第三話「夏の狂熱」
◇
炎天照りつける真昼の頃。空を飛ぶ鴉の視界に、市壁に囲まれた街が映る。
商業都市トロアン。赤茶色の屋根の群れが印象的な街だった。
石畳が敷き詰められた通りには街路樹が整然と並び、すぐそばに流れる川は街に入ると幾つかの水路に分けられる。都市魔術師達の管理が行き届いた街並みは美しく、馬車や人が行き交う慌ただしい雑踏の中でさえ土埃の一つも立っていない。
「……まあ、いいだろう。もう行け。後がつかえてる」
衛兵が諦めた様子で言うと、異装の男は軽く会釈して感謝の意を示した。立ち往生する商隊や難民に睨まれながら門を潜り、真っ直ぐ歩いていくと、やがて路地が密集した大広場へと辿り着く。
広場では夏の大市が開かれていた。異国の毛織物や宝飾品を積んだ行商の露店に婦人たちは色めきだち、昼の仕事を終えた男達は安酒を片手に屋台の群れを冷やかし歩く。笑声と怒号が飛び交う雑踏の中、職人たちが振るう金槌の音が、小気味よく鳴り響いていた。
「おう、居た居た。探したぜ。カグラギ」
広場の端の木陰で涼んでいた異装の男の元に、一匹のカラスが舞い降りる。
「門の前で随分足止め喰らってたな。何かあったか?」
「ああ。――まあ、少しな」
日差しで熱した、鉄製の編み笠を脱ぎながら、カグラギと呼ばれた男は皮袋に入った水の最後の一滴を飲み干す。
「お前は何処に行ってたんだ、グエン」
「別に。おめーがモタモタしてる間暇だったから適当に飛び回ってたとこだ。で、どうだよ? アガタの奴は。だいぶ聞いて回ってたみだいだが、何か手掛かりは?」
カグラギが首を横に振ると、グエンはだろうな、と嘆息する。
「まァ、このだだっ広いシャルマーニュで女一人探そうってんだ。気長にやるしかねえわな。……それよりよ、腹減らねえか? どっかで食い物買おうぜ。肉がいいね。脂の乗った生肉!」
グエンがひょいと跳ねながらそう言うと、カグラギは深刻そうに視線を落とす。
「それはできん」
「あん? 何で?」
「金がもうない」
「は?」
カグラギは懐から革袋を取り出すとグエンの目の前に放った。嘴でつついてみると、三日分の安宿代と食費は賄える程度の資金が詰まっていたはずの袋は、すっかり空になっていた。
「……ッカ。マジかよ。素寒貧じゃねえか。あの門でそんなに取られたのか?」
通常、都市に入るには入場料――税金を支払う必要がある。彼とてそれを知らぬわけではなく、覚悟していたことではあった。だが年に一度の大市が開かれる時期という事で予想を遥かに上回る通行金が課せられており、外套の下に仕込んだ得物の数々が災いしたカグラギは武器商人と勘違いされ、余計な税金まで払う羽目になってしまったのだった。結局有り金をはたいてもまだ少し足りず、最終的には衛兵に金品を掴ませて門を潜った次第である。
「ったく。折角街ん中入れたのにこれじゃ何もできねえじゃねえか。どうすんだ?」
「……まあ、何とかなるさ」
平然と言い切ると、カグラギは革袋を拾い上げ、広場の方へと歩き出す。グエンが不平を零しながらその後に続き、彼の肩に飛び乗った。
人混みの中、カグラギは露店を渡り歩き、金を持っているような素振りで情報を集めた。高い金を払ってまで都市に入ろうとした理由がこれだ。宿を取るならば壁外にある酒場で事足りたろうが、限られた情報しか得られなかっただろう。
「しかし外の様子にしてもそうだがよ、やたら景気がいいみたいだなこの辺」
グエンの言葉も無理はない。
今、この西方にはどうしようもなく不穏な空気が立ち込めているからだ。
ヴァンハイム公国、迷宮都市ヴァン・ディ・エールの《大崩壊》――三年前に起きたそれはいち国家の消滅に留まらない大災害だった。西方全土を揺るがす大地震の後、迷宮に巣食っていた魔獣達が野に放たれ、壁を持たない村々は真っ先にその餌食となり多くの難民を生んだ。不幸は立て続けに、異常気象が飢饉をもたらす。そして苦しむ人々を追い討つように人や家畜、作物を蝕む奇病が蔓延したのだった。あれから三年が経ち、魔獣達の動きが沈静化したこともあって状況は好転しつつあるが、都市から離れた農村に住む人々は依然として脅威に晒されながら暮らしている。
