刻音と千風

「刻音。僕と一緒に死んでくれよ」

 優しく心地よい波の音。二つの足跡でできた道。柔らかく微笑む君。この世界にこれ以上のものは要らない。そう思っていたときだった。

 俺が密かに想いを寄せている彼が、千風がこう言ったのだ。

 俺の世界が崩れた音がした。聴き間違いだと思いたかったけど、そうではないみたい。寂しそうな千風のまなざしが嘘ではないと言っている。でも、そんな無理心中みたいなこと、できるわけがない。

「ごめん。それはできない」

俺ははっきりこう伝えた。

「そっか。やっぱりだめか」

こいつは自分が何を言ったのか忘れたのか。やけにあっさりした返事だった。

「刻音。ひとつ聞いていい?」

「あぁ、千風の死にたい気持ちが消えるまで、俺はお前の力になるよ」

「刻音はなんのために生きているの? 僕自身生きている意味を感じられなくて」

 俺は困った。そんなの分かるわけがないじゃないかと思って、少し考えてみた。だけど、答えは見つからなくて。きれいごとでは彼の死にたい気持ちは消えないと思って。正しいことは言えないけど。死にたがりの彼を励ますようなことも言えないけど。俺はこう言った。

「生きている意味なんてないんじゃない? 意味なんて見出そうとするから死にたくなるんだと俺は思う。答えのない負の感情に侵されるから苦しくなるんだって」

「なるほど……。さすが刻音先生」

「納得?」

「うん」

思ったよりいい反応でホッとした。

「だからさ、その、苦しむ暇があるなら俺らと楽しいことしようぜ」

「頼りになります。刻音先生」

「その呼び方やめろよ」

 潮風が冷たい。

「ふふふ。やっぱり刻音が好きだなあ」

 予想外の2文字に言葉が出なかった。いつもと変わらないやり取りの中で、初めての感覚。首から上がジリジリと温まる。彼の気持ちは、俺が彼に向けている気持ちとは別物だろうけれど、彼の口から「好き」の2文字が聞けただけでもう幸せだった。

 それ以上は望まなかったのに、俺の心を盗んだまま、突然千風は居なくなった。

 次の瞬間、

「じゃあね」

と綺麗に微笑んだあと、千風は海に向かって走り出した。

 状況が理解できない。だけど、ひらりと舞い降りてきた天使が、泡になってしまうような気がして。俺は、必死に追いかけた。

 冷たい塩水が、傷口に染みる。

 溺れかけながら、必死に追いかけたけれど、間に合わなかった。

 

 千風は死んだ。俺の心も千風と一緒に海に沈んだ。

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