を間近から見下ろす。
裸だ。ただし白い肌の表面に、無数の赤い傷口が走っている。
その傷口から、幾筋もの血が漏れ、肌を汚している。
「……首を切られて、腕を切られて、手首を切られて、指を一本一本切り離されて」
Kさんは、一歩
代わりに少女が一歩前に、ガサッ、と進み出てきた。
「……お腹を切られて、縦に裂かれて、内臓を一つ一つ切り分けられて」
少女が右腕をもたげた。親指と、人差し指と、中指と、薬指と、小指が、それぞれ出鱈目な箇所に付いている。
「……体が足りなくなったから、探して、少しずつ付けていたの。そうしたら、こっちの世界に連れてこられてしまったの」
「あ、あなたは――」
何者なの、という言葉は出なかった。
まるで喉を潰したように、口だけがパクパク動き、肝心の声が出せない。それが恐怖のあまり故だと気づいた刹那、少女の出鱈目な指が、Kさんの肩をギュゥッとつかんだ。
眼窩からはみ出しかけた眼球が、Kさんを睨む。
「……ここには、私の体はないの」
千切れかけた舌が、割れた唇の中で蠢く。
「……だから、足りないところをちょうだい」
そう言って、少女は左の手で、己の長い髪をたくし上げた。
両耳が、なかった。
切断され、その痕に凝固した血の塊だけが、ボコッとへばり付いていた。
「……ちょうだい」
少女の手が伸びて、Kさんの頬に触れた。
体温のない、冷たく硬い指が、Kさんの耳を摘まんだ。
振り解こうとしたが、体はピクリとも動かなかった。
Kさんは――そのまま意識を失った。
Kさんが仲間のエルフ達に保護されたのは、夜が更けてからのことだ。
草むらの中に倒れていたところを発見され、すぐさま村に運ばれたらしい。気がついた時には家のベッドにいて、妹を始め、家族全員から心配そうに見守られていた。
幸い怪我はなかった。耳を奪われそうになった……と思ったが、鏡を見ても、どこにも異常はない。
助かったのだ――。それを実感した途端、改めて震えが出てきた。
ちなみに家族に事情を話したが、誰も信じてはくれなかった。
「だって、あなたの耳は無事じゃない」
それが理由だった。しかし妹だけは、Kさんの話を信じてくれたという。
「なぜその女の子は、姉さんの耳を持っていかなかったか――。とても簡単だわ」
妹はニヤリと笑い、こう言ったそうだ。
「形が違ったからよ。私たちの耳は、どう見ても人間の耳の代わりにはならないもの」
だから――あの少女は奪うのを諦め、去っていったのだろうか。
真相は分からない。いずれにしても、Kさんはこの事件以降、あの草むらには近づかないようにしている……ということだ。
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