第十六話「怪物」

                  ◇


 生まれた時からこの世界が憎かった。

 物心ついた時には死にたいと思ってた。

 幸せだと思った事なんて一度もない。

 だってみんな、あたしの事を嫌いだったから。

 

 特に、母親は。「あんたさえいなければ」があの女の口癖で、何かにつけてあたしに暴力を振るった。母親らしいことをしてもらったことは一度も無い。名前すら、あたしに付けなかった。だからあの女をお母さんなんて呼んだ事は一度も無い。

 父親の顔は知らない。あたしのせいで捨てられたんだとあの女は言っていた。

 あの女は毎日のように男を連れ込んで、あたしを家から締め出した。その間、あたしは裸足で街を歩き回るしかなかった。すっかり辺りが暗くなっても家の鍵を開けてもらえなくて、一晩中玄関の前に座ってる事なんてしょっちゅうだった。

 そんな生活を送っていたせいで、あたしの身なりは凄く汚かった。いつも汚れたボロを着て、ひどい臭いを放ってたから、腐れ赤毛なんて呼ばれてた。近所のガキ共には魔女だ魔女だと追い回されて、泥と糞だらけでやっと家に帰っても、水すら使わせて貰えない。勝手に家のものを使ったりするとあの女に殴られる。あいつはとにかくあたしが憎かったらしい。そんなに憎いんなら、いっそ殺せばいいのに。いつか役に立つ日が来るかもしれないから生かしてやってるんだとあの女は言っていた。

 あの頃は何もかもが嫌だった。痛みを我慢し続けて、幸せそうな誰かを羨むだけの日々。苦痛以外の感情を知らなくて、いっそのこと死んでしまいたかった。

 だけど結局は、生きる事を選んだ。

 この世界が憎かったから。苦痛から逃げたい気持ちよりもそれが勝った。何であたしがこんな目に合わなくちゃならないんだ。簡単に死んでやるもんか。いつかあたしを笑った奴らに報いを与えてやる。それだけを支えに、ただ日々を生きていた。


 不条理への敵愾心。――それが異端の魔女あたしの全ての始まり。


 それからあたしは、大嫌いな奴らが嫌がるような事をたくさんした。

 近所のクソ婆の香水に家畜の糞を混ぜ込んだり、嫌味ったらしい金持ちの娘の服に虫を滑り込ませたり、あたしを教会から蹴り出したハゲ司祭の頭に落書きしたり、あの女が連れ込んだ若い男には病気が移ると吹き込んでやったりした。

 それは当時のあたしにとって復讐のつもりだったんだろう。今にしてみれば些細な悪戯ばかりだけど、あたしはバレないようにそれを実行するのが凄く得意だった。

 得意すぎて、そのうち物足りなくなった。バレないってことは何をやってもあたしの存在が認識されないということ。陰から仕掛けた悪戯を見守るのは小気味が良かったけど、あいつらは質の悪い悪戯をされる理由も何も理解していないのだ。それは、ひどく虚しい。あたしはあいつらに自分の存在を思い知らせてやりたかった。あたしに酷い事をするから酷い目に合うんだ、と。

 そして七歳になった時。あたしは一線を越えて絶対にバレる悪戯をすることした。

 あの女が何よりも大事にしている指輪を持ち出したのだ。

 最初はドブにでも捨ててやろうかと思ったけどそれではつまらないと思った。使い道を考えてぶらぶら街を歩いてる内に日が暮れそうになっていた。このまま指環を持ち帰れば何とか半殺しで済むかもしれない。だけど今更そんな媚びを売るような真似は御免だ。いっそ殺されてやろうとあたしは思っていた。

 いよいよ夕陽が市壁の向こうに隠れそうになった時。広場の片隅で蹲る若い女の人が目に留まった。それは街をぶらついている間に何度か見かけた姿だった。両手に大事そうに抱えたものは包帯でぐるぐる巻きにされている。それが何なのか特に気にも留めなかったけど、近くに行くとその正体が分かった。

 

 ……赤ちゃんだ。

 

 何となく興味を惹かれて、あたしはバレないようにそっと女の人に近寄った。

 女の人は胸元をはだけさせている。どうやら赤ちゃんに乳を与えているみたいだった。だけど少し、様子がおかしい。赤ちゃんは乳に吸い付きもせず、女の人はすすり泣いている。そして、しきりに「ごめんね」という言葉を口にしていた。

 あたしはしばらくそれをぼーっと眺めていた。

 なぜだか、胸の奥がきゅうと締め付けられるような不思議な気持ちになった。

 眼の前の親子の姿は、凄く綺麗で大切な、美しいものに思えて、居ても立ってもいられなくなって、あたしは気が付くと母子の前に身を投げ出していた。

 汚い姿のあたしを見たその母親は、小鬼でも見たような悲鳴を上げた。それから庇うように赤子を抱きかかえる。ちょっと泣きそうになるのを堪えながら、あたしは指環を母親に差し出した。


 ――これ、あげる。


 母親は明らかに戸惑っている様子で、受け取ろうとはしなかった。無理もないだろう。乞食にしか見えない餓鬼が、見るからに高価な指環を差し出して来たのだから。

 

 ――あなたは何? 誰? どこからそんな物を?

