天才になりたい

甘木 銭

天才になりたい

 小説家になりたいと思ったのは、中学生の時だった。

 小学校の高学年から意識して字の多い本を読むようになり、中学生の頃に最も小説を読んだ。

 自分の知らない世界で生きる人々の物語に、心を躍らせた。


 小説を読むほどに、それを作り上げる作家という存在に憧れた。

 その才能に憧れ、その地位や名誉に憧れ、そして何より自分の作った作品で人を楽しませるということに憧れた。

 そして高校生の時に、いつの間にか自分の作品を書き始めていた。


 現在自分は、大学院修士の二年生で、二十四歳になった。

 博士課程に進むことは親に認められていないので、就職しなければならない。

 しかし就職活動は全く進んでいない。スタートすら切っていない。

 崖っぷちだ。


 ニートになりたいだとか、働かないまま小説家を目指して作品を書き続けようだとか、そんなつもりもない。

 他に何かしたいと思うこともない。

 何と言うか、就職をすると一般人になってしまう気がする。

 もちろん兼業作家などもたくさんいるので、就職すると小説家への道が絶たれるなどということがある訳がないし、自分の凡庸さがそれによって証明される訳でもない。


 そんな理屈は理性で理解できている。

 だがしかし、本能のようにこびりついた固定観念がそれを飲み込むことを許さない。

 ただ、今の僕は確実に天才じゃない。

 小説を取ったら僕は無価値だ、などと言えるほど僕の小説に価値はない。


 ないない尽くしの僕の生活の空虚さは、そのまま作品にも現れてくる。


 何かを書こうと思い机に向かっても何も思い浮かばない日々。

 書き始めても上手く言葉が出て来ずに、文章がまとまらない。

 書いた時には新人賞受賞は確実と思っていても、出来上がって見れば自分自身で残念賞に太鼓判を押してしまう体たらく。


 テレビはめっきり見なくなった。

 そういう時間が無駄だと思うようになった。

 いや、それだけではない。

 最近、テレビに出る年下が多くなった。

 自分より活躍する若い才能が恨めしくなった。

 早熟は枯れるのも早いだろうと、最後に上手くいった奴が勝者だと、心の中で悪態をついている自分の浅ましさに気が付いて泣きそうになった。

 僕は自分を守るために他人を貶める人間になってしまった。

 どれもこれも自分が天才ではないからだ。


 そんなことを考える度に胃がキリキリと痛むので、些細なことに頭を悩ませるのをやめた。

 やめたと言ってスッパリやめられるものでもないので、自分の気持ちを無視することにした。

 何かを面白いと感じることが極端に減った。

 元々ファッションに興味はなかったが、さらに服装に無頓着になった。

 下宿に一人でいると無性に暴れ出したくなるので、フラフラと外を歩くことが多くなった。


 今は、新人賞に出すための作品を練っている。

 学校の課題もそこそこに、就職活動に励まず。

 かといって作品にも集中出来ない日々。

 やらなければならないことは多いのに、どれから手をつけていいやら分からず、どれもやる気が起こらない日々。


 机に向かってうんうんと唸っていると、喉の渇きを覚えて、小さな台所に水を汲みに行く。

 自炊をしない台所にはろくな食器もなく、洗っていないコップが数個並んでいて、どこかで片付けなければと思いながらまた辟易する。

 ジュースを飲んでも味がしないので、最近は水道水ばかり飲んでいる。

 おかげでカツカツの生活費を節約できている。

 自炊しろ。


 机に戻っても、やはり何も思いつかないので、とりあえず体を動かそうと外へ出る。

 玄関の思い扉を開くと、外の世界は存外に明るかった。

 執筆を始めたのは夜中だったので、朝まで書き続けていた事になる。

 その割に成果が少ないことに、またげんなりとする。

 周りはこんなにも明るいのに僕だけが夜明けを見ずにいる。

 通りがかる人達にもこの闇が見えているのではないか。

 あるいは僕自体見えていないのか。


 いつまでも玄関の前で立ちつくしていても仕方がないので足を動かす。

 目的地も無く。

 だから途中の道のりも無駄だらけで、遅々として前に進んでいる実感がない。

 舗装された道路を歩いているくせに、泥沼の中でもがき苦しんでいるような気分になる。


 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。

 この苦しみが、いつか名作を作るから。

 人生は最後に勝てばいいから。

 今は雌伏の時だ。

 だが、芽が出るのはいつだ?

