#5『順応』

「ごめん……別におどかすつもりはなかったんだけど……」


 私の家の庭に突如として現れた、私と同い年くらいの少年。

 彼はひどく申し訳なさそうな表情でそう言った。


 まだ、あどけなさの残る顔立ち。私よりも年上というには頼りない。だが、未就学児という訳でもなさそうだった。

 受ける印象からして小学校低学年であることはほぼ間違いなかったが、学校で見たことのある顔ではない。

 おそらく、他の学校に通っている子供だ。


 私の住むこの学区内には、小学校が2校存在していた。ひとつが、私の通っている星琳学園の初等部。そしてもうひとつが、公立の小学校だ。

 私に見覚えがないということは、必然的に彼はその公立小学校に通っているということになる。


 私の通う星琳学園には、二種類の子供が存在している。

 ひとつは、教育熱心な家庭の子供。

 そしてもうひとつは、経済的に余裕のある家庭の子供だ。


 しかし当然ながら、世の中の子供というのは、この2パターン以外にも存在する。

 そんな子供たちが通うのが、彼の通う公立小学校という訳である。

 つまり、通っている小学校という分野においては、彼は私よりもマジョリティであると言えた。


 学校も違う。それに面識もない。少年には、私に近付くという行為に、合理的理由がなかった。


「……なんの用かしら。ここは、私の家なのだけれど」


 私は、手に持っていたハードカバーの音が敢えて聞こえるようにそれを閉じて、彼のことを見た。

 それは、ある種の威嚇行為のようなものでもあったが、それでも少年は臆することなく私に言った。


「これ、取りにきた」


「ん……?」


 少年が何かを指差したので、私はそちらに視線を移した。

 そこにあったのは、ボールだった。

 こんなもの、いつの間に……。


 両手のひらに収まるサイズのボール。初めて見るので確証は無かったが、その特徴的な縫い目の形から、サッカーボールであることは容易に判別できた。


「これは……?」


「蹴る方向をまちがえてここに入っちゃったんだ。だから、取りにきた」


「……」


 少年の目には一点の曇りもない。その目を見る限り、彼の言っていることに嘘はないらしかった。

 どうやら、最初に聞いた葉擦れの音は、このサッカーボールの入ってきた音だったらしい。


「……そう。だったら、さっさと持っていけば?」


 私は少年に、素気なくそう言った。

 別に庭にサッカーボールを蹴り入れられたとしても、それだけで怒りを露わにするほど、私は気が短くはない。

 ただ、その時の私は、単に読んでいる本の次のページが気になっていたのだ。


 少年は私の言葉にこくりと頷くと、踵を返し戻っていく――と思いきや、すぐに再びくるりと反転し、私に対してこう言い放った。


「……おまえってさ、いつもここにいるよな」


「え?」


「外から見えてたから、知ってんだ」


 いつも、か。

 確かに、天気の良い日に限って言うのであれば、その指摘も間違いではない。


「あと、いつもこのへんをひとりで走ってる」


 ……まあ、それも否定しない。


「……それが何? 別にわたしの勝手でしょ?」


「誰かと一緒に遊んだりとかしねーの?」


 余計なお世話だ。

 すると少年は、何か思い付いたかのような顔をして、私にこう言い放った。


「分かった、トモダチいねーんだろ?」


「なっ……!」

 

 友達がいない……だと……?

 いきなり現れて、なんて失礼な子供だろう。


 それに、友達くらい……私にだって……。


「トモダチくらい、いるし……」


「へえ、何人?」


 私はその問いを受けて、友達と呼べる人物の顔を思い浮かべる。

 えっと……。

 瑞季と。


 瑞季と……。


 ……。


「……ひとり」


 私の答えに、少年は眉を顰めた。


「なんだよ、やっぱりいねーんじゃん」


 ……うるさいな。


「別にトモダチなんていなくても、生きていけるから」


 ……そうだ。

 別に友達なんてものが居なかったとしても、生きていくためにはなんの支障もない。それは、私の前世が証明していた。

 だけどそれって、裏を返せば前世の二の舞になるだけなんじゃ……?


「なあ、おまえ――」


「――もうボールは拾ったでしょ? だったらさっさとあっちに行ったらどう?」


 少年が何か私に言おうとして……だけど私はそれを遮って、思わず棘のある言葉で返答してしまう。


 なぜそうしてしまったのかは私にもよく分からない。

 図星をつかれたことが悔しかったのか、現実を突き付けられたことが悲しかったのか。あるいは、その両方か。

 それは定かではないが……精神が肉体に引っ張られる――この仮説が正しければ、おそらくこの感情は、私の中の『陵華』の部分なのだろう。


 すると少年はそんな私の反応を見て、何を思ったか私のほうに再び近づいてきていた。


「だから、あっち行ってって……」


「…………だったら、オレがなってやるよ」


「え……?」


「オレが、おまえのトモダチにさ」


 少年は左脇にサッカーボールを抱えたまま、私の目の前に右手を差し出していた。


「なあ、一緒にあっちで遊ぼうぜ?」


 少年の手のひらは、土で薄汚れていた。だが、不思議と汚いという気は起きなかった。

 彼の申し出を断りたければ、この手を振り払えばいいだけのことだ。

 しかし……なぜか私には出来なかった。


 それが『陵華』の意思だというのなら……私はそれに従おう……そう思った。

 

 私が手を握ったのを見て、少年は笑った。


「おれ、ユウスケ! おまえは?」


「……陵華」


「そっか……よろしくな、リョウカ!」


 こうして私に、二人目の友達が出来た。

 すべてが想定外の出来事だったが、彼女わたしがそれを望むのなら……私はそれを受け入れる外ない。


 果たしてその選択が、私の目指す『平穏な生活』にどのような影響をもたらすのか――それが分かるのは、おそらくもっと先の話だが。


 ……ちなみに、彼の誘いに乗ったせいでお気に入りの服が泥まみれになり、その後激しく後悔したのは言うまでもない。

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