第二十四話「悪女」

                 ◇


 古ぼけた小屋である。獣に荒らされたような形跡から、持ち主はここを引き払って久しいようだ。部屋の北には間仕切を挟んだ寝室があり、西には窓、東には暖炉、南には入口の扉。部屋の中央にはこれまた古ぼけた食卓と二対の椅子がある。

 両者は向かい合うように席についていた。話題は改めての自己紹介から、必要な情報交換に移り、やがて互いの身の上話へと運んで行った。


「……そっか。三年前。そんなことがあったんだ」


 彼はヴァン・ディ・エールの《大崩壊》が魔女宗の企てである事、仲間達と共にそれを止める為に戦っていた事、戦いには勝ったが、迷宮の崩壊は止められなかった事。その後は独りで魔女宗と戦い続けていた事を話した。リーゼロッテはしばし沈黙した後、彼がここに至るまでの状況を飲み込み――苦々しく視線を落とす。


「……ごめん。あたし、アンタの事、何も知らないで。自分の言いたい事ばっか押し付けてた。……二百人殺したってさ。その、助けられなかった人たちの事も、含めてたんだよね?」

「……ああ」

「なら、何でそう言わなかったの。あ、あたしみたいなのと話したくなかったのは分かるけどさ。だからって、――誰かを殺したいだけなんて。そんな風に自分を卑下すること、ないじゃない」


 カグラギは何も言わない。虚ろに陰った視線を、テーブルの上に落とす。


「……あの夜、カラスが言った事を覚えているか?」

「え?」

「あれは嘘じゃない。全部本当のことだ」

「……どういうこと?」

「俺は、おかしいんだ。昔から」


 彼は静かに語り始める。どこか、遠くを見るような空虚な表情で。


他人ひとと同じように、笑えなかった。他人と同じように、泣けなかった。それがおかしいと気づいてからは、必死でまともな振りをした。他人の顔色を伺いながら、どう在れば自然で、正しいのかを、俺は常に考えて生きてきた」


 無機質な声色。仮面でも張り付いているかのような鉄面皮。

 いっそ異常とも言える献身。常に自分を責めるような行動の数々。

 彼という人間の正体を、リーゼロッテはその言葉に垣間見た気がした。 


「だが、結局は誤魔化せなかった。決定的に、俺は普通の人間とは異なる性格を抱えて生まれていたから。きっとお前にも、理解できないだろう」

「……異なる性格? それって、どんな?」

「俺は、戦いが好きなんだ」


 リーゼロッテは、言葉の意味をうまく飲み込めなかった。

 戦いが好き。――戦いが好き? 

 冷静に考えれば考える程、確かに――理解し難い価値観だ。


「……戦いが好き、って、それって例えば、どういうこと?」

「言葉通りの意味だ。俺は幼い頃から、戦いの事ばかり考えている。どんな状況で、どう身体を動かし、いかに相手を打ち負かすか。物心ついたその日から、それ以外に夢中になれるものがなかった。だから毎日のように、戦える相手を探した。例えばそう。――人を平気で踏みつけ、傷つけるような人間を」


 リーゼロッテは考え込んでいた。淡々とした物言いには、明らかな自嘲が含まれている。だから、その言葉には続きがあると信じていた。


「戦いたい。悪党を斃したい。俺の行動の本質は全てそこにある。昔から俺は、憎かった。弱者を虐げる強い者が。弱肉強食というこの世の理が。……だから、誰かの為になど。心の底から思った事はきっと一度も無い。――自分の為だ。自分の為に俺は人を助け、人を殺して来た」


 そこまで聞いて、リーゼロッテはようやく口を開いた。


「……なんとなくわかった。アンタが一体、何を抱えて生きてきたのか」


 馬鹿だと思う。ほんとに、――大馬鹿だ。


「カグラギ。……アンタはさ、ずっと気に病んでるんでしょ? 戦いが好きっていうことを。あたしが魔女で、自分の母親を殺した事を気にしてるみたいに。……自分のことが許せない」


