第二十八話「煉獄の刃」

                 ◇


 そこは地下都市だった。

 河がある。街がある。人の暮らした痕跡がある。苔と蔦に浸された深緑の世界。何処からともなく差し込む光は魔晶石が生む偽りの陽光。積み重なる屍の山はかつてそこに暮らした人々のものか。およそ人とは思えぬ奇形の遺骨が散乱している。


 実験場。


 千年戦争の時代、闇のエルフ達は戯れに異種族を交わらせ、死骸を切り繋ぎ、より強い生命を生み出さんとした。支配者たる己らの威権を知らしめる為、あるいは戦争の道具として使う為。人獣問わず多くの種族が一個の生命としての尊厳を奪われ凌辱の限りを尽くされた。

 やがて千年戦争が光のエルフと人間たちの勝利に終わり、全てのエルフ達が西方を去って後、地上の支配者となった人間たちはこの場所を封じた。忌まわしい過去を忘れ去る為に、生み出された多くの失敗作たちをこの地下に残したまま。

 果たして彼らの子孫は、もはやヒトといえるだけのカタチを保ててはいなかった。

 肉塊、である。人々は溶けあい、混ざり合っていた。無数の顔。無数の腕。無数の足。それらが絡み合い一個の形を成している。溢れてしまわないよう、零れてしまわないよう。鎖でその身を縛り付けている。

 人の形を失った彼らが形取ったその姿は皮肉にも、人の形をしていた。

 そんな肉塊がいくつも横たわっている。今まさに生きていたかのように。血を流し、あちこちに赤い河を作っている。河は交わり、やがて海に辿り着く。海には島がある。巨大な肉塊が浮んでいる。唯一、それだけは他と異なる形をしていた。

 竜だ。翼の無い肉の竜の残骸がそこにはある。

 そして、その亡骸の上にそれは立っていた。


「――誰かと思えば。また手前か」


 暗色の鎧。漆黒の外套。そして宙に浮かぶ二対の剣。顔を全て覆い隠していた兜だけがもうそこには無い。キーラはその美貌を禍々しく歪めながら、相対する異装の男を睨みつけていた。

 カグラギはキーラに一瞥もくれず、真っすぐ歩を進める。


「……今なら見逃してやる。手前じゃまるで話にならねえ」


 キーラは無表情でそう言う。眼の前に映っているものは、敵ではない。暇潰しに殺した肉塊たちと同程度のモノ。ただのゴミだった。


「なあ、おい。聞いてんのか?」


 やはりカグラギは答えない。本当に聞こえていないかのように歩を早める。


「……イラつくな。お前」


 舌を打ちながら、キーラは右手を翳した。追従する二本の剣がそれに応じるようにして翻り、カグラギにその切っ先の狙いをつけた。


「今度こそ、消えちまえ」


 低い呟きと共に、二本の剣が宙を駆ける。

 キーラはその結果を見届けもせず背を向けた。

 そして、何かが砕ける音だけを聞いた。

 ただそれだけを、聞いた。


「……?」


 違和感を胸に覚えながら、キーラは振り返る。

 そして眼を剥いた。

 そこには依然変わりなく。まるで何事もなかったかのように。

 異装の男が立っている。遠目にははっきりとよく見えない、何かを手にしたまま。


「手前、何をしやがった」


 その問いに男は答えない。淡々と、歩を進めるだけ。


(……まあいい)


 思考を捨て、キーラは竜の亡骸から飛び降りた。中空で破砕した二対の剣が復元する。だが元の形には戻らない。代わりに禍々しい曲線を描く一本の大剣の姿を形作る。キーラはそれを両手に携えて、着地と同時に地を蹴った。深紅の飛沫があがり、血の大海を馳せて、両者は激突する。

 キーラは大剣を肩に担ぎ上げ、袈裟懸けに斬り下ろした。集束した魔力の刃は迷宮由来の合金すらものともしない絶対の剣。焼却。両断。其れのみをもたらす。剣閃は音よりも迅く到達し対手の肉体を破壊する――はずだった。


