外章 誓剣国伝

 

 雨でぬれた衣服が全身に絡む。


 ――勝つことは、できないかもしれない。


 絡んだ服が体を締め付け、熱と体力を奪っていく。


 ――死ぬことは、構わない。


羽のように軽いはずの真理甲冑も誓剣も、今は本物の鉄より重く感じる。


 ――敗北したって構わない。


 寒さで全身の感覚はなく、視覚情報で剣を握るのみ。


 ――だが、失敗だけは許されない。


 北の大帝国ブロキアの姫、ミルキス様。彼女が安全に次の城、デューアング城に到

着するまで、この隠された街道に現れる魔王の追手を叩き切る。

 

 つまり、成功とは。


 姫が城の隠し通路から脱出し、この山の中腹に出たのは一時間前。すでに日は落ち、雨も降り始めた。もとよりほとんど整備されていない山道故、彼女の歩みは極めて遅い。敵に見つかるのにも、さして時間はかからなかった。現れた魔王の追手は百を下らぬ。


『わたくしめにおまかせを!』


 彼女のために、この百の追手を押さえ込むこと。百の追手の後に来る、二百の敵を阻むこと。


 つまり、成功とは。


『姫様の騎士、ガーラ・ゴルディラが必ず、魔王の追手をすべて切り伏せ、必ず姫様のもとに戻ります!』


 彼女の名はガーラ・ダラ・ゴルディラ。絶対真理国家ブロキアの中央皇女ミルキス・ムート・ブロキア付きの近衛隊隊長を務める女騎士である。


「残り、五十か、六十か?」


 ええい、視界が悪い、彼女は冑を脱ぎ捨てた。肩口より少し上、乱雑に切られた金髪が雨に濡れる。誓いが目を冴えさせ、暗闇の中でも敵をはっきりと映し出す。醜悪なオークに歪なゴブリン、頭が四つある魔獣が木々の間から顔を出す。やはり、五十か六十で相違なし。相手にとって不足もなし。姫様の近衛であれば、この程度の数、多少の無理がなければ面白くもない。


 えい、と女騎士は敵の群れに切り込んだ。身の丈に近い長剣を振り上げ、オークの剣の間合いを超えて、彼の頭を割った。さらに強引に横薙にして、二匹。踏み込んだ勢いで踏みつぶしたゴブリンは、肋骨と肺ごと心臓を砕かれて、多分死んだだろう。迫る魔狼の牙を背中の甲冑で受け、振り向き様に長剣でもって二つに割る。飛び込んできたゴブリンを、左手に持った盾で殴り潰し、四つの頭を持った魔獣の首は、長剣でもって一つ一つ刈り取る。


 残、五十三。


 空から飛んできた魔鳥が彼女の首を狙い急降下するが、彼女は地面に落ちた魔獣の首を剣で刺し、そのまま投げ飛ばして迎撃する。


 残、五十二。


 安直に冑を脱いだわけでもなし。姫様と同じ金髪が、今は闇の中で目立ってくれる。敵はむき出しになった頭を狙う。彼女は、盾なり剣なり籠手なりで、頭さえ守ればそれでよい。甲冑が守れぬ箇所は脇腹や関節など多岐にわたる。そのすべてに気など配れるか。狙うなら、わたしの首一つにしろ。


