第22話 where?

 ……それからどれくらいの時が経っただろうか、私は暗がりの中で目を覚ました。


 全身が怠く重く、頭痛がする。目を開いても、しばらく焦点が合わなかった。

此処は何処だろうか?

確か私は、野山に入り、指宿薫の後を追っていたはずだが。それから、山の中腹で死体を見つけ、そして……。


「目ェ覚めたか」

「……!」

 正面から低い声が飛んできて、私は弾かれるように体を起こした。

……正確には、起こそうとした。だが、できなかった。どうやら私は両手足をぐるぐる巻きに縛られ、床に寝かされているようだった。まるで蜘蛛の糸に絡められた、哀れな獲物のように……。


「お前は……!」


 視界は依然悪かった。目隠しのようなものをさせられているらしい。背中から首筋にかけて焼けるような痛みが微かに残っている。私が死体に夢中になっている間に、後ろから襲われてしまったのだろう。不覚だった。あんなあからさまな罠で自分を見失うだなんて。私は歯軋りした。


「此処は……?」

「お前の家」


 声の主が面白がるようにケラケラ嗤った。独特の臭みが鼻を擽る。煙草を吸っているのだろう。

「我が家は禁煙だ……!」

「そりゃ失礼」

「それに、お前はまだ未成年だろう!? 指宿薫!!」


 腹の底から湧き上がる怒りを何とか抑え、掠れた声を絞り出した。こんな餓鬼に遅れを取るだなんて。捕食者であるこの私が、こんな仕打ちを……!


「藤木恵介。32歳。9月8日生まれ。小学生の頃は寡黙で大人しく、真面目な剣道少年だった」

「……調べたのか」

 私の過去に関する資料は全て処分したはずだ。今や卒業アルバムすら残っていない。

「いいや、調べなくても分かる。足の裏がカチカチだ。摺り足の影響だろう」

 指宿がふぅー……、と煙を吐き出した。ニヤニヤと嗤っているのが目に見えるようだ。


「それから胸の辺りに手術痕があるな。心臓手術か。生まれつき心臓が悪かったのか?」

「…………」

「病気で人生観が変わるなんて良くある話だが、お前は最悪の方向に行っちまったみたいだな。それからお前は死に取り憑かれた。自信過剰の完璧主義者。部屋は……潔癖症気味。殺人鬼のくせに、血の痕ひとつ残っちゃいねえ」

「プロファイリングのつもりか?」

「医者の中には、患者の死に立ち会う時感動すら覚える人もいるそうだ。思えば変な話で、いつから死が恐怖の権化になったんだろうな? いつ誰が、それがだって決めつけたんだ?」

「…………」

「死ぬのが怖くないって言ってるんじゃないよ? 生きる方がよっぽど怖い時あるじゃんって、なんかは思うワケ」

「……殺すならさっさと殺せッ」


 小さく物音がして、指宿がこちらに近づいてくるのが分かった。私は身構えた。


「なぁ、藤木恵介」

 優しく猫撫で声を出しながら、指宿がその掌で私の目隠しに触れた。こめかみの辺りを親指と中指で鷲掴みにするような、掌で私を覆うような格好になった。


は何も別に……『生き物を殺しちゃいけませ〜ん!』なんてクダラネーこと言いにきたんじゃねえんだ」

 私はまだ床に転がされたままだった。指宿は私に馬乗りになって、掌にグッと力を込めてきた。


「なッ何を……!?」

「勝手に人の獲物横取りしようとしてんじゃねーぞッ! なぁオイッ!?」

「ぐ……!?」


 彼の指が、爪先が皮膚に食い込んでくる。顔中に煙が吹きかけられ、息苦しかった。私は嗚咽を漏らした。頭が割れるように痛かった。


「藤木恵介。32歳。1991年9月8日生まれ。東京都出身。兄弟はなし。父親とは若くして死別し、母親とはしばらく連絡を取っていない……」

「うぐ……っ」


 こめかみの辺りに、が走って、私はめまいを覚えた。彼は私の頭を掴んだまま、何やらブツブツと呟き続けている。その時私ははたと気がついた。


 彼は……指宿薫は私を殺そうとしてるんじゃない。壊そうとしているんだ。


 私の『仮面』を。私の人格を。その時私の中に初めて、恐怖という感情が芽生えた。全身がガタガタと震え出す。喉がカラカラに乾いていた。冷や汗が止まらない。まるで……まるで巨大な捕食者を前にした小動物のように。


「ひ……!?」

「くひ……」

 その時、彼の口から嗤い声が漏れた。

「くひひひひ……!」


 私はゾッとした。それは、私の嗤い声だった。抑揚も。トーンも。声色でさえも。目の前で、目隠しの向こうで嗤っているのは、確かに私だった。


「くひひひひひ!」

「う……うわぁあああっ!?」


 パキ……ッ

 と、何かが壊れる音がした。


 私の『仮面』が。

 私の人格が。

 私という人間そのものが、ずるずると、砂上の楼閣のように崩れ去って行くのを、私は感じていた。私は絶叫した。ボロボロと涙を流し、絶叫し続けた。


「……先生、知ってますか?」


 意識が無くなるその瞬間、遠くの方で、指宿の声が聞こえたような気がした。


「この地球上に、蟻は2京匹いるらしいですよ。も知らなかったんですけど……人間1人当たり、約250万匹いるらしいです。虫ケラと言っても、それだけ数が多かったらすごいですよね」

「あ……あ……!」

「蟻は面白いですよ。集団でコロニーを作り、それぞれに役割があって……女王だったり、兵隊だったり。それで、もしが目の前に現れたら、大軍を率いて死闘を繰り広げる。そういう意味で」

「あ……」

生き物は、と、くらいのものらしいですよ」


 正確には、と彼は何か言葉を続けたが、あいにくその声が私に届くことはなかった。

 弱肉強食の世界で、獲物は捕食者に食べられる際、脳から特殊なホルモンが出てむしろ快感すら感じているらしい。私はひたすら涙を流していた。指宿薫は……はどうだっただろうか?


 私を壊しながら、彼らは何かを感じていたのだろうか?

 いや。

 あるいは私がかつて蟻を踏み潰した時のように、何も感じていなかったかもしれない。


 残念ながら確認する機会は永遠に訪れなかった。まもなく私の意識は死神のに刈り取られ、ずるずると無明の闇へと引き摺り込まれて行った。

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