 そうだ、と。静かに彼は呟いた。


「せめて、俺のしたことで誰かが救われたのなら良かった。だが俺は誰一人救えなかった。魔女の烙印は消えない。ある女は村人達に嬲り者にされ、ある親子は先を憂いて自らの命を絶った。この世界に逃げ場などないのだと、最期にそう言い残して」


 そう。逃げ場など何処にもない。都市にせよ村にせよ余所者の素性は疑われ、すぐに目を付けられてしまう。人里離れた場所で暮らすなども、実際には困難を極める。今や草木すら飢え細り、魔獣が蔓延るこの西方の地平では生きられるはずもない。


「それでも何度も、俺は繰り返した。助けた彼らのその後をどうするか、考えられるだけの頭もないくせに。――当然だ。俺は、自分のことしか頭になかった。誰かを助けるという行いに酔って、自分の薄汚い欲望を満たしていただけだった」


 そうして、彼は屍の山を築き上げた。幾百の、物言わぬ屍を。


「邪悪だ。――これを邪悪と呼ばずなんと言う。俺は、あの迷宮から解き放たれた魔物たちと同じ。血に飢えた醜い化け物なんだ。今まで生きて来て、何人を殺し、不幸にしたか分からない。そしてこれから先も、一体何人殺すのか。――俺は。それすらも分からないんだ」


 まるで、己の生命は災いそのものだと彼は自嘲する。

 その在り様は、良識を抱えた殺人鬼とでもいうべきか。確固としてあるはずの己の正義を信じ切れず、自らを邪悪だと謗る。矛盾に満ち、混沌とした脆い自我。

 それが、カグラギという男の正体だった。


「カグラギ」


 顔を上げて、と。そう語気を込めて少女は彼の名前を呼んだ。

 次の瞬間。


「ッ!?」


 カグラギは自分の右腕で自分を殴り、椅子から転げ落ちた。

 何が起きたのか。わけもわからないまま上体を起こすと今度は左腕言う事を聞かなくなり、再びその顔面を打ちのめす。


「……気分はどう?」


 リーゼロッテは席を立ち、鼻を押さえながら蹲る相手を冷淡に見下ろした。

 橄欖の瞳が妖しく輝いている。魔眼でカグラギの身体を操ったのだろう。


「……何を、する」

「何って? あんたがしたい事を手伝ってやっただけ。しょうもない自虐ってやつ」

 

 ……? 自分はそんなに自虐めいたことを口走っていたのだろうかとカグラギは首を傾げる。ただ、事実を述べていただけのような気もするが。


「……カグラギ。アンタさ……」


 大きく溜息をつきながら、リーゼロッテはびしりと指をさす。


「ごちゃごちゃうっさいのよ! 話なっが! そして暗っら! 余計な事をやれじめじめじめじめと! 自分語り大好きかあんたは! ああーん!?」


 いや、そもそもお前が語れと言ったのでは――? 思わずカグラギは言い返しそうになるが、また腕が暴れ出しそうな予感がしたので口の中で留めた。


「……大体、アンタさ、自分がとんでもない悪党だみたいな口振りだけど。別にそこまで酷くないっての。善人とっ捕まえて痛めつけんのが趣味だったら確かにクソ野郎だろうけどさ、胸糞悪い奴が居たら誰だってぶん殴りたくもなるわ! あたしだってそうだし! 実際に誰もそうしないのはそれをするだけの力も勇気もないだけ! 魔女狩り見てたらわかんでしょ? みんな『無抵抗の悪い奴』に石ぶつけてどいつもこいつもいい気になってる。人間なんてのはね、自分の身が安全で、罪に問われないなら、気に入らないヤツを平気で傷つけんのよッ……!」


 かつて腐れ赤毛と蔑まれた少女。「傷つけてもいい人間」として謂れの無い暴力に晒され続けた彼女だからこそ、人間の残酷さを知っている。


「そいつらに比べたらあんたはどう? そりゃ、勧善懲悪なんてのを実行に移すのはイカれてるのかもしんないけどさ。自分の身を危険に晒して、ひとりで戦って、心も体も、ボロボロになるまで戦い続けて、もう嫌になるくらい、自分に向き合って」