 姫様を守る。その誓いで固められた真理甲冑は魔獣の爪も牙も通さず、真実を糧とする誓剣はオークやゴブリン、果ては竜の爪牙にも勝る切れ味を持つ。


 闇の下雨の中、騎士は吼えた。


「九!」


「十!」


「十一!」


「十二!」


 体力も咽喉も、枯れることを承知で叫ぶ。この絶叫が一匹でも多く魔物を引き寄せればよい。


 時間がいかほど流れ去ったのかはわからない。だが、


「五十八!」


「五十、九!」


 最後の一匹、彼女は目の前の木を切り倒す。みしみしと音を立てて倒れる木から、小さな影が飛び出した。姑息にも木の上を跳びながら矢を放っていた小さなゴブリン。

「六十」


 造作もない。横に一振り。


 あえなくそれを二つに割って、彼女はようやく深呼吸した。呼吸も忘れ、ただひたすらに剣を振っていた。魔物の牙も爪も剣も矢も、ときに甲冑の合間を縫って彼女の身を刺していた。そのことが、たった一息で急に全身に帰ってきた。無理に剣を振ったこともあった。それは全身の内側、骨身に痛みとなって表れている。それでも、今度は戻らねばならない。なぜならわたしは、姫様にそう誓ったから。そしてもう一度、ふう、と一息。彼女は顔を上げた。


「六十一」



 その声ははるか頭の上からした。


「巨人族!」


 防御も回避も間に合わず、あれだけ守ってきた頭に鈍く強烈な痛みが走る。


「数えてきたぞ、ニンゲンめ」


 ずん、と全身に衝撃が走る。もはやどこを殴られたのかもわからない。


「五と七と、六、否、三百八十二、か。よくもこんなに殺したな」


「種族は違えど仲間は仲間」


「我らの報復はさせてもらう」


 複数いるのは、わかる。だが、たった一回の衝撃だけで、彼女はもうほとんど目が見えなかった。


 だが、気配は正確なはず。立ち上がりその方向へ剣を向ける、向けた、はずだった。


「なんだ、息はあるみたいだがもう動けないのか」


 恐ろしい事実だった。もはや全身の感覚がなく、指一本として自由が利かぬ。


 どっ、と再び体が震える。甲冑は確かに牙や剣から体を守るが衝撃だけは凌げない。動かないはずの体が急に震え、おえ、と吐瀉した。雨を吹き飛ばすほどの笑い声があたりにこだまする。巨人たちが笑っているのだ。


 ――報復。


「四!」


 巨人が叫び、彼女の体を衝撃が貫く。巨人たちの一撃はただひたすらに重く、オークが振るう槌にも魔獣の体当たりにも勝っていた。


「五!」


 あっけない。もはや嬲られるだけであった。ただ、真理甲冑だけが虚しく作用し、意識だけを繋ぎ止める。何回殴られたのか、蹴られたのかもわからなくなり、振動すら感じなくなったころ、ようやく自分の首根っこを巨人がつまんでいることに気付いた。


「こいつ、いくら殴っても死なねえな」

 生暖かい空気。雨ですら緩和できない強烈な汚臭。死んでいた感覚が最悪なタイミングで蘇った。


「甲冑だ。ニンゲンは世界と契約して変な術を使う」


「ならこれを脱がせばいいのか」


 巨人の爪が甲冑をつまみ上げ、強引に引っ張る。


「それは、姫様から賜ったものだ……」


 もとより身を守るためのもの。斬られることも殴られることも想定されているものだったが。それでも、それを触れられ、あまつさえ剝がそうとすることだけは、耐えられなかった。


「喋った」


 巨人が思わず手を放し、彼女はべしゃりと地面にたたきつけられた。体が反射的にせき込む。続いて、鈍い振動が体を走る。胸を抑えつけられているようだ。


「おい、これ脱げよ」


「断る。首を、刎ねれば、いいだろう」


 息も絶え絶えに彼女は答えた。


「我らは道具を使うことを知らぬ。潰すことしか知らぬ。いずれ潰れるのだから早く潰れよ」


 一瞬の浮遊感。そして、衝撃。つまんで持ち上げた後叩きつけられたのだろう。泥が口の中にたっぷり入る。それを体が反射的に吐き出す。おえ。強烈な苦みと腐葉土の臭さが口中に広がった。


 そろそろ限界か、と彼女は悟った。巨人族が油断や隙を出す間もなく、自分の体がもたないことは自明であった。いささかの隙でもあれば、と耐えていた自分が馬鹿らしく思えた。実力不足、あるいは見通しの甘さか。どちらにせよ、もう自分にできることは少ない。