「……!?」


 だが有り得ないことが起こった。

 キーラが腕を振り切った瞬間、魔剣の刀身が粉々に打ち砕かれる。

 魔力の刃が煌めきながらその破片を散らし、キーラの頬に一筋の傷をつける。

 極限の集中がもたらす緩慢な世界の中でキーラは眼の前の光景を凝視した。

 相手が握っている得物。自らの魔剣を打ち砕いたモノの正体を視る。


「な、――」


 それは、残骸である。

 いま彼女が手にしているものと同じ――、刀身をなくした剣の残骸であった。

 

 妖刀使い。その言葉が持つ本来の意味を、彼女はようやく思い出す。

 あれは虚実であると、そう思い込んでいた。


 しかし違う。

 それこそが、虚実だったのだ。


                 ◇


 大迷宮には必ず「王」と呼ばれる存在がある。階層ごとに分け隔てられた魔物の生態系の頂点に位置するその魔物は、得てして巨大な巣を持っていることで知られる。

 カグラギが足を踏み入れたその場所はまさに、このパルティアの地下迷宮の王たる魔物が住処にしていた場所だったのだろう。小さな街一つがすっぽりと収まりそうな大広間の床は、夥しい数の古い屍で埋め尽くされている。

 しかしそこに待ち受けていたのは、魔物ではなく人だった。


「ふん。……来たか」


 大司教アントニウスは闖入者の存在を認めると不機嫌そうに息を吐いた。


「只人如きに遅れをとるとは、《教会の槍》もまるで当てにできませんな」

「まったくその通りじゃ。あのようなエルフのまがい物を手懐けて、ガストーネは一体何を考えているのやら」


 その傍らには同じく高位の聖職者らしき二人の老いた男女が立っている。

 鴉の瞳を借りずとも、カグラギはその剣呑な気配を見て三人の正体を察した。

 《魔女》。それもとりわけ上位の存在たちであると。


「貴様がヴァン・ディ・エールの妖刀使いか。……ここまでたどり着いた事は見事と誉めてやろう。少なくともあの無能共よりはよっぽど使い物になるようだ。どうだ? 我々の元で働く気は無いか。只人には味わえない快楽を与えてやろう」


 薄ら笑いのアントニウスが手を差し伸べると傍らの二人は失笑する。元より、そんな気はないのだろう。子供をからかうように魔女達は顔を引き攣らせて笑う。


「楽しいのか」


 と。不意にそんな無機質な声が響く。


「人の命を弄んで、そんなに楽しいのか」


 耳元で囁くかのようなその静かな声に、魔女達は眉を吊り上げた。


「……くく。ああ、地下のあれを見たのか。素晴らしいだろう、あれは。エルフ共が残した《融合》の秘法。生命と生命を繋ぎ合わせる、いわば魂の交合。まさしく芸術そのものだ。そのうえ効率がいいときている。只人の魂を黒く染めて奪うのに、あれほど適したものはない」

「楽しいかだと? は。楽しいに決まっているだろう。愚かな只人共を貶めるほど愉快なことはない。奴らの苦しみこそが我らの至上の喜びだ。かつて奴らが、我々にそれを強いたようにな」

「我らの苦痛を、屈辱の歴史を。君は何一つ知るまい」


 老いた魔女達は滔々と語り続ける。


「奴らはその昔、我ら魔術師を崇めていた。我らもまたその期待に応えんと、奴らに施しを与えた。しかしエルフ共の軍勢がこの大州を支配してのち、魔術の力を恐れた只人どもは、その力を持たぬが故に、我らを蔑した」

「左様。さんざん我らの力に頼っておきながら、奴らは我らを裏切ったのだ。無知蒙昧な論理を振り翳し、一族郎党を火に掛けた。魔女狩りは正にその意趣返し。あれはね、根拠のないくだらない理由で生命を奪われた我が同族たちへの手向けなのだよ」

