第9話 how?
21時を回ったところで、体育館の入り口からゾロゾロと生徒たちが吐き出されてきた。バスケ部、バレー部、卓球部、体操部……皆それぞれ充実の汗(あるいはその逆)を流し、思い思いの表情で家路へと急いでいた。俺の高校の閉門時間は21時だった。
夜空は薄い雲に覆われていた。月は見えない。さっきまで聞こえていた部員たちの元気な声は鳴りをひそめ、煌々と輝いていた照明も今や落とされている。明かりがついているのはもっぱら入り口の、守衛室の一角だけで、そこだけ大海原に漂う一隻の小舟のように、闇の中にポツンと小さな光が浮かんで見えた。
部員たちが全員見えなくなるのを待って、俺は息を殺し、その小さな光を睨んだ。1時間前から、ずっと此処に潜んでいたのだ。
一体何のために?
金だ。
今回の目的はただ一つ。
これから学校荒らしをしようと言うのである。
誰もいなくなった体育館に忍び込み、そこに隠された金を奪い取る。
例の金を発見したのは、全くの偶然だった。
高橋とかいうヒョロガリの体操部副顧問が、密かに部費をちょろまかし倉庫の一角に隠しているのを、ついこの間、俺は知ることになった。何のことはない。そいつが倉庫の床下を剥がし、そこに札束を入れているところを、足元の小窓からたまたま覗いたのだった。
それで俺は密かに強奪計画を立てた。金は奪い取るに限る。
とはいえ17時までは、体育館で何かしら授業があってるし、18時から21時までは部活動が行われている。狙うなら閉門を過ぎてからだった。一応警備員が24時間体制で入り口を見張ってはいるが、所詮は酔っ払いだ。それさえ誤魔化してしまえば、後は誰もいなくなった体育館を一人貸切状態にできる。
無明の闇の中で、俺はひとりニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべた。早速行動開始だ。静まり返った入り口の傍に潜み、携帯電話を取り出す。予め控えておいた内線の番号から守衛室(体育館側)に電話をかける。
『ああぁい、もしもし?』
途端に眠たそうなオッサンの濁声が受話器から聞こえてきて、俺はイラっとして顔をしかめた。
「すいません首藤さん、渡し忘れたものがあるので、校門側まで来てくれませんか?」
何とか苦労してそれだけ伝えると、相手はイエスともノーとも取れる呻き声を上げ、通話を切った。××が。全く、この世に酒浸りのオッサンほど××なものはない。アイツら全員××××て、××ちまえば良いんだ。
俺が××としていると、やがて入り口からオッサンがのそりと姿を現した。
「ったく……何だってんだ……」
ブツクサ言いながら、オッサンの背中が遠ざかっていく。その間に俺は難なく守衛室に忍び込み、倉庫の鍵を拝借した。敷地内の対角線上にある正門からオッサンが帰って来るまで、往復およそ10分はかかるだろう。それだけありゃ十分だ。
残念ながらここに監視カメラなんて上等なものはない。天井に張り付いているそれっぽいのは、実は全てダミーだった。
ラジオの実況が機嫌良く21時06分を伝えた。贔屓のチームが勝ったからと言って、一体何がそんなに嬉しいのか俺にはさっぱり分からないが(別に金がもらえる訳でもあるまいし)、とにかく時計もその時刻で光っていたから間違いない。
まさかこの時は、この時刻が後々重要な意味を持ってくるとは、思いもしなかった。
首尾よく目的の鍵を入手した俺は、鼻歌を歌いたいのを必死に堪えて、滑るように暗がりの廊下を走った。敵地に単独潜入を試みるスパイか、忍者にでもなった気分だった。
体育館の中はひんやりとしていて、不気味な静けさに包まれていた。
目的の体育倉庫(B)は、一番大きな大ホール(何かあるたびに全校生徒が集められるあの場所だ)の片隅に面していた。
誰もいないホールは、やけに広々としていて、天井が高く感じた。足音や息遣いまでもがいつも以上に反響する。ワックスで磨き上げられた板張りの上に、バスケットの
体育館の北側に古い大きな扉があった。そこは畳2畳半程度の狭い小部屋で、体操部がマットを収納するためだけに使われていた。他の部員が触らないのを良いことに、
俺は素早く扉の前までやってくると、盗んできた倉庫の鍵をねじ込んだ。
隠した金の心配をしてか、扉にはまるで神社の絵馬のような大きさの、頑丈な鍵がぶら下がっていた。さらにその上から重そうな鎖がぐるぐると巻き付けられている。
単なるマットを収納するだけにしては、やけに厳重だ。その用心深さが、逆に悪目立ちしてしまっている。俺はほくそ笑んだ。
ここまで5分とかかっていない。後は鍵をかけてズラかるだけ。実に簡単な仕事だった。奪った金をどんな悪どいことに使ってやろうか……そんなことすら考えていた、その時だった。不意に扉の向こうから物音が聞こえてきて、俺はそのままの姿勢で凍りついた。
……気のせいか?
いや、確かに何か聞こえた……この音は何だ?
そっと扉に耳を当て、もう一度耳を澄ます。
間違いない……確かに聞こえる!