「くっ、殺せ」


 弱弱しく手を伸ばすと、闇の中に光が集まり、一振りの剣を落とした。


「ただし、わたしが死んだことがはっきりわかるようにしろ。消息不明になったわたしを姫様が案じ続けるのは心苦しい。だから、首を刎ねて殺してくれ」


 それが彼女の最後の望みであった。姫は彼女が生きている可能性があれば何度でも城に戻ろうとするだろう。だが、彼女の首がどこかに晒されでもしていれば、姫もさすがにあきらめる算段であった。


「自分の剣で死ぬか。まあいいか」


 巨人族は指先で剣をつまむと地面に転がる彼女の首の真上に切っ先を向ける。手を離せば、どんなに道具に使い慣れていなくても首ぐらいなら落とせるだろう。


「これで、我が同胞の死が報われると思うなよ。次こそお前の主を殺して見せる」

 後一つ、心残りを上げるならまさしくそれである。しかし、一方で彼女には姫への絶対の信頼があった。次こそは戦力を整え、いつの日か魔王の軍勢を退ける日が来るであろうと。


「やってみろ。先に向こうで楽しみにしているぞ」


 そういって彼女は目を閉じた。


「誓剣に真理甲冑、恐ろしいな、巨人族」


 巨人族の野太い声とは明らかに違う、何かの声。


「今は手を引け。それに、誓剣でその持ち主が死ぬかもわからぬ」


「剣のことはわからぬ。だが、手は引けぬ。こいつは同胞を多く殺した」


 巨人族は女をぎゅうと踏みつぶした。


「その通り。だからわたしに譲れ。貴君らの同胞は私の同胞だ。お前たちは一度城に戻るがよい」


「なんだと?」


「姫は逃亡に成功した。しかし、魔王様は城が取れたことだけでよしとした。そういうことだ。後はわたしに任せよ」


「……わかった。同胞の死に報いろ」


「もちろんだとも」


 その言葉を最後に、大地が揺れる気配がどんどん遠ざかっていく。


「さて、ひどい有様じゃないか、騎士様」


 体ががっしと掴まれ、持ち上げられる。ようやく回復し始めた視界に写ったのは、巨大な一対の複眼と三つの単眼、十七対の蠢く牙、すなわち昆虫の顔であった。


「なっ」


 思わず悲鳴にも似た声を上げてしまう。


「そう驚かれると傷つきますな。わたしのことをお忘れかな」


「わたしと二度も出会う魔物はいない」


「それはまた大した自信で。ところがわたしは魔物ではなくてね」


 そういう昆虫の頭がぱっくりと割れ、ぬめぬめとした液体が脈々と湧き出る。つんとした刺激臭があたりに漂った。そして、その中から、ぬう、と何かが、否、人間の頭が出てきたではないか。羊膜のようなものに包まれたそれは勝手にはじけ、ついに不気味な笑みを浮かべる。齢にして八十を超えそうな程度の老いた男の顔であった。加え、その顔に彼女は覚えがあった。


「お前は、ケドドム卿ではないか」


「覚えておいでか、姫の親衛隊の隊長様にお覚えいただけるとは恐悦至極!」


 嬉しそうに怪物は言った。


「だが、お前は王族の秘術に触れようとした罪で追放されたはずだ」


「その通り。だが、こうして帰って参ったのです」


「この恥知らずめ。まさか魔王に寝返るとは」


「王族こそ、秘術を独占し国民を搾取する真の敵。わたしは解放しに来たのですよ」


「意味が分からぬ」


「わからせて差し上げますよ。すぐにでも」


 ケドドム卿は巨大なカマキリのような体をしていた。肝心の鎌こそないが、その代わり大地に立つ四本の脚以外に六本の昆虫めいた腕が生えており、そのうち二本が彼女を掴み、残りの一本は怪しげな小瓶をその胸の中からずるりと取り出した。