「奴らは赤子も同然だ。自らの糞尿の始末もつけられず、川の水を穢し、不潔な病を蔓延させた。そんな奴らを救ってやったのは誰だと思う? 我々だ。貴様は知らないだろうがな。かつての奴らの街の有様はそれはもう酷いものだったぞ。窓から道端に汚物を投げ捨て、歩く者達の身体にはみな蚤が集っていた。一度は裏切った、そんな愚か者どもに我々は正しい文明を与えてやったのだ。その見返りを欲して一体何が悪い。――正義は、我々こそにある」


 カグラギは沈黙する。それが事実ならば、確かに彼らには復讐するだけの権利がある。魔女狩りという暴虐が繰り返されてる一方で、多くの人々が彼らのもたらす魔術の恩寵にあずかり、幸福に暮らしているのも事実であろう。

 人の世とはままならないものだ。絶対の悪など存在せず、誰しもにきっと己の信ずる正義がある。善と悪は表裏一体。正義の反対は、もう一つの正義。遠い昔、誰かが誰かを傷つけたその瞬間から、きっとそれは延々と続いている。


「やめる気はないのか」

「……何?」

「彼らを、許す気はないのかと聞いている」


 カグラギの言葉に魔女達は顔を見合わせた。


「魔術師。貴様らは力を持っている。人々の尊敬を集め、導くだけの力を。それを正しく使えば、今度こそきっと恨まれることも、奪われることもないんじゃないのか」


 やられたからやり返す。その争いの円環を終わらせることができるのは勝者が敗者を完全に滅ぼすか、もしくは勝者と敗者、互いの慈悲が重なった時だけだ。

 勝者は敗者から奪う事を、敗者は勝者への報復を手放す。

 そうすればもう、争わずに済むはずではないか。


「勝ったのはお前たちだ。強いのはお前たちだ。だから、もういいだろう。彼らより優れているという自覚があるのなら、誇りがあるというならば。これ以上、彼らから何も奪うな」


 無機質に、しかし乞い願うように。カグラギは魔女達にそう語りかけた。

 しかしアントニウスは鼻を鳴らすと、高らかにそれを嘲笑う。


「く、は。……ふははは!! くだらんな。実にくだらん!! 仮に我々が奴らを許したとして、奴らが報復をしないなどいう保証がどこにある!? 現にお前はここに来たではないか。我々を殺しに来たのだろう、妖刀使い! 只人達の復讐者よ!」


 刹那、大広間の天井から異形の巨体が落下する。それは地下都市に居た竜の死骸と同じ怪物であった。ドロドロに溶けた表皮からは材料にされた人々の腕や足が突き抜けて蠢き、無数の呻き声を漏らしている。


「お前が救いたかったものはそれだろう! 望み通り、慰めを与えてやるがいい!」


 アントニウスがカグラギを指差すと異形の竜は絶叫し、翼をはためかせて飛び上がった。そのまま標的を目掛けて突進していく。

 そして彼は飲み込まれた。大口を開けた竜の顎に、口腔に蠢く人々に引き寄せられるように。ごきり、ぐちゃり。骨が砕かれ、肉が潰れる咀嚼音が大広間に響く。


「……なんだ。もう終わりか? 呆気ないものだな」

「あの男の言った通り、所詮ただの人間だったか」


 心底つまらなそうに、老いた魔女達は肩をすくめる。


(――)


 竜の口内で、カグラギは彼らの吐息を間近に感じていた。自らの形を、人としての尊厳を奪われた彼らのすすり泣くような声を聞く。彼らはもう、語るだけの言葉を持ってはいなかった。

 きっと彼らの一人一人に人生があった。愛する人が居た。当たり前に信じる明日があったに違いない。いったい誰に、それを奪う権利があったのだろう。

 同情。怒り。悲しみ。

 湧き上がる感情は止め処なく、病気じみた熱が全身を支配する。


(くだらない――)


