第二十話「晩夏の雪」
◇
「くっそ、なんで、外れない……!」
火刑台によじ登った透明の少女――リーゼロッテは親娘を縛る鎖につけられた錠前と格闘していた。解錠はある程度訓練していたが、焦りが指先を震わせる。鎖を物理的に断ち切るだけの魔術を、才能に乏しい彼女は持ち合わせてはいなかった。
状況は絶望的――いや、そもそも、この日に至った時点で詰みだったといえるだろう。公開処刑の場で罪人を助け出すのはまず不可能だ。取れる手段としては街道で護送している所を狙うか、牢獄から助け出すかの二択。しかし彼女がこの街に辿り着いた時点で、処刑までの猶予は二日。牢獄には異常な程に厳重な警備が張り巡らされ、ついに忍び込む事すら適わなかった。
それでも打てるだけの対策を打ったはずだった。公開処刑自体が罠であるという事と、広場に魔術妨害の結界が貼られている事を突き止めた彼女は、結界の術式に細工を施した後、教会の手の者を操り、虚偽の報告をさせて障害を打ち払った。
しかしあくまでそれは救出の為の必須条件の一つに過ぎない。
肝心要の手段に関しては、もはや無謀な手段しか残されていなかった。
『屈強そうな男達を操って騒ぎを起こし、助け出した母娘に透化の術をかけて広場を抜け出す。慣れ親しんだ街だ。広場を抜ければ逃げ道はどうとでもなる――』
だが魔眼で同時に操れる人員の数は十二人。命令系統を簡略化させても十七人が限界。対する衛兵の一団は広場の中心だけでも二十五人ばかりもいた。決定的に数が足りていないばかりか、民衆は審問官の助勢に回る。押し寄せる人波の勢いは凄まじく、成す術もなかった。
誰が見ても、明らかな負け戦。
それでも、少女は諦めたくなかった。あの母娘を前にして、救い出す他に選択肢などは有得なかった。莫迦と無謀と誰かに笑われようとも、他でもない自分自身が無理だと理解っていたとしても――それでも走り出さずには居られなかった。
「あと、少し……!! あと少しなの、に……!!」
両目が赤く血走っている。魔眼の酷使が負荷となり肉体に明らかな影響を及ぼしていた。割れるような頭痛を噛み殺し、鼻血を拭いながら少女は手にしたロックピックに力を込める。
「――!?」
その一瞬。パン、と奇怪な破裂音が響く。少女が視線を投げると広場の中心に聖堂騎士の援軍が駆けつけてくるのが見えた。援軍の先頭には仮面をつけた奇妙な男。翳した右手には小型の銃が握られており、その先端から細い煙が上がっている。
冷静さを取り戻したリーゼロッテは自身の《透化》が切れかけている事に気が付いた。慌てて火刑台の後ろに身を隠し、息を潜めながら仮面の男の方を伺う。
「ひどい有様だな。貴様、一体何をしていたのだ?」
ピエールが指揮をしていた隊長を問いつめる。
その声音は怖気がするほどに冷たかった。
「は、暴徒を鎮圧しようと――」
「違う。何故殺さないのかと聞いている」
「……あ、いや。しかし。彼らは、その」
隊長は言い淀む。そう。この場に居る誰もが思っていたに違いない。『教会に歯向かおうとする者が現れるわけがない』と。民衆は活気づき、酒を煽る者も居た。衛兵たちはこの騒動を質の悪い酔っぱらい達の仕業としか受け止めておらず、事前に聞かされた話も真剣には受け止めてはいなかった。
「日和るのも大概にしたまえよ。彼らは明らかに《魔女》共を助けようとしていた。この場に居てそんなことも分からなかったのか? 愚か者め。教会に歯向かう者は全て異端だ。殺さない理由がどこにある」
「し、しかし――」
「言い訳はよせ。それとも恐ろしいのかね? ……何、躊躇うことはない。これは神のご意思なのだから。私がやってみせよう」
仮面の男が腰に提げた剣に手を掛けた瞬間、周囲に異変が起きた。
「……何だ?」
取り押さえられて、なおも抵抗を続けていた暴徒達が突然気絶して頭を垂れた。まるで、糸の切れた人形のように。誰もがその不気味な光景に眼を見張らせる中、群衆の中から都市魔術師が現れると仮面の男の元へと急ぎ駆け寄ってきた。
「審問官殿! ご報告があります。結界が何者かに細工された形跡があり、機能していなかった可能性があるとのことです」
「何、だと?」
「それから――先程あちらで取り押さえた暴徒の一人を調べた結果、どうやら彼らは魔術による精神干渉を受けていたようです。おそらくは、仲間の魔女の仕業かと」