それは、ずず……ずず……と、衣服が擦れるような(あるいは何かを引き摺るような)音だった。一瞬中に誰かいるのかと思い、俺は全身の毛を
しかし、すぐに胸の中で首を振る。
体育館は21時消灯で、中に生徒が残っているはずがない。もし時間を破って居残り練習をしようものなら、一ヶ月の活動停止処分を言い渡される
きっと気のせいだろう。そう言い聞かせ、鍵を回した。何より此処まで来て引き返せるものか。予想以上に音が響き、俺は思わず息を飲んだ。手に力を込めると、扉はゆっくりと横にスライドして行った。暗がりの向こうに、さらに深い闇が広がっていた。
「う……!?」
途端に涙が出そうになるほどの異臭が俺の鼻を襲った。
体操部たちが、己の汗を擦り付けたマットが5枚ほど、狭い倉庫の床に積み重なっている。
その上に。
「う……」
その上に、小柄な男が手足を投げ出し、奇妙な格好で横たわっていた。
俺は目を見開いた。干からびたミイラみたいなヒョロガリの、鷲鼻眼鏡。ソイツは、その男は副顧問の高橋に間違いなかった。
高橋は死んでいた。
殺されていたのだ。しばらく俺は、惚けたようにその死体を眺め続けていた。殺された……一体何故? どうやって? どうしてこんなところに? 頭の中を無数のクエスチョン・マークが駆け巡る。
しばらくして、ようやく現実感が戻ってきた。改めて死体に目を凝らすと、細長い首に切痕があり、そこから夥しい量の血が流れているのが分かった。どうやら頸動脈を切られているようだ。だとしたら失血死だろう。鎖骨の当たりに、出刃包丁が突き刺さったままだ。誕生日ケーキの蝋燭のようだと俺は思った。
俺は舌打ちした。死体なんかに少しビビってしまった自分が恥ずかしくなる。
どうでもいいじゃないか。
死体なんかどうでもいい。人は皆遅かれ早かれ死ぬ。
そんなのは問題じゃない。問題は金だ。
生きている間の金が何より大事なのだ。
手探りでスイッチを押したが、蛍光灯は故障していて、明かりは付かないようだった。まぁ、点けない方が無難だろう。立ち尽くす俺の足元を風が撫でる。ふと見ると、倉庫の下、足元に小窓があった。そこから外の明かりが弱々しく差し込んでいる。
とはいえ、高さ15cm程度の小さな窓で、とても誰かが出入りできる大きさではない。ましてやその窓の手前には、割れないように鉄格子が嵌められていた。大人の手首でも、入るか入らないか程度の隙間しかない。ここから死体を入れるのは到底不可能だ。
……思わず死体のことを考えている自分に嫌気がさす。俺は小さく首を振った。今は金だ。金のことに集中しろ。ヘソクリが隠されている床下は小窓の近くだ。どうにかして死体に触れないようにして、窓際まで行けないだろうか……。
その時、俺ははたと気がついた。
これはまるで……密室殺人ではないか。
俺は入り口に立ったまま、しばらくその不味そうな
鍵は今、俺が持っている。
さっき守衛室から盗んできたばかりだ。その前は、体操部が21時きっかりに返しにきたのも草むらの陰から目撃している。
ではどうやって、この死体は倉庫の中に入ったのか?
暗闇の中、俺は腕時計を見た。
21時09分。
あのラジオから、まだ3分しか経っていなかった。体感時間はもっと長かった気がするが、そう、確かに今夜は何もかも順調に進んでいたのだ。
……死体は元からこの中にあった?
いや、そんなはずはない。俺は舌打ちした。
だったらマットを片付ける時、誰かが気づかないはずがない。そもそも死体はマットの上に乗せられているのだ。そんなのが発見されたら、大騒ぎになるに決まっている。
もしや……体操部全員がグルで、アイツらが犯人か!?
しかし……俺は誰もいない大ホールを振り返った。
しかし、ここでは今夜、他のバレー部やバスケット部も一緒に練習していたはずだ。その全員に気付かれず、死体を運ぶなんて不可能だ。集まった全員が……下手すりゃ数百にも及ぶ部員たちが、全員口車を合わせ共犯だと言うのも……ちょっと現実的ではない。
もしかして自殺か?
先に倉庫に隠れておいて、部員が鍵を閉めた後、高橋が自殺したとしたらどうか?
しかし俺はまたしても己の考えを否定した。
この倉庫は2畳半程度と狭過ぎて、隠れる場所がない。草臥れたマット以外の用具は置かれておらず、身を隠すような棚もない。スライド式の扉だから、ドアの影に隠れると言うのも無理だ。四方は硬い壁に囲まれ、換気扇すらなく、誰かが入れるような隙間も当然ない。
この倉庫で空いているのはただ一つ。くるぶしの高さ程にある、鉄格子付きの小さな窓だけ。
俺はふと思い立って、死体を(指紋や返り血が残らないように)慎重に引っ張ってみた。もしかしたら、バラバラ殺人かと思ったのだ。手や足を細かく刻んで小さな
「参ったぜ……」
俺は思わず苦笑いをしていた。
まさか今夜、こんなことになるなんて。
不可能殺人。
厳重に鍵のかかった部屋の中に、煙のように現れた死体。
体操部の連中が鍵を返して、俺が盗んで来るまで、たった数分弱で造られた密室。
今宵、俺は図らずもその目撃者になってしまった。
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