 昔から、そうだった。

 誰かの悲しむ姿が、誰かの苦しむ姿が堪えられない。それを止めるのがまるで自分の使命に思えてならず、いつも彼は居ても立ってもいられなかった。

 優しい子だと、母は言ってくれた。貴方は正しいと、彼女はそう言ってくれた。

 けれど。やはりこんな性分はどうかしている。人としての生き方を間違えている。

 だって、関係のないことだ。彼らの痛みも苦しみも彼らのものだ。決して自分のものではない。何が、義憤だ。人助けだ。お前は一体、何様のつもりだ。彼らを本当に哀れだと思うのなら、あの魔女の言う通りその身を食わせて慰みにでもなればいい。


 しかしそれこそ、本当にくだらない。

 抗わなければ、――奪われるだけなのだから。


「■、■■■――!?」


 不意に異形の竜が奇声を上げ、全身を震わせる。

 そして大量の胃液を床へと吐き零した。


「ほ!」


 胃液の波に押し流されてきた男の姿を見るや三人の魔女は愉快そうに顔を歪める。

 如何なる手段を用いたかは分からないが。成程、只者ではないらしい。


「そうこなくてはな。こちらもそれなりに準備してきたところだ。このまま終わるには呆気ない。何か最後に芸の一つでも見せてくれ」


 アントニウスが骨杖を翳すと、異形の竜は激痛に身を悶えさせ、絶叫して飛び上がった。立ち上がりながら、カグラギは天を仰ぐ。だらりと下がった左肩は食い潰され、今にも千切れそうな腕がぷらぷらと宙に浮いている。それを邪魔だと放り捨てながら、彼は深く息を吐く。


「――は」


 そして、笑った。

 宙を舞う醜い生命。それを繰る醜い男。死に損ないの自分の姿。その全てを、嘲笑う。この世は、醜悪そのものだ。血と汚泥に塗れ、臓物の腐るような臭気に満ちている。奪い奪われる、それが延々と続くだけの歪な円環。奪われる者の痛みを知りながら、それでも人は繰り返し続けるのだろう。

 くだらない。これ程、くだらないことがあるか。


(――リーゼロッテ)


 やはり俺は優しい人間などではない。

 過ぎた力を持つのが恐ろしかった。身の丈に合わないと、責任から逃れた。

 だけどもう迷わない。迷ったがゆえに、――俺は君を失ってしまったから。

 弱肉強食。適者生存。それがこの世の真理。決して覆らない真実の在り方。

 かつて憎んだそれを、俺は今こそ受け入れる。

 善は悪に打ち勝てない。悪意は善意よりも強い力だから。殴りたいから殴る。殺したいから殺す。欲しいから奪う。そんなものにどうやって善が打ち勝てよう。善などは所詮不合理なのだ。弱肉強食という獣の本質に逆らっている。正義などという言葉と同じ人間の生み出した淡い幻想、己の醜い本質を取り繕う為の言い訳に過ぎない。


 故に、悪には悪を。より強い力を。

 力こそが全てというなら、勝者こそが世の法たりえるなら。


 お前らが思い知るまで己は繰り返そう。

 お前らが消え去るまで己は繰り返そう。


 己は呪う。この世の理を。定められた天命を。

 故に殺す。この世全ての悪を。傷の痛みを知らぬ者達を。


「――■■、■」


 歯を剥きながら男は唸った。躊躇も問答も。もう彼にはもう必要なかった。

 おれもお前らも一匹の獣だ。欲するままに弱者を喰らう醜い獣だ。

 獣に言葉は必要ない。ただ、喰らうだけ。 

 そして彼は身を覆っていた外套の前を開けると一本の得物を取り出した。


(……? なんだ。あれは)


