第七話 動くな

 某ダンジョンに在住の、Zさんという男性から聞いた話だ。

 Zさんは、ガーゴイルという種族である。

 ガーゴイルというのは、悪魔をかたどった石像の姿をしたモンスターだ。本物の石像のふりをして冒険者を油断させ、相手が近づいてきたところで奇襲をかけるのを得意としている。

 Zさんも同様で、自分の持ち場に就いたらピクリとも動かず、飲まず食わず眠らずのまま、何時間でも冒険者を待ち続けることができた。

 もっともZさんの持ち場は、ダンジョンの中でも深い方にあるため、あまり冒険者が通りかかることはない。そういう意味では、暇なポジションだったと言える。

 なお、この仕事は交代制で、五日経ったら他のガーゴイルと交代することになっている。常識では考えられない長時間労働だが、それが可能な辺り、さすがはガーゴイルと言えよう。

 さて――そんなZさんが、持ち場でに遭ったのは、今から半月ほど前のことだったそうだ。


 Zさんが仲間と交代して持ち場に就いた、一日目のことだ。

 そこはダンジョン内でも開けた場所で、薄暗い通路にいくつもの台座が並ぶ。各台座の上には悪魔像が飾られているが、もちろんこれらはただの石像で、本物のガーゴイルをカモフラージュするようになっている。

 通路には一つだけ、何も載っていない台座が紛れている。ここがZさんの定位置というわけだ。

 Zさんはさっそく台座に載り、石像のふりを始めた。

 ひとたびこれを始めれば、Zさんは絶対に動かない。たとえ他のモンスターから話しかけられたとしても、反応を示すことすらない。それはひとえに、Zさんのガーゴイルとしてのプライドが成せるものだった。

