第19話 where?

 ジメジメとした空気が肌に纏わりついて来て、寝起きから何となく気分の晴れない朝だった。頭上で渦巻いている雲も、黒く暗く、頑なにその場に留まっていて、しばらくその場から動いてくれそうにない。ここ数日、ずっと天気予報では雨マークが続いていた。そのせいで私は、朝から生乾きの下着パンツを履くことになってしまった。


 とはいえ調子はすこぶる良い。

 意識して自制しなければ思わずタップダンスでも踊り出しそうになるほどだ。鼻歌を歌いながら愛車に乗り込む。


 ウィンドウの向こうに広がる街並みを流し見ながら、私は自然と口元に笑みを浮かべていた。気持ち良くハンドルを捌き、颯爽と職場の駐車場へと入っていく。コンクリートに溜まった水飛沫が大きく跳ねて、校門前に植えられている古い桜の木を揺らした。


「先生」


 駐車場に車を停め、襟を正していると、向こうから見知った顔が小走りにこちらに駆けてきた。


「藤木先生、おはようございます」

「……おはようございます、中川先生」


 中川春美という、私の隣のクラスで担任をしている同僚だった。これと言って特徴のない、真面目なのが唯一の取り柄という教師の基本形とでも言うべき女だ。


 そう、私はしばらく民間企業を経験した後、とある高校の教師に転職した。殺人を志したあの日から、だ。教職は良い。不登校児や家出する生徒を……あー……しても、誰にも不審がられない。そういった情報を集めるのにも、もってこいの職場だった。


「大丈夫ですか? あの……先生はあんまり気を落とさないで下さいね」


 中川春美が気遣うようにこちらを見上げ、そう声をかけてきた。一瞬何のことか分からず、私はポカンと口を開けそうになった。


「失踪した生徒のこと……」

「あぁ……嗚呼!」


 私は激しく頷きながら、白い歯を見せたいのをグッと堪え、いかにも真剣な表情を取り繕って見せた。『生徒のことを本気で心配する熱い教師』の仮面を被る。TVドラマを観て散々研究したのだ。本職の人間から言わせれば、あんなものはただの嘘っぱちに過ぎないが。授業中、板書をしながら私が何を考えているかと言うと、『早く帰りたい』と『給料上げろ』このふたつである。生徒のことなど1ミリたりとも考えたことがない。そもそも他人の人生なんだから、進路だとか進学だとか、『お前の好きにしろ』以外言いようがない。


「ありがとうございます。本当に、私も心配で心配で」

「藤木先生……」

「中川先生はお優しいですね」


 そう言って私は、測ったタイミングで笑みを浮かべた。中川晴美は少し複雑な表情を見せた後、恥ずかしそうに目を伏せた。それから職員室まで、私たちは並んで傘を差して歩き始めた。滲んだ絵の具のように揺れる紫陽花の間を、透明なビニール傘が2つ、微妙な距離感を保ったまま進んでいく。


 長年の観察の結果、人間というものは他人の喋っている内容をそれほど気にしていない、と私は結論付けた。内容よりも、声の張りだとか、抑揚が大事なのだ。

表情、トーン、間……下手な話、どんな正論も素晴らしい内容も、自信なさげにボソボソと伝えてしまうと誰にも見向きもされない。逆に、冷静に考えたらどんなに可笑しなことでも、情熱的に断言すればきっと誰かに興味を持ってもらえる。アドルフ・ヒトラーだってきっとそうだったのだろう。


「大丈夫……彼女ならきっと大丈夫に決まってますよ」


 後は誰に言われたか、といった関係性にもよる。現に中川春美は、知り合ってたった数ヶ月しか経っていない私のことをすっかり信頼しきっていた。私が仮面を被り続けたおかげだ。ここ数ヶ月、教師になってからというもの、私の口から出る言葉は中身の伴わない空虚な綺麗事に過ぎなかったが、それでも救いを求める哀れな子羊の群れは、醜い真実よりも綺麗な嘘に飛びつくのであった。安心しろ。絶対上手くいく。大丈夫に決まってる。君ならできる。君は1人じゃない。君を信じてる……。


「安心してください。警察だって馬鹿じゃない。絶対犯人はすぐ捕まりますよ。上手くいくと信じましょう。我々が不安そうな顔をしてどうするんですか。生徒が見てます。こう言う時こそ、我々がしっかり胸を張って、毅然とした態度で犯人に立ち向かって行かなきゃ! 大丈夫、中川先生ならきっとできますよ……先生には僕がついてる。教師も、生徒も、みんながです。先生は1人じゃない……だからホラ、もう泣かないで……」


