第十七話「変貌」
◇
「――リズ?」
聞き覚えのある声がして、あたしは顔を上げた。
眼の前には、見慣れたヤツの姿がある。
「探したわよ。泣き虫さん」
「…………うっさい、バカ」
鼻をすすりながら悪態をつく。本当は探しに来てくれたのが嬉しかった。
白猫のアイラ。もうコイツに出会ってから何年経つだろうか。
七歳のあたしが、行く当てもなく街を彷徨っていた時に出会った不思議な猫。最初見た時はとうとうあたしの頭がおかしくなったのかと思ったけど、アイラは独りぼっちのあたしの傍にずっと居てくれて、あたしに色んな事を教えてくれた。
文字の読み方、魔法の使い方、社会の仕組み、他人との付き合い方。都市魔術師の《学院》への入学を勧めてくれたのもコイツで、あたしはそこで人並みに暮らしながら《魔女宗》の狂った価値観と、あいつらの恐るべき計画の実態を知ったのだった。
だからコイツは恩人っていうか……恩猫? 正直なんなのか未だによくわからないけど、どうでもいい。アイラは、あたしの最高の友達。それで十分だ。
「……いい加減放してくれないかしら、リズ。私、結構苦しいわ」
「……やだ。もうちょっとモフらせろ。あとリズって呼ぶな」
「……長くて言い辛いのよね、リーゼロッテって。なぜそんな名前にしたのかしら」
「……い、いいじゃん別に。可愛いと思ったんだよ、当時のあたしは!」
実はちょっと後悔してたりもするけど。今更変えるのも何だかな。
腕の中のアイラを解放して、あたしは大きく溜息を吐く。
「っ……はあああ……」
辺りを見回すと、そこは星の光も届かない真っ暗闇の林の中。細い木の群れの輪郭が辛うじて分かる。どうやらこんな所であたしはずっと蹲っていたようだ。昔から嫌な事があったり不安になると、どうもこういう湿っぽくて暗い場所に逃げ込む癖がある。そして目を閉じて、耳を塞いで、自分の世界に引き籠る。昔も今も変わらない、腐れ赤毛ちゃんの習性。
それにしても情けない。ほとほと自分に嫌気が差す。どうしてこう落ち込むと昔の事ばかり思い出すんだろうか。何の解決にもなりはしないのに。いやむしろ落ち込む為に思い出しているのか。こうなると零れ出て来る涙もひどく滑稽なものに思えてきて、泣き腫らした自分の顔を爪で引き裂きたい衝動に駆られた。だけどそんな事をするまでもなく、今のあたしはきっとボロボロで酷い顔になっているはずだった。
あたしは今、《変貌》の呪文が解けてしまっている。ひどく取り乱したせいだ。
ぱっちりと開いた大きな瞳。筋の通った高い鼻。肌は染み一つない乳白色。身体は細めに作って胸の隆起は服の上から分かる程度に。高すぎず低すぎない身の丈は男から見れば可愛らしく女から見れば格好がいい。濃淡を与えて染め上げた自慢の赤毛は炎のように波打っている。
それがさっきまでのあたしの姿。だけどそれは《変貌》の魔術で取り繕った作り物。呪文が解けたあたしの姿は見るに堪えない不細工だ。腐れ赤毛、なんて呼ばれていたのも無理はない。
睨んでないのに睨んでるように見えてしまう
「大丈夫? リズ」
「あ……うん」
声を聞いてはっとなる。――卑屈になるのはこの辺にしておこう。もう十分に落ち込んだ。まずはこの見た目を何とかして気持ちを切り替えよう。
眼を閉じる。全身に流した魔力を薄い膜のようにして表皮を覆う。そしてそのまま頭に思い浮かべた心象をそのまま彫刻するように削り取っていく。八歳になった時、死に物狂いで習得した《変貌》の呪文。師匠のアイラ曰く、このカビの生えた古い魔術を使う魔女は最近じゃほとんど居ないらしい。術式にしても複雑だし、何より思い通りの姿形を作るのが意外と難しいからだ。上っ面を変えるだけならば化粧を塗りたくった方が手軽で堅実だし、そもそも魔女っていう人種はどういうわけか美形が多いからわざわざ使う必要が無い。だからこんな術を覚えようとするのはよっぽど自分の見た目に劣等感を抱いている奴――あたしくらいのものだった。
めきめき、ぷちぷちと小さく音が鳴る。続いて目玉が飛び出しそうな圧迫感と鼻骨が吊り上げられるような痛みが走る。拷問みたいな激痛も、とっくに慣れたものだ。
眼を開ける。暗がりでまったく見えないけど、変貌は成功したはずだ。
一応、夜目が効くアイラに今回の出来を確認してもらう。
「……ふうん。久しぶりにリズの顔が見れたと思ったのに。残念」