「お、なんかあっちの方が騒がしいな。行ってみようぜ」
グエンが嘴で指し示す方向をカグラギは見た。人々が騒ぎながら剣と
人混みの中を進んでいくと、その奥に、僧衣に身を包んだ聖職者と、枷を嵌められた女を引き連れた騎士の一団の姿が見て取れた。騎士達は円柱状の兜を被り、鎖帷子の上には十字を描く四つの丁字が記された外套を着込んでいる。ロイエス教の騎士修道会、伝統ある〈聖堂騎士団〉の意匠。――異端審問官だ。
「違う! 私は魔女なんかじゃない! 誰か! 誰か、信じて――」
「黙れ! この異端者が!」
喚きたてる栗毛の女の顔を、騎士の一人が思い切り引っ叩く。女が黙るまで何度も、何度も。やがて女の顔は涙と鼻血に濡れ、一切の抵抗をやめた。
「あの娘、確かギルドの受付の……」
「ユーリ……嘘でしょ?」
捕らえられた栗毛の女性は、民衆にとっては馴染みの人物であるらしい。
どよめきが、一層強まった。
「あーらら。白昼堂々、《魔女狩り》とはねえ」
魔女狩り。それはロイエス教会の主導の元に行われる、一方的な訴追と刑罰。
人々の狂気が生んだ、世界の闇。
「薄汚い魔女め!」
「神の裁きを受けろ!」
群衆が捕らえられた女を口汚く罵る。その様子は広場の賑わいを超えて、圧倒的な活気に満ち溢れていた。人々の顔に浮かんでいるのは怒りというよりは愉悦の笑み。そう、これは民衆にとって『娯楽』の一つ。日々の鬱憤の捌け口にすぎないのだ。
頭を下げ、泣きながら許しを乞う女の頭に、子供が馬糞を投げつけ、今度は臭い臭いと大人たちが石を投げつける。
「あーあー。ひでえもんだ。かわいそうに」
見るに堪えない、見慣れた光景。
気づけばカグラギは、外套の下の武器に手を掛けていた。
身に纏う熱気が一瞬、嵩じたかのように揺らぐ。
「――、」
しかし、抑え込む。それは無意味だと、とうに知っていたから。
「おいおい。助けなくていいのかいカグラギ。昔みてえによお」
愉し気に、鴉が耳元で唆す。――助けられるものなら、助けたい。しかし助けようもなかった。この場で武器を抜き、強引に罪人を連れ去る事はできるかもしれないが、それだけに終わる。街道や山中であるならばともかく、ここは壁に囲まれた都市。逃げ場など何処にもありはしない。
何より、見も知らない他人を救う為に――この世全ての人間を敵に回すなど。
途方もなく、馬鹿げた話でしかないのだから。
「おい! そこ! 道を開けろ!」
異端審問官の一団が去ってゆく。売女、あばずれ、裏切者。民衆は彼らの去り際まで罵声を浴びせ続け、カグラギは静かにそれを見送った。やがて人だかりは散り散りに、広場はいつも通りの喧騒を取り戻していく。
「あーあ。行っちまった。なあカグラギぃ。どこいっちまったんだ? 昔のお前は。悪党ぶっ殺して世界を救うんじゃなかったのか? 人探しなんざお前に似合わねえよ。日和やがって、この屑鉄野郎が」
グエンの嫌味を聞き流しながら、カグラギは踵を返して歩き始める。
その無反応が癇に障ったのか、鴉は意地の悪い口調で注意を引いた。
「……ああ。ちなみによお、カグラギ。ネタばらしするとだな」
「……?」
「さっきの捕まってた女。ありゃ、本物の魔女だったぜ」
カグラギは思わず、足を止めた。
「つまらん嘘を吐くな。本物の魔女が――」
「嘘じゃあえし、間違いねえよ。この
だからこそ首を突っ込む事を期待したんだが、とグエンは嗤う。
カグラギは一度道を振り返ってみた。彼らの姿は、もう見えなくなっていた。
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