「これは、王族の秘術、真理を価値に変える儀式を研究した結果生まれた薬品です」


「なん、だと?」


「真理は儀式によって具象化し、具象した事実は真理を確固たるものにする。目に見えぬ忠誠心すら大自然の一部となり、その存在は太陽が必ず東から昇ることと同義となる。こうしてみると真理甲冑も誓剣も強力なものに思えるが、この場合の真理とは、あくまで儀式の内容にすぎない」


「何を、言っているんだ?」


「知っての通り、真理甲冑も誓剣も、儀式で宣誓した内容を反故にすれば簡単に砕け散る」


「反故、だと?」


 ケドドムの言葉に彼女は一瞬、全身の痛みを忘れて笑った。


「一度儀式を執り行い、誓剣が具象化した以上、真理は固定され世界の一部となる。わたしと姫様の関係は絶対だ。わたし達の結束こそが真理であり、真理であるから誓剣は不滅だ。ゆえに真理甲冑は砕けず、誓剣は大魔術師の詠唱魔法に勝る。反故にするだと? わたしが姫様を思い、姫様がわたしを頼るのは東から日が昇り、西に沈むのと同様に変わることのない絶対だ」


 彼女の言葉をケドドムは静かに聞いていた。そして、


「そう。儀式の言葉はすでに真理となり、真理は今具象化して確固たる事実として存在している。だが、穴はある。なんだと思いますか?」


「どういうことだ。真理は揺らぐはずがない」


「真理として固定されたのはあくまであなたと姫の間の主従のみ。では、あなたがあなたでなくなればいい。単純だったんですよ」


「はあ?」


 猛烈な怒りと、徐々に登ってくる恐怖。まさか。


「わかりますよね、わたしの姿が。あの日、儀式によって二度と王都に近づけないよう呪われたわたしが、今ここにいる意味が」


 ケドドムの残った腕のうち二本が彼女の足をがっしりと掴む。


「魔王様のもとで精製したこの薬品は、相手の体組織を書き換え、別の生物に変化させるんですよ」


「バカな! そんな、そんなことが」身の毛がよだつ。思わず彼女は体を震わせた。


「できちゃいました」


 ケドドムは笑みを浮かべ、彼女の口元に小瓶を近づける。


「もういい、やめろ。殺せ。頼む」


「いやですよ。あなたにはわたしの花嫁になってもらいます」


「この期に及んで冗談など!」


「いえね。魔族社会では一族の数こそが全てなんですよ。ですから、わたしも早急に一族を増やさなくてはならないのです。ですが、元人間のわたしと一つになってくれる魔族などいなくてね」


「ふざけるな、そんなことが」


「この薬品、ルーバ=ケドドムを投与されると、意識が混濁し目の前の相手より体組織を摂取します。その情報と提供元の生物の意識を基にあなたの体が書き換わる。あなたはあなたでなくなり真理は破棄される。否、あなたと姫の契約は存在するが、宙に浮いた状態になる、というのが正しいのですかな。ともかく、こうして新しいあなたとわたしの間に真理、否、運命が刻まれる」


「運命、だと」


 必死で抵抗しようと体をよじるが、虫の細腕にもかかわらず体は微塵も動かない。


「ええ、その通りです」


「やめろ、頼む。殺してくれ」


「嫌ですよ。さあお飲みなさい。次に意識が戻るとき、きっと新しいあなたになっているはずです、わたしのようにね」


 そういうが早いか残った彼の腕が強引に彼女の口をこじ開け、隙間から小瓶の中身を注がれる。せき込み吐き出そうとするが、小瓶は口腔からさらにその奥、咽頭にまでねじ込まれ、直接流し込まれる。もはやあらゆる抵抗が無意味であった。


 そもそも、口腔内に液体が流れただけで全身から力が抜けていた。おそらく、そういった作用があるのだろう。代わりに、別種の力が体を満たしていく。


 ――欲しい。好き。食べたい。


 そのとき、回復しきらぬ彼女の眼にもわかるほど、鮮やかな閃光があたりを満たした。だが、そんなものは関係ない。今自分が触れるもの、それが欲しくてたまらない。

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