 朽ち果てた刀。刀身の七割が消失したそれは魔女達の瞳にはただの剣の残骸としか映らない。しかし、全身が粟立つような不気味な気配をそこに感じ取っていた。 


「――■■■■!!」


 異形の竜が咆哮する。巨体は空中で身を翻すと、立ち尽くすカグラギの元へと突進した。瞬間。彼は手にしたそれを振るうでもなく、


「――ッ!」


 自分の胴体へと、深々と突き刺した。


「な、?」


 その、あまりにも異様な行動に魔女達は目を疑った。下腹部に突き立った刃にカグラギはさらに力を込める。ぎちぎちとそれが臓腑を斬り抉るたび彼は地面に煮え滾る血液を吐き零す。


「――く、はは! どうした!? 気でも触れたか!」


 一瞬、相手の行動に慄いた魔女達だったが、すぐにその無様な男の姿を嘲笑った。

 しかし。すぐにその表情を失うことになる。


「? 馬鹿、な」


 呆然と。彼らは目の前の光景を眺めていた。


「■、■■■――」


 異形の竜が墜落する。半身を破裂させ、無数の肉片を撒き散らしながら。

 気づけば。男は刀を抜き放っていた。臓腑を食い破るようにして放たれた刃の剣筋は鮮やかな血色の弧を描き、宙を舞う怪物を両断していた。


「あ、あ、ああ、あああああああああああああああ!!!!!!!」


 不意にアントニウスの脇に立つ老女が絶叫し、顔を抑えながら地に膝を着ける。


「な、なんだ!? どうした……!?」


 苦痛にもがく老女の手を払いのけ、アントニウスはその顔を覗き込んだ。

 老女の顔は、溶けていた。皮膚が破け、赤黒い肉と頬骨が露出していた。得体の知れない何か、どろどろした液体が彼女の顔を侵し、みるみるうちに溶かしてゆく。


「な……一体、なんなのだ、これは!」 


 刻印の儀式を経た彼らは肉体の痛みとは無縁の存在となる。唯一、銀という例外を除いては。しかし老女の顔を侵すそれは明らかに銀などではない。もっと遥かにおぞましい何かだった。異臭に顔を顰めながら、アントニウスは男の方を振り返る。

 カグラギは膝をつき蹲っていた。血溜まりが煙を立てながらじわりと地面に広がっていく。見ればそこかしこに似たような煙が立ち、屍で作られた床を溶かしている。

 アントニウスはそれが何なのか、一体何が起こったのかを理解した。

 血だ。あの男は――自らの血を飛ばしたのだ。何か底知れぬ呪いを孕んだ血液を。

 そう。それが異形の竜を、超越の魔剣を、破壊せしめたものの正体。

 妖刀”村叉摩ムラサマ”。その能力の一端、煉獄刀れんごくとうである。

 かつて世に斬れぬものなしと謳われたその魔剣は事実として全てのものを一刀の元に断ち切ったという。人であろうと物であろうと、目に見えぬ魔力の術式でさえも。

 しかし全てを切り裂く妖刀も、所詮は二尺六寸の剣でしかない。最も深き迷宮の奥底に潜む、山ほどの巨体を持つ怪物たちにその刃は通じ得なかったのだ。

 故に彼は妖刀を扱う為の、もう一つの手段を編み出した。

 それこそが《煉獄刀》。

 触れたモノを浸食し溶解させる呪肉と呪血を撒き散らす紅蓮の刃。

 その用法とは――割腹、である。鞘を捨て、自らの腹を割き、刀と己が身を一体とする迷妄の業。しかし彼は妖刀の凶気を上回る狂気をもって、ついにそれを成し得たのだった。


「ぐ、ハ、アアアアアア……!!!!」


 悪鬼の形相でカグラギは血煙を吐く。腹から腸をずるりと零したその有り様は傍目に見て自滅としか捉えられまい。実際、彼は死に体であった。肉を溶かす呪血は彼自身にも苦痛を与え、生命の楔と妖刀は二重の呪いとなって彼に死の安息を許さない。正しくそれは諸刃の剣。己を殺し、敵を殺す。不退転、相死覚悟の修羅の業。