 我ながら絶妙の間とトーンであった。


 中川春美と別れた後、私は厳かな顔をして自分の教室へと入っていった。教室は静まり返っている。普段は動物園かと思うほど大騒ぎしているくせに、今日はまるでお葬式だった。それもそうだろう。この間の沢北楓に続き、更なる行方不明者が自分たちのクラスから出てしまったのだ。私はニヤケそうになるのを必死で堪えた。


 私は教壇に立ち、咳払いをして教室を見渡した。席の空いているところもちらほら見受けられる。このままトラウマを抱え不登校になってくれれば、獲物の数も増えるのにな。私は心の中で舌舐めずりをした。


「君たち……どうか落ち着いて聞いて欲しい」


 私は『生徒の身を案じ心を痛めている熱血教師』の仮面を被り、俯いた生徒たちに演説を始めた。


「知っての通り、私たちのクラスメイトの、帆足真琴が数日前から行方不明になっている」


 反応を待って一旦会話を切るも、何のレスポンスも返ってこない。私は気にせず続けた。あまり饒舌にならないように、気分良く口笛など吹いてしまわぬように。


「先日悲惨な殺人事件が殺されたばかりだし、心配になるのは勿論分かる。分かるが、どうか分別を持った行動を心がけて欲しい。決してやけにならないように。自暴自棄になったり、彼女を捜索するだとか、自分の手で犯人を捕まえようなどと馬鹿なことは決して考えるな。彼女はそのせいで、悪人に目をつけられたかもしれないのだ」


 犯人自身の言葉だから、これは説得力があったはずだ。実際、帆足真琴は未解決の『女子高生誘拐殺人事件』を嗅ぎ回っていた。私の脅しに、数名の生徒が小さく悲鳴を上げ、嗚咽を漏らした。


「この上君たちにまで何かあったら、私はもう耐えらえない……」


 ここでもう一度間を取った。感極まった表情を一瞬だけ見せ、悟られぬようすぐに引っ込める。これで良い……何度も練習した甲斐があった。これがドラマなら、この場面、視聴率はきっと鰻登りだろう。


「……どうか詳しいことは警察に任せて、君たちは学業に専念するように。心配するな。正義は必ず勝つ。悪は滅びる運命にあるのだ。私も信じている。君たちのことも、帆足のことも。帆足真琴は、きっとまだ生きている」


 ……確かに彼女はまだ生きている。このまま放置してを与えなければ、後数週間後には死んでしまうだろうが。


 力強く宣言したが、生徒たちは相変わらず反応が薄かった。


 ただ1人だけ……啜り泣く生徒や、顔を真っ青にした生徒の中に、ただ1人だけ……私の方を無表情でじっと見ている男子生徒がいた。確か名前は……指宿? 下の名前は忘れてしまった。クラスでも特に目立たない、自己主張の少ない生徒だったはずだ。彼の光のこもらない、死んだ魚のような目つきが妙に私の印象に残った。


 放課後。


 緊急ナントカ会議とかいう、意味のないお喋りを遅くまでして、私はようやく解放された。時間の無駄だった。およそ会議や勉強会と名の付く物の、約8割は無駄だ。そもそも行方不明や誘拐、ましてや殺人事件を、素人である一教師がどうこう出来るわけないではないか。そう言うことを理解しようともせず、結局何にもできずにただ右往左往を繰り返す。まるで人生の縮図を見ているかのようで、側から見ていると滑稽極まりなかった。


 車に乗り込む頃には、私は本日の業務内容を全て忘れ、ささやかな開放感と高揚感に包まれていた。夜は長い。お楽しみはこれからだった。むしろこのためだけに働いているとも言えよう。新しい玩具オモチャを手に入れてからと言うもの、毎日が寝不足だった。


「くひひ……!」


 家が近づくに連れ、滾る気持ちを抑えるのがだんだん難しくなっていく。自然とアクセルを踏む足にも力が籠った。帰宅すると、着替えもそこそこ、部屋の奥の押し入れを開ける。


 ロープで縛られ、猿轡を咬まされた帆足真琴が、朝と同じ姿勢でそこに横たわっていた。彼女は私を見上げ、眩しそうに目を細めた。心なしか瞳孔の光が弱々しくなっている。もはや呻き声を上げる気力も残っていないようだ。


 ……どうやら今夜も眠れそうにない。私はゆっくりとネクタイを緩めながら、唇の端を三日月型に釣り上げていった。

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