 

 あたしが口ごもると、母親は怪訝な顔をした。あたしは慌てて、通りがかりの騎士様に渡して来いって言われたとか何とかそんな事を言ったんだと思う。だけど結局、その母親は指環を受け取ろうとはしなかった。ひどく居た堪れない気持ちになったあたしは半べそをかくと、母親に無理やり指環を押し付けて逃げるように走り出した。

 何やってるんだろう、あたしは。そもそもこんな、糞まみれのガキの施しなんて誰が受けるっていうんだ。赤子に変な病気が移るとかそんな事を思われたに違いない。ああ。こんな事ならもっと別の使い道を考えればよかった。

 泣きながらそんな事を思っていたら、走って追いかけてきた母親に肩を掴まれた。

 恐る恐る振り向くと、母親はあたしの両手を掴んでこう言った。


 ――ありがとう。本当に、ありがとうね。


 言葉の意味が、理解できなかった。あたしは怖くなってまた逃げ出した。

 広場から遠く離れ、路地裏に入り込んだあたしは汚れた壁を背にしてしゃがみ込んだ。そこはあたしにとっては定位置みたいなもので、家よりもずっと落ち着く場所だった。息を整えて、涙と鼻水でびしょ濡れになった顔を、着ているボロで拭う。それから日が沈むまでそこで蹲っていた。さっき掛けられた言葉の事を思いながら。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう――頭の中でずっとその言葉を繰り返す。

それは、一体どういう意味の言葉だったか。聞いた事があるはずなのにどこか遠い異国の言葉のように思えた。

 やがて、思い出す。ああ。そうだ――あれは、お礼の言葉だった。

 どくん、と。鼓動が高鳴るのを感じた。そして、ぽろぽろと。止まったばかりの涙がまた溢れだしてくる。訳の分からない、知らない感情が押し寄せてきていた。それはあの連中に仕返しをした時の快感に似てもいた。だけどあれとはまるで違う。

 黒ではなく白。それは悦びではなく、喜びの色。

 うれしい。

 そう。あの時あたしは、嬉しいと感じた。そんな気持ちになったのも、生まれて初めての事だった。居ても立っても居られず叫びそうになるのを必死で堪えながら、あたしはその感情を噛み締めた。

 汚いと、醜いと。お前はこの世界に居るべきではないのだと。ずっとあたしは誰かに疎まれ蔑まれ続けてきた。ずっとその存在を否定されてきた。

 けれど、お礼を言われたあの時。あたしは初めて自分の存在を認められた気がした。ずっと憧れていた――綺麗なモノに、なれた気がした。

 もしかしたら、あたしは変われるんじゃないかって、そんな希望を抱いた。

 だけどそんなの、ただの幻想でしかなかった。


 ――死ね。死ね。死ね。


 家に帰った途端のことだった。

 目を血走らせたあの女が、あたしの首を両手で締め上げる。

 別にそれは珍しいことじゃない。だけどその日は違った。

 首の骨が折れるんじゃないかってくらいの力が籠っていた。


 ――死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。


 自分で産んだくせに、一体何を言ってるんだろう、このひとは。

 いや、違うか。産みたくなかったのに、あたしが生まれて来てしまったのか。

 そのせいで、おとうさんに、すてられて。

 しらないだれかに、すがるしかなくて。

 かわいそうな、おかあさん。


 そんなにさびしかったのなら、あたしがそばにいてあげたのに。

 あたしが、なんでもしてあげたのに。


 なんで、死ねなんて、いうんだよ。

 なんで、なまえも、つけてくれなかったんだよ。


 ――おまえが、しんじゃえ。


 意識が途切れかけた、その時だった。あたしの首を絞めていた母親が、急に力を弱めたと思えば、両の目を緑色に光らせながら、狂ったように自分の首をぎりぎりと絞め始める。床に倒れて、ぴくりとも動かなくなってしまう。


 ――おかあさん?