「おのれ……!」


 ずるり、ずるりと歩を進める対手を睨みながら、アントニウスは骨杖を打ち鳴らした。刹那、そこから無数の黒い影が這い出ると大広間の床を埋め尽くすように駆け巡る。影はやがて散乱する屍に纏わりつき、立ち上る。そして瞬く間に百をゆうに超える屍骨の兵士達が誕生した。


「貴様も、死人となるがいい!」


 骸骨の群れがカグラギの元に殺到する。瞬時に七体もの屍が見えない斬撃によって砕け散るが、それよりも早く新たな屍が床より生まれ出でた。アントニウスが手繰るのは死霊術。竜牙兵に比べ質は低いが、数は力そのものとして顕現していた。

 対手の技が自滅めいたものである以上、こうして時間を稼いでいればいずれは自ずと果てるはず。アントニウスの目算は正しい。正しいかに、思われた。

 カグラギはもう一度、己の腹を刺し貫くと内臓を掻きまわすように刃を回した。

 絶叫する獣の濁声と共に、赤子の泣き声が甲高く響く。


「……!?」


 耳元に響いたそれは果たして幻聴だったのか。目を剥きながら、アントニウスは全身を震わせた。屍の群れに埋もれた男の殺意は膨張し、今にもはち切れそうな気配を帯びている。何か、またおぞましいことが起こる。


「……■、■■■ァァァァァ!」


 そして、暴威は解き放たれた。毒々しい紅蓮色の鞭が宙を舞い、屍の群れを一網打尽に消し飛ばしてゆく。――復活が間に合わない程の素早さで。


「あ、あ……」


 言葉を失うしかない。

 大司教の傍らに立つ老爺はあの鞭の正体が何なのか分かってしまった。

 あれは、腸だ。自らの腸を、剣に纏わせ鞭のように振るっているのだ。狂っている。壊れている。あんなケダモノ、もはや人の手に負えるものではない。


「……召喚だ」


 アントニウスの呟きに、傍らの老爺は思わず首を傾げる。


「門を開くのだ! 早くしろ! でなければ、あの悪霊に、取り殺されるぞ!」

 地を這う老婆にそう怒鳴りつけるとアントニウスは手にした骨杖に更なる魔力を込めた。するともはや大広間が埋め尽くされるほどの屍の軍団が生まれ、一斉にカグラギの元へ殺到する。


「――不滅なる王 其は混沌を統べる者 熾天に揺蕩う太陽の牙」

「――我ら惨禍を望む者 。焦熱に身を委ねし烙印の使徒」

「――古き盟約 黒き魂に依りて 汝を此処に誘わん――」


 魔女達が詠唱を口にするとその周囲に蒼色の呪文光と魔法陣が浮かび上がる。やがて屍の群れの数が半数ほどまで減らされたところで、大広間の中空に異変が生じた。空間が裂け、暗雲が立ち込める。雷雲のような黒々としたそれは現世と異界を繋ぐ形なき門扉。閃光と共に地響きが鳴り響き、やがて青い炎を纏いながら、巨大な存在がそこから姿を現した。


「■、■■■■■■■■■■■■■■■――!!」


 不滅王グレーター・デーモン。ヴァン・ディ・エール深層に巣食う最強の魔神。人の十倍程の巨躯をもつそれは竜と人を掛け合わせたような異形の姿を為していた。深海のような青い体表は異界的な威容をそなえ、四本角を持つ頭部は厳めしく、煌煌と白い眼光を迸らせている。


「お、おお……!」


 魔女達が歓喜の声を漏らす。魔神が大翼を広げ、咆哮した瞬間、彼らは自らの勝利を確信した。彼らが喚び出したそれは最も深き迷宮の六大魔王の一柱そのものである。他の魔王がただ一個体のみを指すことに対して、彼らはその種族そのものが「魔王」として括られる。個にして群、群にして個。あらゆる呪文を無効化し、瞬時に受けた傷を再生する彼らにおよそ弱点と呼べるものはない。仮に討ち果たしたとしても異界に住む彼らは肉体を失うだけで決して滅びはしない。仲間の喚び声に応じるようにしてすぐさま現界する。故に「不滅王」。群れ成す青き異界の神々。