なにその答え。はっきりしろ。だけど口振りからするに問題はなさそうだ。
アイラは何故かあたしの元の顔をよく見たがる。言う程悪くないとか何とか言うけど、あたしにとってあの姿は呪いそのもので、忌まわしい過去でしかない。
次は体格の調整……これが一苦労。顔は目と鼻を弄るくらいだからそうでもないけど、身体を弄るとなるとこれがめちゃくちゃ痛い。だからどう頑張っても人型の範疇を超えた変貌はあたしには無理。アイラはたまに馬とか他の動物になったりするけど、一体どうなってんだか。
鞄から噛む為の布を取り出す。薄汚れた布地にくっきりと歯形がついている。これを咥えないと痛みのあまり舌を噛み切りそうになるから必需品だ。
「リズ」
「ふぁに」
布を口に当てた所でアイラが声をかけてきた。
「さっきの事だけど。気づいてた? 途中から喋っていたのはあのカラスさんよ」
「……あー。うん。知ってた」
嘘だ。今知った。何か妙な気はしていたけどあの鴉が何かしてたのか。言われてみれば確かに途中から口調とか全然違ったような。本当何なんだあの鴉。クソ腹立つ。
「彼自身はまた別の事を思っているのかも。交渉の余地はまだ――」
「関係ない。あの鴉が適当に喋ったんだとしても、あいつは止めなかったんだから」
それが全て。協力する気なんてさらさら無いんだろう。そもそも根本的に計画が間違っていた。脅しにするにも中途半端で、協力を乞うにはあたしは不誠実に過ぎた。
そう。今回の件はただ、いつもの腐れ赤毛の悪癖が出ただけに過ぎない。
それはずっと抱え続けている欲望。誰かに認めてほしいという幼稚な感情。
あたしは仲間が欲しかったのだ。あたしの考えを。目的を。他でもないあたし自身を認めてくれる、そんな誰かが欲しかった。この何もかもが狂っている世界で、自分は独りじゃないと思いたかった。間違ってなんかないのだと言って欲しかった。
結局はそういうこと。他人に勝手な妄想を抱いて、勝手に傷ついただけ。
私情に囚われてるからこういうことになる。アンヌとユーリの件にしたってそう。欠片でも敵に同情なんてしちゃいけない。目的を達する為に、あたしはもっと冷徹になるべきだ。
あたしは異端の魔女。悪に仇なす悪――ただそうあればいい。
布を噛み直し、黒魂晶を握り締める。指先から手足へ、心臓から手足へ。二つの魔力は合流して渦巻くように混ざり合う。魔術師には青い血が流れている――そんな言葉はあながち間違いでもない。そもそも身体の造りが常人とは異なるのだ。血の管を巡るこの感覚が非魔術師である彼らには分からないらしい。
だから実際、人とは異なる化け物なのだろう。
魔力。あらゆる事象を具現化する万能の力。それを生まれながらにあたし達は操れる。与えられたその特権は《太源》が枯れかけたこの時代にさえ一種の奇跡を顕現させる。身体に魔力が満ちたのを感じた。術式も安定。――《変貌》を始める。
「……ッ」
激痛が走る。血が逆流するような錯覚。骨が軋み肉は痙攣する。全身の器官が収縮して変容する様を、逃れようもなく受け入れる。声にならない絶叫が口から零れた。布を噛んでいなければ本当に舌を噛み切っていたかもしれない。――変貌は醜悪な魔術。その古い謂れに相応しい、おぞましい痛みがあたしの全身を支配した。
火達磨になったような心地を味わいながら、堪える。堪え続ける。終われ。終われ。早く終われと繰り返す。繰り返す、繰り返す、繰り返す――。
そして、《変貌》は完成した。全身を蠢くようだった熱が冷めてゆくのを感じる。もう痛みはない。ぴりぴりとした感覚が余韻となって肌の上を跳ねまわるだけ。
「――ふうん。今回は随分可愛くなったわね」
アイラが鈴を転がすような声で言う。
こいつが化けたあたしの姿を褒める事は滅多にないから上出来なはずだ。
噛んでいた布を吐き捨てると、不思議と笑みが零れた。この口元の吊り上がりもまた、すぐ悪くなる目つきと同じで、変貌でも隠し切れないあたしの本性なんだろう。
「よし。行こう、アイラ」
もう気持ちは切り替わった。これまでどおりに事を運ぶとしよう。
どいつもこいつもあたしを馬鹿な餓鬼だと。お前のしている事は戯れに過ぎないと抜かす。上等だ。なら望み通り見せてやろうじゃないか。餓鬼の戯れ事ってやつを。
間抜けなお前らは、それに取り殺されるんだ。
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