群衆の間にどよめきが起こった。
「どういうこと?」
「魔女だよ。魔女があいつらを操っていたんだ」
「そうだよ。あいつ、昼頃から少し様子がおかしかったんだ。きっと魔女に――」
「クソッ、汚い真似しやがる」
都市魔術師の報告を皮切りにして、暴徒達の仕事仲間や家族が広場の中心に次々と名乗り出て来た。そして彼らの潔白を訴える声を必死に挙げる。
「ピ、ピエール殿。やはり彼らは異端では……」
衛兵隊長がおずおずと尋ねる。
仮面の男は舌打ちすると、剣の柄に掛けた手を降ろした。
「……。どうやら、そのようだな。……周囲を片付けさせろ。処刑を続行する」
「は、はい。了解いたしました」
隊長の命令を受け、衛兵達が暴徒達を広場の外へと運び込んでいく。人々は不安げな面持ちでそれを見つめていた。もはや広場に先程までの活気は見当たらない。空模様と同じ沈鬱な空気が漂い、広場から立ち去ろうとする者も見受けられた。
「審問官殿、民衆は怯えています。……日を改めるべきでは」
「その必要はない。……私に任せたまえ」
部下の進言を打ち切るとピエールは火刑台の上に登り、声を高らかに張り上げた。
「お集まりの諸君! これは奴らの、魔女共の挑戦だ! そして同時にこれは神の与えたもうた試練に他ならない! 主は我々の信仰を試しているのだ! 怯える必要はない! 眼を背けてはならない! 愛すべき兄弟姉妹よ! 忌まわしき魔女が火に焼かれる様をしかとその眼で見届けよ! そして魔女になど我々は決して屈しないということを、見せつけてやるのだ!」
宣教師もかくやとばかりの堂々たる演説が広場中に響く。暴徒を言語道断に斬り捨てようとした男とは思えぬ口ぶりであった。しかし人々はそんな事を知る由もなく、広場からは大喝采が送られる。
「く、そ……!」
群衆に紛れながらリーゼロッテは爪を噛んでいた。消沈した空気が一瞬、処刑の中止などという幻想を抱かせたが、それもあの男が完全に打ち払ってしまった。手持ちの黒魂晶の魔力は残り少なく、自身の小源に残った魔力はもはや精々二、三人を同時に操れる程度にしか――、
「……あ?」
ちかちか、と。視界に白い星が閃く。
「……え?」
気が付くとリーゼロッテは地面に倒れ伏していた。呼吸が荒く、全身に汗が大量に噴き出ているのを感じる。身体に力が全く入らず手も足も動かせない。その感覚に、覚えがある。――貧血だ。流れ出た鼻血によるものか、極度の緊張か、眼の乱用の反動か。あるいはその全てであろうか。限界は、本当にすぐそこまでに来ていたのだ。
(まず、い……)
続いてリーゼロッテは猛烈な吐き気に襲われ、地面に反吐を吐き散らした。今度は黒魂晶の魔力の過剰供給による魔力酔いの症状だった。透化の術が強制的に解除され、ついに少女の姿は衆目の元に晒される。
「お、おい。どうした? 大丈夫か?」
「顔色が真っ青だぞ……誰か! 都市魔術師を呼んでくれ!」
「何処の子だ? 親はいないのか!」
周囲の人々の助けを無視して、呻きながら少女は地面を這ってゆく。目立つことだけは避けねばならないというのに、何という失態だろうか。魔力は時間を置けばある程度は回復する。処刑が再開されるまでにせめて群衆に紛れなくてはならない。だがもう何もかもが遅かった。人々の注目は地を這う一人の少女に向いている――。
「一体、何事だ」
ピエールが這いずる少女の元に現れる。人々の異変に気づき駆けつけたのだろう。
「……これはこれは。大丈夫かね? お嬢さん」
ピエールは猫撫で声でそう言うと少女に手を伸ばした。俯く少女は表情を固く強張らせていたが、顔を上げた時にはもう年相応の泣き顔を作り出していた。
「ひっ……ひっく……おとうさま……おとうさまはどこ……?」
ピエールに助け起こされると少女はそのまま縋りついて泣きじゃくる。
年の頃は十を数えたばかりであろうか。身に着けた外套と衣服は上等なもので何処かの名家のご令嬢といった気品のある佇まいだ。顔つきもその高貴な服装に似つかわしく美しい。黒みがかった栗色の髪に巻かれたリボンはいかにも少女然としていて愛らしく、鮮やかな橄欖色の瞳は涙に潤んで、むしろその美貌を際立たせてもいた。
