第二十一話「あばら屋の夜」
◇
「……騒がなかった事を感謝する」
家主である老爺の拘束を解くと、カグラギは軽く頭を下げた。
狭い路地にある民家の中。傾いた家の隅には助け出した母娘が蹲っている。
「貴方は……一体、なんなの?」
怯える娘の肩を抱きながら、母親がカグラギに疑問を投げかける。自分が何なのか、何故こんなことをしているのか。そんな事は逆に聞きたいくらいだった。
「俺が何者かは関係ない。……ただこうなった以上、貴方達を逃がす為に、俺は力を尽くす。そのつもりだ」
「にが、す?」
眼を伏せて、声を失ったように沈黙していた娘が男を見上げた。
「……おかあさん。わたしたち、にげられるの?」
小さな手が母親の袖を握る。光を失った、あどけない眼差しに微かな期待を浮かべながら。母親は娘を強く抱きしめると、相対する男を睨みつけた。
「……この子に、希望を抱かせるような事言わないでください! もう、覚悟したんです……二人で。あんな目にあったのに、今更――」
母親はそこで言葉を切り、唇を噛み締めた。思い出されるのは凌辱の記憶。己ばかりか眼の前で我が子を侵される悪夢の光景。一生消えず、拭いきれない傷跡がそこにある。この母娘にとっては、苦痛の終わり――つまりは死だけが。あの場で火に掛けられる事がもはや唯一の救いであり、心の拠り所だったのかもしれない。確かに残酷な話だ。今にして、希望を抱かせるなど。慈悲をかけるというならば、いっそこれ以上の苦痛が伴わないように此処で母娘の首を落とすべきなのかもしれない。
だがカグラギにそれはできなかった。未だ己の中にある理想を捨てきれずにいるからだった。理不尽な扱いを受け辛い目にあったのなら、それで終わってはいけない。生きて、幸福な人生を取り戻さなくてはならない。世の姿とはそういうものであってほしい。そんな願いを抱き続けている。
それはこの不条理な世の中で生きるにはなんと甘く、青い考えだろうか。しかもその理想の根底にあるのは利己的な同情とくだらない正義感に過ぎず、偽善と言うべき他にないものだ。
せめてその偽善が誰かの為に功を為すならば意味はあったのかもしれない。
だが。それは偽善ですらない、悪辣な行いに過ぎなかった。
三年前、同じような事を何度もした。しかし誰一人として、彼は救えなかった。
本当に、――誰一人として。
この街に来て異端の魔女を殺し、過去の自分を断ち切るつもりでいた。しかしこの有様はどうだ? また自分は、同じ過ちを繰り返そうとしている――。
「信頼しろとは言わない。ただ少しでも、希望を抱くなら。俺について来てくれ」
母娘は震えながら、やがて首を縦に振った。元より他に選択肢はなく、目の前の男がもたらした蜘蛛の糸のように細い可能性に縋るしかなかった。
「また走る事になる。今は身体を休めてくれ。……ご老人。済まないが少しここに厄介になる」
「構わんよ。……どうせ私は独り身だ」
老爺は立ち上がると、一度奥の部屋に引っ込み、袋を抱えて戻ってくるとテーブルの上に食べ物を並べ始めた。固焼きの黒パン、チーズ、干しブドウ、薄められたピケットとミルク。
「こんなものしかないが、良かったら食べるといい」
「い、いいんですか?」
思わぬ申し出に、母親が困惑した様子で尋ねる。老爺は頷きながら答えた。
「……私の息子夫婦は孫と一緒に火に焼かれた。だから何も言わんでも分かる。お前さんも、お嬢ちゃんも。さぞ、……辛かったろう。何も心配しなくていい。遠慮せず食べてくれ」
老爺がそう言うと、母親はしきりに礼を言い、娘にパンとミルクを食べさせる。干しブドウの酸っぱさに娘が顔を顰めると、老爺と母親から微笑みが零れ出た。
「ほら、そこのあんたも。気にせんで食べてくれ」
「……いや、自分は」
「いきなり押し入ってきた時は驚いたが、……あんた、悪い人間じゃないだろう。眼を見ればそれくらい分かる。頼む。どうかこの子らを、助けてやってくれ」
カグラギは俄かに目を見開いた。
老爺の言葉は、自身に課せられた責任そのものに思えた。
『世の中バランスで成り立ってんだよ。一方的に助けるとか戯けんじゃねえ』
あの夜、シオンが言っていた言葉を思い出す。
それは、いつしか眼を背けていた事ではなかったか。誰かの施しを受けないのも、一方的に与えるだけなのも。全ては責任を――託される思いを。負わない為の甘えではなかったのか。
ひとときの安息に身を寄せ合う母娘の姿に、もう一度視線を投げる。
(今更、何を。――俺は)
もうさんざん逃げてきたはずだ。眼を背けてきたはずだ。
何度何度も押し潰して、二度と蘇らないよう、殺し続けてきたはずだ。
だけど、知ってしまった。あの魔女が胸に抱く、あまりにも青い炎に当てられて。
かつて自分が、何に怒っていたのか。かつて自分は、何を守りたかったのか。
「……助けます」
必ず。震える声は、果たして声にはならなかった。
しかし、老爺にはきっと聞こえていた。冷たい鉄のようだった青年の声と表情が、その時ばかりは、脆い人肌の熱を帯びていたから。
手渡されたパンを、彼が粛々と受け取ったその時。
「――やっと見つけた」
不意に澄んだ声が室内に響き、カグラギは扉の方を見やった。
「私よ。妖刀使いさん」
「お前は……」
異端の魔女の飼い猫。一体何処から入り込んできたのか。声を出すその時まで、まるで気配というものが感じられなかった。その点で言えばあの魔女よりも空恐ろしくもある。
「アイラよ。覚えなくてもいいけれど。リズに伝言を頼まれてきたの。……あの鴉さんは?」
白猫は流暢に喋りながらきょろきょろと辺りを見回す。
老爺と母娘はその奇怪な姿に目を丸くしていた。
「ここには居ない。いつも面倒が起きれば高みの見物をして楽しむ。そういう奴だ」
「……ふうん。良い相棒をもってるわね。それで、伝言だけれど。夜明けの直前に、その親子を連れて北門に来て欲しいって。あの子が色々、抜け出す為の準備をしているみたい。門までの道のりの確保と、夜までの時間稼ぎはあの子と私でやるから、安心していいわ」
「……分かった。指示に従う」
「そう。良かった。じゃあ、私は外に戻るわ。色々とやることがあるの。時間になったらまた来るから、ここにいて頂戴」
カグラギが頷くとアイラは扉の方へ歩いていく。
「ああ、それと。これは伝えなくていいって言われたのだけれど。――あの子、貴方にありがとうって言ってたわ。……それじゃ」
アイラの姿は透明に薄れやがて完全に見えなくなった。霧のように消えた白猫は、やはり霧になったのだろうか。扉は閉じたまま、一つの気配が完全に消え失せる。
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