 洟を啜る音が鳴り、またぽろぽろと、大粒の涙が零れ落ちる。


「どこが悪党なのよ。どこがバケモノなの。そんなに傷ついてるアンタの、どこが」

「……」


 片腕で一度眼元を拭い、リーゼロッテは言葉を続ける。


「カグラギ。アンタは、自分を勘違いしてる。あたし、さっきちゃんと見たんだから。あの子を助けられたって言った時、すごく嬉しそうだった。さっき、昔の話をしてる時。すごく苦しそうだった。もし本当に、アンタがアンタの言う通り、戦いしか脳のない奴だとしても、……それが優しいってんじゃなきゃ、なんなのよ。バカ」


 茫然と、彼は少女の声に耳を傾ける。


「誰に何言われたか知れないけど。アンタは、戦いが好きって事を、楽しいって思う事を、いけない事だって思っちゃったんでしょ。その時に、アンタは自分の感情を全部押し込めちゃったんだ。……自分が辛いと、安心するんでしょ? 笑っちゃいけないとか、喜んじゃいけないとか思ったりしてるんでしょ。だからアンタは平気で自分の身を切れる。自分の事を粗末に扱える。それが、……あんたの罪滅ぼしだから」


 ――強くなくたっていい。

 ――きっといつまでも。誰かを思いやれる、優しい子でいてね。


 それはもう遠い昔。誰よりも大切で。大好きだった人が最期に掛けた願いの言葉。


(……そうか。俺は)


 いつしかそれを、呪いに変えてしまっていた。

 気負うあまりに耐え切れず。背を向けて忘れようとしていた。


「人間ってさ、もっと複雑なもんでしょ? いい所も悪い所も、どっちもあって普通なのよ。誰にでも優しい奴なんて、そんなのは本当に優しいって言わない。あんたはただ、戦う事が好きで、悪党が嫌いで、善い人達を助けるのが好き。――そういう人間なのよ。ただ、それだけのことじゃない」


 その言葉で、――今までの全てが腑に落ちたような気がした。

 

「……っく、はは」


 そして彼は口元を緩めると、小さく笑みを零した。

 そうか。――結局は、そういうこと。

 己は闘争を愛し、殺しを愉しみ――しかし同時に、優しい人達を愛していたのだ。


 だって彼らは、戦うことしかできない自分を受け入れてくれたから。

 だって彼らは、自分にはない輝きを持っているから。


 故に少年は、戦う理由に正しさを求めた。

 歪んだ生き方しかできない自分の生命を、せめて尊い誰かの為に在ろうとした。

 だから全部、嘘ではない。

 戦いの楽しみも。悪党を踏みにじる快感も。善人を救えない苦しみも。

 他の誰でもない、彼自身の感情だった。


「リーゼロッテ」


 眼を腫らした少女の顔を見上げながら、カグラギは穏やかに微笑む。


「ありがとう。誰かに叱られたのは、ずいぶん久しぶりだ」

「っ……だから、何で、あたしなんかにお礼言うのよ」

「お前が、優しい奴だから」

「……え?」


 カグラギは苦笑すると、立ち上がり、倒れた椅子を戻しながら言う。


「さっき自分の事を話してくれたな。自分は悪い事しかできない魔女の娘だと。俺はそうは思わない。お前は優しい人間だ。……それに。良い事だってしてただろ。俺と出会った日の事を覚えているか。あの時お前は、虐められていた子供を助けていた」


 トロアンでの出来事を思い出す。

 彼女にとっては、もう忘れかけていた些細な出来事。


「あんなの、別に、っ……」


 収まったはずの涙が、また溢れて出てしまう。あの日の彼が、なぜ自分を殺そうとしなかったのか、その理由が分かってしまったから。彼はきっと、――あんな些細な事を心の隅に置いて、自分を最後まで善人だと信じていたのだ。