 だが。それがどうしたというのだろうか。


「……え?」


 不意に魔神の巨体がぐらりと揺らぐ。

 そして、ごとりと。魔女達の目の前にそれは落ちてきた。

 首である。それは紛れもなく、魔神の首であった。

 瞬間、巨体の上半身が音を立て破裂する。青黒い血の雨が大広間の中心に降り注ぐ。残された下半身は溶けるように崩れ落ち、それと共に落ちてきた紅い鞭が蚯蚓のように地を跳ね回る。魔女達は呆然とそれを凝視したまま、立ち尽くしていた。

 刹那、青に染まった世界に一筋の赤い線が奔る。

 それを目視する間もなく、彼らは地面に這いつくばっていた。


「あ、ふ? ――?」


 それきり手も足も動かせない。声すらもまともに出せなかった。わけもわからず、苦痛にのたうち身をよじる。青い血の海を泳ぎながら、彼らは地を這う互いの姿を認めると、己の身に何が起きたのかをようやく理解した。

 なるほど。動けないはずだ。

 腕も、足も。すぐそこに転がっているのだから。


「あ、ああ。……アあああああああああアアああああああああああああ!!!」


 魔女達の悲痛な叫びが轟く。

 半身を失った老爺と老婆は狂ったように身をよじり続けた。


「認めん、私は、こんな、こんなッ……!」


 アントニウスは必死の形相で治癒の呪文を唱え傷を塞ぐと、下半身を置き去りに、上半身だけで這い出してゆく。


「ま、待て! 私を置いていくな! アントニウス! アントニウス――」


 ぐしゃりと。老婆の頭が弾け飛ぶ。それを踏み潰した者の姿を、老爺は見た。


「――ば、けもの、」


 ばけもの。それは、ばけものだった。

 だって、人の形をしていない。


 片腕が無い。顎が無い。そのせいでだらりと下がった舌はまるで犬のようで。片目は零れて、腸が飛び出ている。――死体だ。ただの肉塊だ。

 けれどそれには表情がある。黒い瞳を見開きながら、こちらをじっと見つめている。まるで腹を空かした獣が舌なめずりをするように。

 は、嬉しそうに笑っていた。


「楽しい、か? 私たちをこんな、こんな目に合わせて……貴様は、楽しいのか!」


 見下ろすそれを見上げながら、老爺は声を張りあげた。


「よくも、よくもこんなおぞましい事ができたものだな! 我々が、今までにどれだけ、努力を重ねてきたと思っている! 苦痛を耐え抜いてきたと思っている!」


 ばけものに、言葉は通じない。


「自分が正義だとでも言うつもりか! 自分のしていることをよく見ろ! 貴様は、何も救っていない! 弱者を踏みにじり、悦に浸っているだけだ! わかるか!? 無意味なんだよ! 貴様のしていることなどすべて無意味ということだ!」


 ばけものに、言葉は響かない。


「だから、――ッ……やめ、ろ。やめ、てくれ。嫌だ、死にたくない。なぜ、なぜ? わたしが、こんな、こんな死に方をしなくてはならない? 私は、わたしは。あ、あ、あっ、あっ」


 ぽたり、ぽたりと。ばけものの舌から赤い雫が垂れ落ちて、老爺の両目を塞いでゆく。瞼と眼球が焼け焦げる臭いを嗅ぎながら、彼はいつか遠い日、自分が殺した人間達の表情を思い浮かべた。ああ。あれは、たのしかった。けれど。あれは、こんな。こんな。こんな。


 ばけものが嗤う。


 そして長い、とても長い、誰かの絶叫が響き渡った。


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