 ゴールまでの距離が分からないマラソンは苦しい。


 歩道橋の階段を上り、手すりに肘を置いて体重をかける。

 真下の道路を流れていく車を眺める。

 高いところが昔から好きだ。

 下の世界を眺めていると、幾分か鬱憤が晴れる気がする。


「そんなとこから落ちても死ねないと思うよ」


 不意に背後から声をかけられ驚く。

 何となく億劫な心持ちで、ゆっくりと振り向く。


 後ろにいた壮年の男は、よれよれの上着と擦れたデニムパンツで、一瞬ホームレスか何かかと思った。

 しかしよくよく見ればヒゲがきちんと剃られていたり、シミのないシャツが上着の中から見えていたりと、不潔な印象は無い。


「あー……えっと、死のうとしてる様に見えましたか」

「見えたね。スピリチュアルとか信じないけど、死相ってのはこういうものかってのが背中から漂ってたよ」


 そんな気は毛頭なかったんだが。

 そんなに黒いオーラを発していたとでも言うのか。

 しかしそもそも、僕が死のうと死ぬまいとこの人には関係ないだろう。

 放っておこうかと、そっぽを向いてまた景色を見始めたら、何故かおじさんが横に並んできた。


「若いうちは絶望せずに色々やってみたらいいよ」

「なんなんすかいきなり」

「こういうこと言いたくなるお年頃なんだよ」


 ニカッと、爽やかさのない笑顔。

 苦々しい気持ちで反応に困っていると、ニヤニヤしたまま手を振って去っていった。


 家に帰るとまた早々とパソコンに向かう。

 キーボードを叩く手はすぐに止まる。

 気晴らしにSNSを開く。

 普段あまりSNSはしないが、Web上で執筆をしているため、その広報用に必要なのだ。

 たまにアカウントを動かしては、やはり何か違う気がしてやめてしまう。


 SNS上でフォローしていた人が、Webでの小説賞を受賞したと報告していた。

 この人が公開していたその作品は、前に一度読みに行ってみたことがある。

 流行りに迎合しただけで中身がないものだと感じて、すぐに読むのをやめてしまった。

 そんな作品が受賞していることが腹立たしくもあったが、さりとて誰かの批判をどこかに書き込むというのも、自分の品位を落とすだけでバカらしいと思ってしまう。

 いつも通り、その怒りはそっと胸を中にしまうことにした。


 そうして他人を心の中で貶めている僕はやはり天才ではない。

 しかしこいつよりは面白い作品を書いていると、謎の自信があった。

 自分は特別な人間だと思った。


 読む人間があまりいない、しかし本当に面白い、全く流行りではないジャンル。

 ここにおいて実力を発揮できる特別な能力を持った人間だと、未だ結果で証明されてはいないが、こうして味わった悔しい気分も芸の肥やしになると思いながら、この怒りも全て作品にぶつける。