 その時あたしは、初めてその言葉を口にした。

 それから、何度も、何度も。目を剥いたまま動かないその身体をゆすって呼びかけた。あんなに憎かったはずなのに、あんなに大嫌いだったのに、何故だかすごく悲しくて、涙が止まらなかった。

 そのまま泣きながらうずくまっていると、いつも家に来る男が、動かない母親とあたしの姿を見つけた。


 ――お前が、殺したのか。


 ちがう。ちがう。そんな事を言っても無駄だった。無理やり腕を掴まれて、壁に向かって放り投げられる。殺されると思った。殺されたくないと思った。あたしは来るな、と叫びながら、向かってくる男の眼を睨んだ。男の眼が緑色に光って、突っ立ったまま動かなくなった。今しかないと、あたしは逃げだした。

 それから走って、走って、走り続けた。

 暗い路地裏で眠り、気づけば夜が明けようとしていた。

 全身が痒くて、身体を洗いたくなって、まだ誰も居ない広場の噴水で顔を洗った。

 水面に不思議な緑色の光が反射していた。何か、見覚えのある光だった。

 急に吠え声がして、後ろを振り返った。痩せた野良犬が、あたしを睨んでいた。

 来ないで。そう祈りながら目を閉じた。野良犬はいつまで経っても襲ってこなかった。不思議に思いながら目を開けると、野良犬の眼に、あの緑色の光が灯っていた。

 恐る恐る近づいて、あたしは動かない野良犬の前に立った。


 ――お手。


 あたしが差し出した手の上に、野良犬は前足を乗せた。

 伏せろ、跳べ、回れ。あたしが命令すると、全部いう事を聞いた。

 動物に懐かれたのなんて初めてで、あたしは夢中になって野良犬を撫でた。だけどその眼から緑の光が消えると、急に野良犬はどこかへ逃げていってしまう。

 不可解な出来事に、あたしは首を傾げていた。喉が渇いたから、噴水で水を飲もうとする。そしてまた、あの緑色の光が反射している事に気づいた。あたしの眼が緑色に光っているのだと、そこでようやく気付いた。

 そしてある考えが、頭を過ぎった。この緑色の光の正体。野良犬の眼に、あの男の眼に、そしてお母さんの眼に灯っていた同じ光の意味。あの時、何が起こった? その時あたしは、何を思っていた? もしかして、もしかしたら、この眼の光は。

 考えてる途中にふと香ばしい匂いが漂って来て、あたしのお腹がぐうと鳴った。匂いに釣られて歩いていくと、小さなパン屋さんに辿り着いた。もう一度腹の虫が大きく鳴って、――確証もないまま、あたしはゆらゆらとパン屋さんの店先に近づいた。案の定、怪訝な顔をした店主のおじさんと、眼が合う。


 ――パンをください。ひとつで、いいです。

 

 店主のおじさんの眼に、あの緑色の光が灯る。するとおじさんは無表情のまま、あたしに焼き立てのパンを一つ手渡してくれた。あたしは恐る恐るそれを受け取ると、逃げるように走り出す。そして誰も居ない路地裏まで辿り着くと、思い切りパンに齧りついた。焼き立てのパンなんて一度も食べたことがなくて、一口食べただけでぽろぽろと涙が零れてきた。

 ああ。やっぱりそうだ。この眼の力は、きっと神様がくれた魔法だ。きっと神様が不幸なあたしにこの力を与えてくれたんだ。これでもう、ひもじい思いをしなくていい。誰かにいじめられても逃げなくていい。望めば欲しいものがなんでも手に入る。お金も、食べ物も、なんだって。そうだ。なんだって、――。

 急に吐き気が込み上げて来て、あたしは鼻血を出しながら地面に倒れた。

 ゲロまみれの床に倒れながら、あたしは狂ったように笑った。

 自分の首を絞めたまま動かないおかあさんの顔を、思い浮かべながら。


 ――ああ、そっか。

 ――あたしがやったんだ。

 ――あたしが、おかあさんを殺したんだ。


 やっぱり神様なんていない。

 だってあたしが本当に欲しかったのは、こんな力じゃなくて。


 ただ、あたしは、おかあさんに――、

 

 思った途端、涙が零れて、止まらなくなった。

 指輪を盗んだのは、きっとあのひとに構って欲しかっただけ。

 殴られてもいいから、許してほしかっただけ。

 あの母子が美しく見えたのは、ただその姿が羨ましかったから。

 をすこしでも、わけてほしかったから。


 ああ。あたしはきっと、怪物なんだ。

 やることなすこと、全部だめで、悪い事ばっかりで。

 

 だから誰にも、愛してもらえない。


 こんなふうに、泣いてても。

 誰にも見つけて、もらえない。


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