 しばらくは、何事も起きなかった。

 冒険者の気配もなければ、仲間のモンスターが通りかかることもない。平和で退屈な時間が過ぎていくばかりだった。

 だが、それから半日が経った頃だ。

 時刻にして、夕方の五時辺りだったという。

 ふと遠くから、足音が近づいてくるのが分かった。

 ぺた、ぺた……と、それは裸足のように聞こえた。

 冷たい石の廊下を裸足で歩くとは、変わったやつだ――と思いながら、Zさんは耳を澄ませた。

 足音は、向かって左から近づいてくる。ちょうどダンジョンの入り口がある側だ。

 きっと冒険者だろう。Zさんはそう考え、気を引き締めた。

 ぺた、ぺた……と、足音はなおも近づいてくる。

 やがて薄暗がりの中に、音の主が姿を現した。

 だが――それを見た瞬間、Zさんはひどく戸惑った。

 ……相手は、女だった。

 長い黒髪を正面にだらりと垂らし、顔は見えない。

 着ている服は白のドレスのようだが、装飾はほぼない。それどころかボロボロで、泥にまみれている。

 破れたスカートの裾からは、赤黒く汚れたふくらはぎが伸びる。

 他に身に着けているものは、ない。

 そんな得体の知れない女が、裸足でぺた、ぺた……と、通路を歩いてくる。

 しかし何より異様なのは、その女の姿勢だった。

 ……なぜか、万歳をしている。

 両腕を頭上に高く掲げ、そのままの形で、ぺた、ぺた、と歩く。その姿はあまりに不自然で、まるで両腕だけが独立した生き物であるかのようにさえ、思えてしまう。

 Zさんは息を殺しながら、この女をどうするべきか、真剣に考えた。

 自分の役目は、ここを通りかかった冒険者を襲い、排除することだ。だが――。

 ……この女はどう見ても、冒険者ではない。

 しかし、モンスターとも違うように思える。少なくとも、このダンジョンに住む者ではないはずだ。

 冒険者でもない。モンスターでもない。……だとしたら、いったいなのか。

 なぜこんなよく分からないものが、ダンジョンの中を歩いているのか。

 ――襲うべきか。

 ――やり過ごすべきか。

 いくつもの疑問と迷いが、Zさんの中で渦巻く。

 しかし、ぐずぐずはしていられない。すでに女は、自分の真正面に差しかかろうとしている。

 ――判断しなければ。

 Zさんがそう思った時だ。

 不意に女が、ピタリ、と足を止めた。

 そして万歳したままの姿勢で、髪に覆われた頭を、ぐ、ぐ、ぐ……と――。

 ……Zさんの方に向けてきた。

 まるで、首が捻じ曲がるような、いびつな動きで。

 ちょうどZさんの顔を、覗き込むように。

 ……Zさんは息を殺したまま、真正面から女と向き合った。

 女の顔は、相変わらず髪に隠れて見えない。

 にもかかわらず、視線をはっきりと感じる。

 明らかに、目が合っているのが分かる。

 Zさんは微動だにせず――ただし内心は焦りながら、この女と対峙した。

 ――なぜこの女は、自分の前で立ち止まったのか。

 ――なぜ自分を見つめているのか。

 ガーゴイルだと見抜かれた、ということだろうか。

 だがもしそうなら、逃げるなり戦うなり話しかけるなりすればいい。なのにどうしてこの女は、ピクリとも動かずに、じっとこちらを見つめ続けているのだろう。

 いくら考えても、答えが出ない。

 ただ――こちらから先に動いてはならない。そう思った。

 あるいはZさんの、ガーゴイルとしての本能が、そうさせたのかもしれない。

 ……やがて五分が経った。

 女は動かないZさんに興味を失ったのか、ぐ、ぐ、ぐ……と首を元に戻すと、再び、ぺた、ぺた……と歩き出した。

 Zさんから見て右手、ダンジョンの奥の方へ向かっていく。

 このまま通していいのか、一瞬迷った。

 自分の役目は、冒険者の排除だ。後ろから襲撃すれば、まだ間に合う。

 しかし――あの女は冒険者ではない。

 ……迷った末、Zさんはこのまま女をやり過ごすことにした。

 べつに自分が襲わなくとも、この通路の先には、まだまだ大勢のモンスター達が待機している。彼らに任せればいいだろう。

 暗がりの彼方へ消えていく女の足音を聞きながら、Zさんはそう思った。


 異変があったのは、それから少し経ってのことだ。

 通路の奥で、モンスター達が騒いでいるのが聞こえた。

 何でも、この先で冒険者を待ち受けていたはずのミノタウロスが、息絶えているのが見つかった――という。

 しかしミノタウロスと言えば、このダンジョンでも指折りの屈強なモンスターだ。それが打ち破られたとなれば、当然高レベルの冒険者が通った、ということになる。

 だが――そんな冒険者など、誰も見ていないらしい。

 いや、そもそもこのミノタウロスの死に方自体、不自然だったそうだ。

 死因は、首の骨を折ったことだった。

 何でも、あり得ない向きに捻じ曲がっていたという。

 しかもどういうわけか、両腕を万歳するように、高く掲げていたらしい。

 いったいこのポーズは何だろう、とモンスター達が不思議がっているのが聞こえた。

 ……Zさんは、黙っていた。

 仲間達にあの女のことを伝えようとは、しなかった。

 任務の途中で動けなかったから、というのもある。しかしそれ以上に、自分の考えがあまりに突飛だと感じたからだ。

 ――あの女が、ミノタウロスを死に追いやった。

 いや、もちろん物理的に不可能だ。いったいどうすれば、冒険者でもない丸腰の女が、屈強なミノタウロスの首を折ることができるというのか。