 しかし、他人の成功に傷つかないように、自分の無能さに気がつかないような心を閉ざし続けている僕が、作品に自分の思いなどというものを乗せられるものだろうか。

 一番空虚なのは自分の作品なのではないだろうか。


 ここしばらくずっとそんな妄想にとりつかれている。

 ただの妄想ではない。

 全く成功ができない、実感が伴ったもやもやとした感情。

 そうしたモヤモヤを言語にすることができればいいのだろうけれど、表に出せずにぐるぐると頭の中で悩み続けているだけなので、作品に何も出てこない。

 アウトプットがいつまでも下手なままで、つくづく自分に嫌気が差す。


 そもそも他人と関わらずに、人間の心などというものが描けるものか。

 フィクションからの想像だけで中身がある作品になるものか。

 ホームレスのようなおじさんと今日話したが、考えて見えれば最近まともに他人と会話した。

 いや、あれはまともな会話だといえるのか。

 こうして自分の殻に閉じこもっている僕は、果たして天才だろうか。

 いや、天才でなければならない。

 天才でなければ、僕はただの劣った人間になってしまう。


 小学生、中学生といじめられて過ごしてきた。

 周りの人間が馬鹿ばかりだったせいだ。

 そしてそういう人間との付き合い方が下手だったからだ。

 人間は自分と違ったモノを排除しようとする生き物だ。

 優であれ、劣であれ。

 僕は優であることを証明しなければならない。

 でなければ劣になる。


 昔から勉強はできた。

 だから自分は優だと思えた。

 だが大学院まで進んでも、自分より優れた人間が多すぎて嫌になる。


 人を楽しませたい。

 それは昔から変わらない。

 だがその中に、名誉を得て自分の才能を証明したいというような、濁った感情が混ざっているのは確かだ。


 そんな濁った作品に価値があるのか頭を抱える。

 もうやめてしまおうと思ったことも幾度となくある。

 なのにどうして僕はまだ、書くのをやめていない。


 さっき話した男の顔が頭に浮かぶ。

 いっそ死ぬか?

 そんな思いがふと頭に浮かんできてゾッとする。

 そうか、僕はまだ生きていたいらしい。


 そんな風に生にしがみつくなら。

 生きている意味を証明せねばなるまい。

 遅々として進まなかった物語を閉じて、新しいファイルを開く。

 死にたくないと思った途端、浮かんで来るものがあった。

 物語の進行などは何も無い。

 だが、今まで無かった芯の様なものが見えてきた。

 液晶の中の真新しい白紙に、じわりと文字が浮かぶ。

 滲んだその文字を、必死に追いながらキーボードを叩き始める。


 何故か今度だけは手が止まらない。

 稚拙だ。

 この文章は稚拙だ。

 日本語がおかしい。

 人が読んでも面白くない。

 頭の奥の方で何かが叫ぶが、それでも止められない。


 ダラダラとした生活を送りながら、何か自分が変わるきっかけを待っていた。

 来るかどうかも分からないものを待ちながら、他人任せに待っていた。

 そのきっかけがあのよく分からない会話だと思うと何か微妙な気持ちだが。

 待ち続けていた僕の勝ちだ、と言えないこともないと、ぼやけた頭でそう思うことにした。


 一ヶ月ほどかけて一気に書き上げられたソレの完成度は、想像通り惨憺たるものだった。

 自分で読み返してみても、何が面白いやら全く分からない。

 頭の中にある内は最高金賞だが、作品として出してみれば愚にもつかない駄作という典型例。

 だが不思議と、清々しい気分だ。


 いつもならば作品の稚拙さにぐったりと落ち込んでしまうところだが、心情を吐露しきってしまったせいか、心身ともにかつてなく軽い。


 久しく忘れていた、いやむしろ初めて知ったような達成感。

 まだまだ修正しなければならないところは多いが、ひとまずは完成といったところだ。


 今まで書き上げた作品はWeb上に公開してきたが、今回も公開するかどうかを少し考えて、やめることにした。

 これはあまりにも酷い。

 誰も読もうとは思わないだろう。

 ただの自己満足でいい。

 いや、そうでなければならない。

 読者が付かずに傷つくのはもうごめんだ。


 さあ、修正作業をするかと、ファイルに再び向き合う。

 その時、少しだけ。

 ほんの少しだけ気まぐれが起こった。

 Web上に新しい小説のページを作る。

「天才になりたい」と題名をつけて、非公開のままページを保存する。


 それからまた、修正作業を始めた。



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