「母親の事だって、そうだ。悪いのはお前じゃない。……こんな事を言う権利が、俺にあるのかは分からないが」

「……え?」


 そっと彼は、涙ぐむ少女の頭に手を置く。


「……頑張ったな。リーゼロッテ」

「……っあ、あ――」 


 膝をつき、赤毛の少女は声をあげて泣きじゃくった。

 彼は彼女が泣き止むまで、ずっとその頭を抱き、胸を貸し続けた。


「……もう、大丈夫か」

「……うん」

「……そうか」


 立ち上がると、カグラギはリーゼロッテに改めて向きなおる。


「確か、俺と取引がしたいんだったな。……あの話、まだ間に合うか」

「……え? それ、って」


 確と頷いた後、彼は少女の顔を真っすぐ見つめながら言う。


「条件はすべて、お前が望む通りでいい。……だから頼む。俺にも手伝わせてくれ。お前の、やりたいことを」

「…………バカ」


 大きく洟を啜って、赤毛の少女は恥ずかしそうに顔を伏せる。

 そして、


「――今更そんなの。間に合うわけないでしょ?」


 魔女は邪悪に微笑むと、見開いた双眸から橄欖色の光を輝かせた。

 成す術も、知る間もなく。男の瞳は虚ろに陰り、再び物言わぬ傀儡となる。


「……は。アンタってさ、ほんとバカよね。一回騙された相手に、付き合って。餓鬼の説教、真に受けて。二度も同じ手、喰らってるんじゃないっての」


 卑屈に口元を歪ませながら、リーゼロッテは傀儡と化したカグラギの目の前に立つ。そして彼の胸に、自分の額をうずめた。


「……ありがとね。カグラギ。あたしと、ちゃんと向き合ってくれて。自分のこと、話してくれて。あたま、撫でてくれて。あたし、……すっごく、嬉しかった」


 でも、と。少女は涙ぐみながら言葉を続ける。


「だめだよ。あたしなんかの、言う事聞いちゃ。カグラギはもう、ずっと頑張って、苦しんできたんじゃない。だからもう、使命とか、責任とか。……そんな辛い事、考えないでいいよ」


 そっと、少女は物言わぬ男の頭を抱く。


「ほんとは、あんたの苦しみを全部取っ払って。解放してあげたい。だけど、あたしの力じゃ、そんなことできないみたい」

 

 だから、と。最後に少女は微笑む。


「あたしのこと、忘れて。何があっても、もう思い出さないで。……あなたには、他にやるべきことがある。そうでしょ? ……だったらそれを一番、大切にして」


 少女は両手を伸ばし、彼の頬に触れ、そっと目の前まで引き寄せた。 

 支配の魔眼が命令を下す。――それは恒久的な、記憶の妨害。

 彼女が生きている限り、彼女に関する全ての知識と記憶を奪い去る呪いだった。

 緻密な魔力操作。その合間に、彼と過ごした僅かな時間が、走馬灯のように脳裏を巡る。そして名残惜しむように、少女は両手を離した。


「……さよなら。カグラギ」


 でも、と。最後に少女は呟き、唇を近づける。 


「あたし、魔女だから。……これくらい、別にいいよね?」


                 ◇


 そして彼が目を覚ますと、朝の光の中。知らない天井がそこにあった。

 次に気づいたのは、感触。とても暖かい。獣皮を敷いた寝台に横たえられ、更に重い毛皮を被せられているようだった。

 それはひとまず、いいとしよう。しかし。


「ここは、……どこだ?」


 古ぼけた小屋である。獣に荒らされたような形跡から、持ち主はここを引き払って久しいようだ。部屋の北には間仕切を挟んだ寝室があり、西には窓、東には暖炉、南には入口の扉。部屋の中央にはこれまた古ぼけた食卓と二対の椅子がある。

 とても奇妙だった。ここに来た覚えはないのに、目の前の光景には見覚えがある。

 だが何も思い出せない。靄がかかったように、脳が思考を拒絶する。


「……?」


 ふと仄かな香りが鼻先を掠め、彼は顔を顰めた。

 それはボロ小屋の材木の匂いとも、窓枠に生えたカビの湿った匂いとも異なる。

 自分以外の、誰かのにおい。


 もう思い出せない、彼女の残り香。



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