 ……なのに、理屈ではない何かが、「それが正解だ」と自分に囁きかけている。

 Zさんは、そんな気がしてならなかった。


 一夜明けて、二日目が訪れた。

 Zさんは今なお微動だにせず、持ち場でじっと、冒険者を待ち続けていた。

 とは言え、誰が通りかかる様子もない。最後にここを通ったのは、昨日のあの女だけだ。

 ――は、本当に何だったのだろう。

 身動きの取れない退屈な時間の中で、Zさんは、もう幾度となくそれを考えていた。

 もちろん、いくら考えても答えなど出ない。

 しかし、考えずにはいられない。

 ここでじっとしているだけで、どうしてもあの女の姿が、脳裏に蘇ってしまう。

 高く掲げた両腕。髪に覆われた顔。ぺた、ぺた……という足音。

 ああ嫌だ――と、Zさんがそう思った時だった。

 ぺた……と、足音が聞こえた。

 ぺた、ぺた……と、それは石の通路を裸足で歩く音に思えた。

 Zさんはギョッとして、耳を澄ませた。

 音は、向かって左側から近づいてくる。

 時刻は午後五時。昨日と同じである。

 ……あの女だ。

 そう悟った途端、息が詰まるような感覚に襲われた。Zさんはむせるのをこらえ、暴れそうになる鼓動を叱咤し、どうにか同じ姿勢を保った。

 やがて――視界の中に、女が入ってきた。

 やはり、昨日のあの女だ。

 ……髪に覆われた顔。高く掲げた両腕。白いボロボロの服。汚れた足。何もかもが、昨日と同じだ。

 ただ奇妙なのは、女が歩いてきた方角だ。

 昨日、女は左側からやってきて、右側へと消えていった。

 その後、女が引き返してきた様子はなかった。これは、Zさんがずっとこの場所にいたから、確かだ。

 ……にもかかわらず、女は今日も、また左側から現れた。

 転送魔法でも使ったのか。いや、冒険者ともモンスターとも思えないこの女が、そんな魔法を使えるはずがない。

 もはや、理屈で考えるのは無理だ。ただし一つだけ、確かに言えることがある。

 ――この女に、正体を悟られるな。

 Zさんはそう思い、今日も女をやり過ごすことに決めた。

 息を殺し、あくまでただの石像のふりをする。

 ぺた、ぺた……と、女が近づいてくる。

 自分の前に差しかかる。

 そこで――。

 ピタリ、とまた女の足が止まった。

 ぐ、ぐ、ぐ……と、首が不自然にねじれ、こちらに向いた。

 ――見られている。

 はっきりと、それが分かる。

 やはり自分は、疑われているに違いない。

 本物の石像と違うのではないか、と。

 だが、もし自分がガーゴイルであることがバレたら、どうなるのか。

 ……昨日のミノタウロスのことが頭をよぎる。

 ――動くわけにはいかない。何としても。

 Zさんは改めて、それを強く思った。

 昨日は五分もじっとしていれば、女は立ち去った。

 今日も同じように、こちらが微動だにしなければ、諦めて去っていくはずだ。

 そう信じて、Zさんは全力で石像に徹することにした。

 息を殺し、身じろぎ一つせず、視線すら動かさない。

 そんなZさんを、女もまた微動だにせず、じっと見つめる。

 一分、二分、三分……と、互いに動かないまま、時が過ぎていく。

 やがて五分が経った。

 ……女は、まだ動かない。

 髪の毛越しの突き刺すような視線を、なおもZさんに向け続けている。

 ――まだ行かないのか。

 次第にZさんの心に焦りが出てくる。だが、その焦りを表に出せば、どのような目に遭うか分からない。

 耐えろ、と自分に言い聞かせ、Zさんは石像のふりを続ける。

 六分、七分……と、さらに時が経つ。

 やがて十分が過ぎた。

 ……女が、動いた。

 ぐ、ぐ、ぐ……と首を戻し、諦めたかのように、ぺた、ぺた……と歩き去っていく。

 向かって右側、ダンジョンの奥の方へ。

 引き止めるべき――かもしれない。

 いや、直接引き止めずとも、奥にいる仲間に危険を知らせなければならない。

 だが動けないZさんにとって、それは不可能だった。

 だから女が去った後も、息を漏らさず、視線も動かさず、ただ石像であり続けた。

 それから一時間が経った頃、ダンジョンの奥で仲間達が騒ぎ出したのが分かった。

 どうやら、また犠牲者が出たらしい。

 自分のせいかもしれない――と悔やみながらも、Zさんはただ、持ち場で動かずにいることしかできなかった。


 女は、さらにまた翌日も現れた。

 午後五時。ぺた、ぺた……と左側から歩いてきて、やはりZさんの前で、ピタリ、と立ち止まった。

 そして、ぐ、ぐ、ぐ……と首を捻じ曲げ、じっとZさんの様子を窺い出し、そのまま一時間動かなかった。

 その間、Zさんは気がどうにかなりそうになるのを堪え、石像であることに徹し続けた。

 もしZさんがガーゴイルでなければ、とっくに諦めて、叫ぶなり逃げ出すなりしていただろう。

 もっとも、そんなことをすれば、ただでは済まないに違いない。

 ……この日も女が立ち去った後、ダンジョンの奥で仲間が一人、無残な死に方をした。もはや、あの女が原因であることは、疑いようもなかった。

 本来なら一刻も早く、この事実を誰かに伝えなければならない。

 だが今の自分は、立場上、身動きを取ることができない。せめて他のモンスターが話しかけてきてくれれば、こちらもプライドを捨てて危険を伝えることができるのだが、あいにく、任務中のガーゴイルに話しかけるほど物好きな仲間はいないようだった。