「可哀想に。あの騒ぎのせいで体調を崩してしまったのだろう。すまない。私の責任だ――立てるかね?」
「っ……だめ。あたまが、くらくらする」
「ふむ。――成程。少しじっとしていたまえ」
ピエールが少女に手を翳すと、そこに暖かな光が灯る。《克復》の呪文だった。それは主に身体の不調や解毒に用いられる治癒魔法で、軽い病気程度ならこれだけで容易く治ってしまう。治療院では決して安くない金額を要求される治癒の術を、彼は惜しげもなく少女に与えた。
「恐らくはこれで大丈夫だろう。立てるかね?」
「う、うん……」
少女は躊躇いがちに、差し伸べられた手を掴む。男の言う通り、身体から不快感はすっかり消え失せてしまっていた。
「礼はいい。私の責任だからな。きっと今日は楽しみにして来たのだろう? 本当に申し訳ない事をした。……お詫びといってはなんだが。特等席に案内してあげよう」
「え? で、でも……」
「遠慮する事はない。君の背丈ではここから見えづらいだろう。さあ、来たまえ」
ピエールは有無を言わさずに少女の手を引くと、一番見栄えの良い場所、火刑台の正面へと誘導した。広場の中心はもうすっかり片付き、倍に増えた衛兵が厳重に火刑台を取り囲んでいる。気を失って倒れていた司教も服装を正して十字を掲げていた。
「ほら、ここならよく見えるだろう」
「あ、ありがとうおじ様。でもわたしは、」
「なに、君の父上ならきっとすぐに見つかるさ。大丈夫。もうさっきのような事は怒らない。約束するよ」
ピエールは膝を地面につけて少女の肩を抱いた。傍目には彼が少女を優しく気遣っているように見えただろう。だが少女を肩を掴むその手には尋常ではない力が籠っていた。まるでそれは、逃がしはしないと言わんばかりの。
リーゼロッテは自分が窮地に追い込まれている事を悟った。今すぐこの男をどうにかしなければならないが、あの仮面越しでは。そもそも自分より強い魔術師に支配の能力は通じない。下手な動きをすればそれこそ終わる。今はただ祈り、機会が訪れるのを待つしかなかった。
「準備は完了しました。処刑を再開できます」
「良し。始めろ」
ピエールの許可を受けると部下は火刑台に立つ処刑人に合図を送った。処刑人は覆面で目元を完全に覆い隠している。その手には煌々と燃え盛る松明が握られていた。
焚刑。それは古くから数ある処刑法の内でも最も過酷なものの一つである。生きたまま焼かれる――その、何たる壮絶な事か。足元から昇る火の手はそう易々と罪人を死に至らしめはしない。爪の先から始まり脚部、陰部に至るまで罪人は時間をかけて炙られるように焼かれていく。その痛みだけでも恐るべき事だが苦痛はそれだけに留まらない。罪人は己の肉が焼け焦げる臭いを嗅ぎながら、濛々と立ち昇る黒煙を吸い込み窒息するのだ。
聖書曰く、火は聖なるものであり不浄を焼くという。魔女は痛みを感じないなどという通説があるにも関わらず火刑台で魔女が叫ぶのを民衆が気に留めない理由がこれだ。そして死体はいずれ訪れる終末の日に蘇るという教えから、元の姿のまま土に埋葬するのがこの西方では一般的であり、焼死させるという事はつまり肉体を完全に失わせ決して現世に蘇らないようにするという苛烈な意味合いもある。
「あ、ああ……」
薪木に火が燃え移されようとするその瞬間、リーゼロッテは時間が緩慢になったような錯覚を覚えた。彼女が知る外道の魔女共には確かに焚刑という最期は相応しいかもしれない。だが、あの母娘が何をしたというのだろう。何の罪があって、そんな死に方を強いられなければならないのだろうか。あまりにも理不尽すぎる。何故、この世界はこんなにも残酷なのだろうか。
孤独な少女は不条理を憎んだ。だからこそ今ここに居るはずだった。
運命に抗う為に、決められた結末を覆す為に。
だが、届かない。もう、本当に打つ手がなかった。眼の前には恐れていた悪夢が広がる。あるいはそれは目を逸らしていただけの、ありふれた光景であっただろうか。
「だめ、だ……やめて……やめ、ろ……」
乱れた呼吸が、吐くべきでない言葉を吐き出す。頭では分かっている。いつもそうだ。そしていつもどおりそれは止まらない。
仮面の男が、嗤った気がした。
「やめろおおおおおおおおおおおおお!!」
