#3『無智』

 新たな生を受けてからの6年間、私は平穏な生活を手に入れるために惜しみない努力を重ねてきた。

 それは知識と身体能力、そのあらゆる面においてだ。


 日本という国は確かに平和だが……幸福度と呼ばれる基準においては、むしろ世界のそれよりも下回っているらしい。

 つまり、この国では努力して掴み取らなければ……幸福は得られないということだ。


 私はまず知識を得ることを試みた。この6年間でこの日本で生きていく上での常識は一通り手に入れることが出来たが……流石にこの幼さで手に入れられる知識には、限度があった。

 この歳で高等教育レベルの専門書を読み漁っていたら流石におかしな目で見られるし……何より難しすぎる本を読むと拒否反応が出て、強烈な眠気や倦怠感が襲ってくるのだ。

 おそらく、この幼い身体ゆえの制約だろう。


 まあ……2度目の人生はまだ始まったばかりだし、焦ることはないはずだ。

 そういう専門的な知識は、もう少し成長してから学べばいい。


 そんなふうに知識をかき集める傍ら――同時に私は体力づくりも試みていた。

 無論、まだ成長途中のこの身体に無理なトレーニングは禁物だが、基礎体力を付けておくに越したことはない。

 私は毎日朝のランニングを日課としていた。


 なんてことはない、屋敷とその周辺を軽く数周する程度のシロモノだが、こういうのは継続することに意味があるのだ。

 例によってリサがコッソリと付いてくるのだが、指摘したところで無駄なので、放っておくことにしていた。


 前世では必死に生きているうちに自然とついていた身体能力だが、平和なこの国ではそうはいかない。勿論前世ほど身体能力が必要になる場面は少ないだろうが……まだ人生は始まったばかりなのだ。何かあった時のために準備くらいはしておくべきだろう。


 平穏な生活を手に入れるために、ひたすら研鑽を重ねる毎日。

 そんな毎日を送っていたのだが……それが、世間一般的な子供のそれとかけ離れていることに気付かないほど、私は馬鹿ではなかった。


 私が最初にそれに気付いたのは、小学校へ入学したタイミングだった。

 私は両親の方針で、近所の公立小学校ではなく、私立小学校に通うことになった。

 いわゆるお受験校というやつだ。


 受験当日、お父様とお母様がやたらと緊張していたのでどれほどのものかと思ったが……蓋を開けてみれば大したことはなく、ただ簡単な質問をいくつかされただけだった。

 まあ、本来の受験対象が未就学児なのだから、当然といえばそうなのだが……まともに答えるのも馬鹿らしいものだったのは、言うまでもない。


 私は当然その試験をパスし、星琳せいりん学園の初等部へと入学した。

 ところが、私の苦労はそこから始まった。

 

 これまで毎日の大半を読書とトレーニングに費やしていた私は、世間の流行に疎かったのだ。

 それが、子供たちのあいだで流行っているもの、となれば尚更だ。

 そして当然、そんな私は周囲から明らかに浮いていた。

 まあ、自分から歩み寄ろうとしなかった私自身にも問題があったと言われると、否定はできないが。


 教室で黙々と読書をしているクラスメイトに話しかけようとする子供は、そうそう居ないだろう。しかもそれが、児童書の類ですらないのだから。


 そんな訳で、私はあっという間に孤立していた。

 別に私としては、孤立するならするでそれでも良いと思っていたのだが……殊勝にも、そんな私に声を掛けてくる生徒が1人だけいた。


「――ねえ、リョーカちゃんは外であそびにいかないの?」


 私に声を掛けてきたのは、クラスメイトの少女だ。

 確か名前は――。


「――ごめんなさい、ミズキちゃん。声をかけてくれたところ悪いけど、あまり興味がそそられないの」


 ミズキ――瀬尾瑞季せおみずきという名の少女は、私の答えに首を傾げていた。


「きょうみ……?」


「ええ。鬼ごっこやかくれんぼって、運動効率が悪いから」


「うんどうこうりつ……? よくわかんない……」


 まあ……子供の遊びに効率を求めている人間など、おそらく私以外には居ないだろう。


「じゃ、そういうことだから……」


 私は彼女にそう告げて、読書に戻る。

 ……。


 ……だが瑞季ちゃんは、なぜかその後も目の前で立ち止まり、私のことをまじまじと見つめていた。


「……まだ、何か?」


「むずかしい本を読んでるんだね」


「ああ……」


 どうやら彼女の興味は、私の読んでいる本に移ったようだった。

 私の読んでいたのは、図書館で借りた例の恋愛小説。


「……図書館でオススメされてたから、ちょっと気になっただけよ」


「それ、いまドラマやってて話題になってるヤツだよね?」


 ……なるほど。

 図書館のやたらと目立つところに配置されていたのはそのせいか。合点がいった。


「おかあさんが毎週見てるんだー」


「へえ、そうなの」


「陵華ちゃんってそんなむずかしい本読めてすごいね! わたしなんて、おかあさんと一緒にドラマ見てるけど、よくわからないもん」


 確かに、登場人物の人間関係がやたらと複雑で、これを小学生に理解しろと言うほうが無理がある。

 私には流石に理解できたが……しかし私は、彼女にこう言った。


「実は私も……よく分かってないの」


 理解はできる。だが……共感は出来ない。

 前世までの私は、ただ生きることに必死だった。だから、恋愛なんてしたことがなかったし、それについて考えたこともなかった。

 ゆえに、登場人物の行動原理がさっぱり分からないのだ。

 我慢して読んでいればそのうち分かるようになるかもしれないと思い読み進めてはいたが、どうやらそれも難しそうだ。


 瑞季ちゃんは私の言葉にしばらくポカンとしていたが、やがて感慨深そうに頷いていた。


「そっかー、陵華ちゃんもわからないんだ」


「おかしいかしら?」


「ううん、おかしくないよ。ただ……」


「ただ?」


「……おんなじだな、と思っただけ」


 そして瑞季ちゃんは、私に笑いかけながら、こう言うのだった。


「わからない同士で、おそろいだね!」


 ……これが瀬尾瑞季と初めて交わした会話だった。

 そして思えば彼女が――私がこの世界に転生して、初めて出来た友達と呼べる存在だった。

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