 何とも歯痒い思いで、Zさんは三度目の夜を明かした。


 四日目――。

 この日は珍しく、日中に冒険者が通りかかった。

 Zさんは、ようやく本来のターゲットが現れたことに喜びながら、冒険者を襲撃した。

 勝負は、あいにく痛み分けとなった。冒険者はダメージを受けて撤退したが、Zさんの方も無傷では済まなかった。

 台座に戻り、再び身を固定する。受けたダメージはいずれ癒えるだろう。ただ――戦闘前と同じ姿勢を取るのが難しくなってしまった。

 傷口が痛む。かと言って、楽なポーズに変えれば、今度はそれをあの女に見破られる可能性がある。

 どうすべきか悩んだ。しかし、任務がまだ丸一日以上続くことを思うと、少しでも身を休めるのを優先した方がいい。

 Zさんはそう考え、やむを得ず、楽な姿勢を選ぶことをにした。

 ……やがて、午後五時になった。

 ぺた……と、足音が聞こえた。

 ――来た。

 ぺた、ぺた……と、今日もあの女が、左側から歩いてきた。

 両腕を高く掲げ、前髪をだらりと垂らし、そしてZさんの前で、ピタリ、と立ち止まった。

 ぐ、ぐ、ぐ……と首が捻れ、女の目がZさんを見据える。

 ――動くな。

 Zさんは今一度、そう自分に言い聞かせた。

 こちらが動きさえしなければ、いずれ女は立ち去る――。そのはずだった。

 ……それから一時間が経った。

 女は、動かない。

 一切の姿勢を崩さず、捻れた首を、Zさんに向けたままでいる。

 今日はまだ、立ち去る気はないのかもしれない。

 Zさんはそう思い、同じポーズを維持し続けた。

 ……二時間が経った。

 女は、まだ動かない。

 焦りたくなる気持ちを抑え、Zさんはひたすらに、女が去るのを待つ。

 ……三時間が経った。

 女は、動かない。

 ……四時間が経った。

 女は、動かない。

 ……五時間が経った。

 女は、動かない。

 いったい、いつまで居続けるのか。なぜ、今日はこれほど長いのか。

 理由があるとすれば――やはり、自分のポーズが以前と少し変わっているから、かもしれない。

 そう、おそらく女は、その事実に気づいたのではないか。

 だからこうして、Zさんが動くのを確かめるまで、居座るつもりなのではないか。

 そう思うと、全身にじわじわと、嫌な汗が浮かびそうになる。

 ……いや、石像が冷や汗などかくわけには行かない。

 Zさんは急いで、冷静になろうと努めた。

 ――不安がるな。怯えるな。

 ――自分が動きさえしなければ、何も起きない。

 ――だから。

 ――だから、早く立ち去ってくれ。

 そう心の中で懇願した途端、涙が滲みそうになった。

 懸命に堪えた。

 女は動かずに、じっ……とZさんの目を見つめ続けている。

 二人とも、微動だにしない。ただ時間だけが過ぎていく。

 気がつけば、すでに日付けが変わっていた。

 夜更けを迎えたダンジョンの空気は、今までに感じたことがないほど、静かで冷たかった。


 ……朝が来た。

 女は、まだ動かない。

 Zさんもまた、石像に徹し続けている。

 我ながらよく耐えている、とZさんは思った。

 ……だが、限界が近い。体のあちこちに、次第に痛みが生じ始めているのが分かる。

 やはり、昨日の戦闘でのダメージが、尾を引いているのだ。

 ――動くな。耐えろ。

 Zさんは改めて、自分にそう言い聞かせた。

 今日は五日目。この一日を乗り切れば、交代の時間だ。

 その時は、仲間が――他のガーゴイルがここへ来る。そうなればこちらは二人。さすがに二人がかりなら、女を追い払えるはずだ。

 それはZさんにとって、自分が助かるための、最後の手段だった。

 ……やがて昼になった。

 女は、まだ動く気配がない。

 次第に喉の渇きを覚えてくる。体調が万全なら、あり得ないことだ。

 節々に強張りを感じる。目が霞む。

 もしここに女がいなければ、とっくに体を崩していただろう。

 だが今、それは許されない。

 気を張り続け、微動だにしないこと――。他に選択肢はない。

 ……時間が、刻々と過ぎていく。

 女は、動かない。

 両腕を掲げ、首を捻じ曲げ、不自然なポーズのまま、じっと佇み続けている。

 ――もしかしたら、眠っているのではないか。

 ふと、そんな想像が頭をよぎった。

 ガーゴイルの自分でさえ、ここまで動けないのは辛いのだ。なのにこの女が、平気でいられるはずがない。

 だとしたら――今なら、だ。

 Zさんは、そう思った。

