幼少編
#1『目覚め』
「………さま、陵華お嬢様」
自分の名前を呼ぶ声がして、私の意識は徐々に覚醒する。
窓から差し込む優しい光。隣には、私を心配そうに覗き込む柔和な女性。
そして私は椅子に腰掛け、自分の机に向かっていた。
どうやら、居眠りをしてしまったようだ。
「……ごめんなさい。少しうとうとしてしまったみたい」
「いえ、お気になさらないで下さい。今日はお疲れのようなので、ここまでにしておきましょうか」
女性はそう言うと手に持っていた教科書をパタンと閉じる。それが終わりの合図だった。
私はそれを見て、少し申し訳ない気持ちになる。
「本当にごめんなさい、リサ。せっかく付き合って貰っているというのに、あなたの時間を無駄にしてしまった」
この女性は、名をリサといった。
私のお目付役として、私の父に雇われている人物だ。彼女はさらに私の家庭教師も兼任しており、休日はこうして私の勉強に付き合ってもらっているのだ。
ちなみに、私はリサの苗字を知らない。いや、それどころかこの『リサ』という名前が本名なのかすら、私には定かではなかった。
だが、私には彼女の名前を知ろうという気は全くない。
私にとってリサはリサであって、それ以外の何者でもなかったからだ。
リサは私の言葉に、恐れ多いとでもいうように、首を横に振った。
「いえ、そんな……それは陵華様が心配することではありませんよ。私は、好きでこの役目を引き受けているのです。それを無駄だと思うことなど、あろうはずがないですから」
「……そうなの?」
「ええ。それに、お嬢様は飲み込みが早くて助かってますから。ですから、たまには……こういう日があってもいいでしょう」
そう言うリサは、私に柔らかな表情で笑いかけた。
それを見るに、彼女の言葉は嘘ではないのだろう。
まったく……彼女には頭が下がる思いだ。
こんな休日に私みたいなお子様のお守りをしなくてはならないというのに、それを文句一つ言わないなんて。私が彼女なら、3日で根を上げていることだろう。
「……とはいえ、お嬢様が集中力を欠くなんて、珍しいこともあるものですね。何かあったのですか?」
リサが私にそう尋ねてくる。
確かにリサの言う通り、私が勉強中に居眠りをしてしまうなんてことは初めてだった。
私は、少し考えてから、こう言った。
「……夢をみていたのよ。なつかしい夢をね」
「懐かしい……夢ですか」
リサの頭上には、明らかにクエスチョンマークが浮かんでいた。
まあ、当然の反応だ。
まだ小学校に入学したばかりの少女が懐かしいなどという単語を発するのは、どう考えても違和感しかない。
私の口からそんな言葉が出てくるのは……私に前世の記憶があるからだ。
無論そのことを、リサは知らない。
リサの表情を見て思わず吹き出してしまった私は、彼女にこう訂正した。
「ごめんなさい、ただの冗談よ。ほんとうは……昨日、夜更かししてしまっただけなの」
「夜更かし……また本ですか?」
私の答えに、リサの声のトーンが明らかに下がるのが分かった。しかし、私は構わず話し続ける。
「ええ。どうしても昨日のうちに読みきってしまいたい本があって」
「……まったく。本を読むこと自体は良いことですけど……お嬢様の場合、あまりにも度が過ぎますよ?」
「そうかしら。そんな悠長なことを言ってたら、いくら時間があってもたりないわ。人生は……有限なのだからね」
私の台詞を聞いて、リサはしばらくポカンとしていたが、やがてフフと笑いながら言った。
「人生は有限、ですか。小学生でその境地に至っているのは、世界中を探してもお嬢様だけでしょうね」
「分かってもらえたかしら?」
「ええ……とても」
「そう、ありがとう。分かってもらえたところで、ひとつ頼みがあるのだけれど」
「はい、なんでしょう?」
「このあと図書館に行きたいの」
「図書館……またですか?」
リサは難色を示す。
まあ、このリサの反応も、分からなくはない。
近所にある市営図書館。あの図書館には、つい3日ほど前に行ったばかりだからだ。
「3日前に借りた本はもう全部読んじゃったのよ。それに、お父様の本棚にも目新しいものはなさそうだったし」
「……また旦那様のお部屋に入り込んだんですね。勝手に入るなとあれほど」
「言っておくけど、いやらしい本はなかったわよ?」
「……そういう問題じゃありません」
「だったら、大人しく私が図書館に行くのを認めることね」
私の強引な主張についに観念したのか、リサは深くため息をついた。
「……分かりました。あとで旦那様の許可を取っておきます」
リサは苦労人だ。
こんな私の我が儘に振り回されるしかないのだから。
だが、残念ながら私は、それを改めるつもりは全くなかった。
観念したように肩をすくめるリサ。
「ありがとう、リサ」
私はリサに微笑んだ。
最大限の哀れみを込めて。
◇◇◇
私が
どうしてか前世の記憶を引き継いだまま転生を果たした私は――なんの因果か、あの日夢見た日本に生まれ落ちていた。
実際に自分の目で見た日本は、あの時、彼から聞いた世界そのものだった。
だが、ひとつだけ見当違いだったことがあるとするならば……この日本という場所は、決して楽園とは限らないということだった。
無論、もといた場所に比べれば100倍マシだが、どうも幸せを……すべての人間が享受できている訳ではないらしい。
だから私は、努力することにしたのだ。
もう……あの日のように無様に野垂れ死ぬのは御免だから。
私はこの新しい世界で、今度こそ……平穏な生活を手に入れようと思う。
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