少女の悲痛な叫び声が広場に轟く。その押し殺せなかった感情は、死にまつらう母娘の運命を変えた。……ほんの、一時の間だけ。
一体何事かと人々は眉を顰め、処刑人は松明を持つ手の動きを止める。
だが必然。周囲の視線が一斉に少女の元に注がれた。紛れもない、怒りの視線。少女は今更にして思い知る。文字通り自分は世界を敵に回していたのだということを。
「くく。化けの皮が剥がれたようだな。……異端の魔女」
少女の耳元で仮面の男が舐めるように囁く。
その音すら今は遠い。視界が真白に染まっていくような感覚を少女は覚えていた。
白。しかしそれは、気のせいではない。
「な――? 雪、だと?」
仮面の男が天を仰ぐ。
晩夏の午後。曇天から降り注ぐ白い雪。
そのあまりにも異常な光景に誰もが目を奪われた。
それは一瞬。たった一瞬のこと。
だがその一瞬は、彼にとって十分にすぎた。
「……え?」
火刑台が赤に染まっている。
赤。ただしそれは、火の色ではない。
「が、ああああああ!!」
男の絶叫が翻る。迸る鮮血は火刑台に立つ処刑人のものだった。松明を持っていたはずの腕が切断され、持ち主と共に地面に転げ落ちる。真夏の雪よりも遥かに信じ難く、得体の知れない光景がそこに広がっていた。群衆にとっても、仮面の男にとっても、そして少女にとっても。
火刑台の上。
そこに――異装の男が立っている。
「――、貴様」
誰もが呆然と立ち尽くす中、真っ先に動いたのはピエールだった。銃口に弾を込め、火刑台に狙いをつける。本来は点火する為の縄があるはずの銃に、その装置は見当たらなかった。引き金も火種も火薬すら必要はない。焚刑の二つ名の示す通り火の魔術に長ける男は、ただ狙いをつけるだけで、通常よりも遥かに強力な弾丸を放つことができる。その速度は人間の眼に追えるものではなく、避けようのないものだ。厚い金属鎧さえ貫通し、人体に風穴を開ける。
だが異装の男はそれが来るのを知っていたかのように。
被った鉄笠を盾にして、平然と弾丸を防いだ。
「――馬鹿な」
発火の魔術によって行程を極限まで短縮した銃撃。「銃」というこの国ではまだ珍しい武器の存在を、相手が知って居ようと居まいと、初見では防ぎようのない奇襲のはずだった。それが防がれたというだけでも驚愕に値するが、
ピエールが真に眼を見張ったのは鉄笠を脱ぎ露わになった男の素顔。
青白いその顔は幽鬼のように細く陰っており、生気というものが感じられない。
しかしその爛々とした光を称える双眸には見覚えがある。
あれは確か、――死んだはずの男ではなかったか。
「く、ははは!!」
仮面の下から笑いが零れ出る。異装の男は無表情のまま鉄笠を被り直した。
「雪の次は、なんだ? 死人が蘇ったとでもいうのか。ふふ、まあ何と、何と。今日は楽しく奇妙な一日であろうか! ――妖刀使い。よもや生きていようとはな!」
群衆がどよめく。――妖刀使い。聖職者殺し。殺人鬼。魔女に味方する者。
血を流しながら地面を這う処刑人を見て、これが只事ではない事を察すると、人々は悲鳴を上げながら広場の中心から逃げ出した。衛兵達は武器を構えたまま火刑台とピエールを交互に見つめ、狼狽えるばかり。
「弩を放て! 魔女ごと撃っても構わん! 奴を地獄に送り返せ!!」
ピエールが命令を下すよりも先に、妖刀使いは動き出していた。
懐から取り出した筒を火刑台の下に投げ落とす。筒は瞬時に爆散すると猛烈な勢いで白い煙を撒き散らした。
「なんだ!?」
「げほっげほっ……な、何も見えない!」
「くっ――火刑台に登れ!奴は魔女を逃がす気だ!」
火刑台の周囲は濃密な白煙によって包み込まれ一切の視界が利かなくなっていた。衛兵達が火刑台の上に辿り着くが、妖刀使いと母娘の姿は既にそこには無い。そして煙の外側――逃げ惑う人々の群れの中に新たな煙幕がそれぞれ別の場所で二つ同時に発生する。どちらかが陽動か、あるいは両方か。混沌としたこの広場の中で逃亡者達を見つけ出すのはもはや不可能だった。
「門だ! 門までの道を探せ! 路地裏も家の中も隈なくだ! 何をやっている! 早くしろ! ――絶対に奴らをこの街から逃がすな!」
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