#8『事件』
私は、想定よりも幾分か順調に、平穏な生活を謳歌することが出来ていた。
それが瑞季や悠介の存在があってこそのものだったのは、もはや認めざるを得ない。彼らが居なければ、私はこの平穏を、ここまで愛おしいものであると感じることは出来なかっただろう。
それが偶然であれ、必然であれ……私はその出会いに感謝せねばならなかった。
私の家はどうやら金持ちらしい――ということは先に説明した通りだが……実際、それを理由に私との交流を敬遠しているらしい子供も居た。だから余計に、2人の存在は私にとって貴重なものだったのだ。
私はそれで満足していた。
2人がいれば、他に友達が居なくとも構わないと。
今の日常が、ずっと続いてゆきさえいれば、それだけで良いと……。
だが、今考えると……私はもっと慎重に、自分が良家の娘であることの意味を検討するべきだったのだ。
その油断によって、とある事件に巻き込まれることになってしまったのだから――。
私はある日の早朝、日課のランニングをするために家を出た。
こういう時、いつも付いてこようとするリサだったが、今日に限っては現れなかった。どうやら、例によってどこかに出かけているらしい。
お目付役としていいのだろうか、それで……とも思うが、私としては監視してくる人間がいなくなって伸び伸びできるので、逆に好都合ではある。
ランニング前の準備運動していると、目の前に見知った顔が現れた。
「陵華……今日は俺も一緒に行くぞ!」
そこに居たのは悠介だった。
悠介は私に対抗して、度々こうやって私のトレーニングについてこようとすることがあった。別に私としては、トレーニングの邪魔になるわけでもないし、ついてくる分には一向に構わないのだが……。
「……途中で止まったら、容赦なく置いていくわよ?」
「へへっ……のぞむところだぜ」
「そう……なら、好きにしたら?」
「おう! 好きにする!」
「……」
……まあ、本人もこう言っていることだし、放っておいて始めることにする。
準備運動を終えた私は、自分のペースで走り始めた。
思えば、このモーニングルーティーンを取り入れてから、結構な時間が経っていた。
持久力においては、もうすでにかなりのものだ。流石に前世と比べるとまだまだだが、少なくとも同年代の子供のそれを遥かに凌駕するものとなっていた。
現に、後ろから付いてきている悠介は、まだ始まったばかりだというのに、ぜぇぜえと荒い息を吐いている。
だから言ったのに……。
私はふぅ、と息を吐いた後、立ち止まって悠介が追いつくのを待った。そして、隣に並んだ彼に向かってこう言った。
「……どうして、そこまでするの?」
「そこまでって……どういうことだよ?」
「そんなにしんどいなら、無理して私に付き合うことなんてないのに」
私は好きで走っているだけだ。それは平穏な生活を手に入れるためではあるが、別に平穏な生活を手に入れるための必要条件ではないのだ。だから、彼がそれに付き合う義理はない。
すると悠介は数回深呼吸をして息を整えた後、私に向かって言った。
「オレは、陵華に追いつきたいんだ」
「私に……?」
「ああ。オレは走るだけじゃなくて、色んなことが陵華に敵わない。でも、いつか陵華に追いついて……陵華と肩を並べて歩きたいんだ」
「……どうして?」
私が尋ねると、悠介は照れ臭そうにしながら言った。
「そんなの……友達だからに決まってんだろ?」
「……」
友達だから、か……。
私には……その言葉の真の意味するところは分からなかった。
それは現世の私が俗世に疎いから、あるいは前世の私が孤独だったからのいずれかが理由であることは間違いなかったが……だが少なくとも、それを悪い気がしない私がいたのも事実だった。
「……そう」
私はそれだけを言い残し、再び前を向いた。
目を逸らしたのは、別に悠介の方を向いているのが恥ずかしくなったからという訳ではない。
悠介のあまりにも無垢な目に当てられて、その眩しさに耐えられなかった……それだけだ。
私は自分が強くなる以外に、幸福を勝ち取る術を知らない。
それはつまり、今の私には……走る以外の選択肢がないことを意味していた。
私はそのまま悠介を置いて、ランニングを再開しようとした。
――しかし、それは叶わなかった。
「――……え?」
振り向いた私の目の前に現れたのは、1台のミニバン。それが、私の行く手を阻むかのように横向きに停まっていた。
「……なんだ、これ?」
追いついてそれを見た悠介も、不思議そうな声を上げていた。
……どう考えてもおかしい。
普通ならば、こんな道のど真ん中に駐車などしない。
これはまるで、誰かを立ち往生させるために、意図的にここに停めたかのような……。
だが……そう考えた時には、すでに遅かった。
思考を巡らせてしまった時点で、もう既に、この事態を回避するための僅かな時間を失ってしまっていたのだ。
「……おネンネの時間だ、お嬢ちゃん」
不意に、声がした。
それは、今まで聞いたことのない、野太い男の声だった。
そして次の瞬間。
背後から、筋張った両腕が伸びていた。
「――!?」
その両腕は、私の顔に何か布のようなものを押し当てていた。
そして鼻の奥を突くような刺激臭。
これは……まさか睡眠薬……!?
「……っ!? 陵華っ!!」
……遠くで、悠介の叫び声が聞こえる。
そう思った次の瞬間には……私の意識は、既に遠のいてしまっていたのだった。
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