 ……冷静に考えれば、それがただの都合のいい妄想に過ぎないと分かったはずだ。

 だがすでに、そこに思い至れるほどの余裕は、Zさんにはなかった。

 限界だった。全身の筋肉が、石であることを辞めたがっていた。

 動きたい。立ち上がりたい。今すぐここから逃げ出したい――。そんな衝動が、一気に駆け巡った。

 Zさんの口から、わずかに息が漏れた。

「……ぁ」

 ごく微かな、本当にごく微かな、声が出た。

 途端に――。

 目の前の女が、動いた。

 ぐ、ぐ、ぐ……と首をもたげ、垂らした前髪の奥で裂けた口が、にぃ、と笑うのが見えた。

 掲げられていた両手が、Zさんの頭を、ガッ、とつかんだ。

 冷たく鋭い指先が、頭部に食い込むのを感じた。

 ――ああ、もう駄目だ。

 そう悟った。

 その時だ。

 ふと――足音が聞こえた。


 ぺた……。

 ぺた、ぺた……。

 ぺた、ぺた、ぺた……。


 それは、通路の左側から聞こえてきていた。

 まさか、と思った。しかし、とっさに向けたZさんの視線の先にいたのは、通路をこちらに向かって歩いてくる、女の姿だった。

 長い黒髪を正面にだらりと垂らし、顔は見えない。

 着ている服は白のドレスのようだが、装飾はほぼない。それどころかボロボロで、泥にまみれている。

 破れたスカートの裾からは、赤黒く汚れたふくらはぎが伸びる。足は裸足だ。

 それが、両腕を頭上に高く掲げたままの姿勢で、ぺた、ぺた、と歩いてくる。

 ……まったく同じだ。

 ……まったく同じ姿の女が、もう一人現れた。

 いったい何がどうなっているのか。もはやZさんは、混乱するしかなかった。

 ただ――一つだけ理由めいたものが、頭をよぎった。

 今は、なのだ。

 四日目に女が現れてからなのだ。

 ……考え得た答えは、それだけだった。

 正面の女が、ぐ、ぐ、ぐ……と、首を別の方に向けた。

 その視線の先には、新たに現れたもう一人の女がいる。

 一方もう一人の女もまた、先の女を、ぐ、ぐ、ぐ……と見据える。

 互いに、を獲物と見なしたのか。

 女の冷たい指が、Zさんの頭から離れた。

 解放されたと同時に、女二人の口から、おぞましい雄叫びのような声が溢れた。

 つかみ合う両者の姿を目の前にして、Zさんの意識は、あっという間に遠退いていった。


 ……気がつくとZさんは、台座の下に横たわっていた。

 周囲にはモンスター達がいて、Zさんを懸命に介抱していた。

 何でも、この場所から異様な叫び声が聞こえたので、みんなして集まってきたという。そうしたら、Zさんがここで意識を失っていた、というわけだ。

 ちなみに、女の姿は誰も見ていないそうだ。相打ちにでもなって消えてしまった……のだろうか。

 何にしても、「毎日妙な女がここに現れて、仲間を殺し続けていた」というZさんの訴えは、誰も信じてくれなかった。

 ミノタウロス達の死は冒険者によるもの。Zさんが意識を失ったのは疲れのせい――と、そう思われただけだった。

「冒険者と戦った後も、無理して石像のふりを続けていたんだろう。もういい。早めに交代しよう」

 仲間のガーゴイルからそう言われて、Zさんは素直に、その言葉に従うことにした。

 無理をしていたのは間違いない。しばらくは、身を休めたかった。

 ただ一つ気がかりなのは、やはり例の女がまた現れるのではないか、ということだったが――。

 それも直後に、状況が変わった。


 Zさんが仲間達に連れられて、通路から引き上げようとした時だ。

 ふと仲間の一人が、妙なものを見つけた。

 だ。

 通路の入り口側――例の持ち場から見て一番左端の台座に、見慣れない絵が一枚、ぺたりと貼ってあった。

 絵は小さなカード程度のサイズで、今までに見たことがないほど写実的だった。

 紙の表面はツルツルとして凹凸がなく、どのような顔料を使ったものかは、誰にも分からなかった。

 描かれているのは、見知らぬ屋敷の中の様子だった。

 暗く荒れ果てた、廃墟だろうか。

 朽ちた壁。朽ちた床。五時を指す大時計。

 さらに、その暗闇の奥に――。

 ……あの女が、立っていた。

 ……両腕を高く掲げ、首を捻じ曲げ、まるで、こちらをじっと見つめ返すかのように。

 この絵を、誰がいつどうしてここに貼ったのかは、誰も知らなかった。

 ただ、Zさんがこれを剥がして処分したところ、それ以来、女が現れることはなくなった――ということだ。

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