Starman

冷たい空気が頬を刺激する。


熱い息が口からこぼれ、水蒸気となって消えていく。


俺は今、一人で走っている。


その事実は何よりも、俺を興奮させた。


計画は成功だ! 思わず笑い声を上げる。


通りすがりの人間がぎょっとした表情で、全速力で駆け抜ける俺を見た。



遡ること約十分前。俺は脱走計画を実行した。


脱走計画といっても、脱走したまま戻ってこないというわけではない。


何せ猫の姿に戻るにはサラの協力が不可欠だ。


だから、サラが出かけている間に外に出て、サラが帰ってくるまでに家に戻ってくることにした。


幸いなことに、俺が音楽や映画に夢中になっているからか、サラの警戒心は始めの頃より薄れていた。


しかし問題があった。玄関の外には、監視カメラが置いてあるのだ。


防犯対策のためだが、家の中から出るところも映ってしまう。


外に出られそうな窓もいくつか確認してみたが、一階部分はどこもカメラが設置されていた。


そこでカメラが設置されていない二階から脱出することにした。


二階から脱出する方法を、俺はよく知っている。


初めて人間になった日、木へ飛び移った部屋に向かう。


壁にはまだ焦げ跡がしっかりと残っていた。


窓を開けると、冷たい外気が部屋に吹き込んでくる。


息を吐くと、白い蒸気となって宙に消えていった。


一旦部屋を出て、サラのコートを持ってきて羽織った。


寒さが少し和らぐ。


改めて外を見回した。


冬だからか、十六時過ぎにもかかわらず、すでに日が暮れようとしていた。


沈みかけた太陽が辺り一面をオレンジ色に染めている。


あのときは気づかなかったが、今いるのはサラの自宅の裏側で、目の前にあるのは隣家の庭のようだ。


眼下には芝生が広がっていて、外縁部分には目隠しのための小さな木が植えられている。


目の前にはあのときの変わらず、常用樹がそびえ立っていた。


意を決して木に飛び移る。


一度経験したことなので、ずいぶんと慣れたものだった。しかも今は、身体を保護してくれる服を着ている。


ゆっくりと枝に足をかけ、降り、脱げた靴を履いた。


一息ついた瞬間、庭から隣家のリビングの中が丸見えであることに気づいた。


庭からリビングが丸見えということは、リビングからも庭が丸見えということだ。


ソファに座っている学生服を着た女の子が、ぽかんとした表情でこちらを見ていた。


食べかけのポテトチップスが、指の間からぽろりと落ちた。


俺は人差し指を口に当て、静かにするよう伝える。


女の子が首を振る。

俺も首を振る。


女の子の顔が歪む。

俺の顔も歪む。


女の子が叫んだ。

俺は逃げた。



そんなわけで俺は今、外を走っている。


冷たい空気が頬を叩き、吸い込む空気が肺を一瞬で冷やしていった。


それなのに身体はやたらと熱い。


心臓がバクバク鳴っていた。


一人で走る世界はなんと楽しいのだろう! 


俺は自由な外の世界を満喫していた。



やがて商店街についた。


いつもサラと来ているので、もう見慣れたものだ。


ぶらぶらと一人で店を見て回った。


商店街の端っこまで来ると、ホワイトの前で見慣れた人物を見つけた。


思わず名前を叫ぶ。


「裕太!!」


「は、はい!」


名前を呼ばれた裕太が俺を見た。


その顔を見た瞬間、期待が湧き上がった。


裕太は、猫の俺を知っている数少ない人間の一人だ。


俺の正体に気づいてくれるのではないだろうか。


「すみません、今日はもう店閉めちゃって」


裕太が言った。どうやら俺のことを客だと思っているらしい。


俺の全身を不思議そうに眺める。


しかし俺の正体に気づいた様子はない。


「俺が誰か、気づかない?」


裕太は「へ?」と素っ頓狂な声を上げる。


俺を見る表情が明らかに強張っている。


「本当に気づかない? 俺が誰か」


「え、あの、はい。ごめんなさい」


俺が一歩を踏み出すと、裕太も後ろに一歩下がる。


そう言えば、今までは屋根の上から見下ろしていたが、今は同じ目線で話している。


猫のときはデカいと思っていたが、今では同じくらいの身長だ。


「あの、なんか、すみません」


「なんで謝るんだ」


「いや、あの、その、もう少し離れていただけると、ありがたいです」


肩のあたりで小さく両手をあげ、背中を反らせたポーズで、裕太が言った。


無意識のうちに顔を近づけすぎていたらしい。


そういえば、他人の匂いを嗅ぐのは絶対にやめろと言われたような気がする。


言われた通り、二歩、三歩と後ろに下がった。


「以前、どこかでお会いしたということですよね?」


「そうだ、何度も会ってた」


俺の返答に腕を組み、頭を捻る。


「ライブで会ったとか」


ライブという言葉に思わず反応する。


裕太は勘違いしたのか「そうか、ライブかぁ」と早とちりをしている。


これは逆にちょうどいいかもしれない。


「そうだ、ライブで見たんだ。ギター弾いてるだろ?」


「見に来てたんですか?」


「そうだ、俺もバンドをやってるからな。今ちょうど、ギターを探しているんだ」


裕太は、口を開いて何かを言おうとした。


しかし、それより前に俺の背後に視線を移して「あっ!」と叫んだ。


振り返ろうとしたが、ビリビリとした空気が背後から漂ってくる。


この空気を醸し出せるのは、一人しかいない。恐る恐る振り返った。



買い物袋を持ったサラが仁王立ちしていた。


裕太に笑顔で挨拶する。今は完全に、外面バージョンのサラだ。


「白石さん、ちょうどよかったわ」


サラが俺の肩に手を置いた。


俺は飛び上がりそうになりながら、平然を装った。


「紹介するわ。この人、私の親戚なの」


「えっサラさんの親戚?!」


裕太はサラと俺の顔を交互に見つめた。


その顔には「似てない」と書いてある。


なるほど、人間の考えていることを知るのは案外簡単なのかもしれない。


「だから俺のこと知ってたんですね」


「あら、もうお話したの?」


にこやかな笑みで俺に問いかける。


背後では、俺の背中をつねりあげている。


痛みをこらえながら「ちょっとだけ」と答えた。


「バンドやってるんですってね」裕太が言った。


「あらぁそんなことまで話したの?」


つねる力が増す。


逆猫背の姿勢になりながら「ちょっとだけ」と答えた。


「この子、こないだまで外国にいたから、まだ少し日本語に慣れてないの。もしかしたら変なこと言っていたかもしれないけど、気にしないでくださいね」


「そうなんですね。全然違和感なかったですよ。そういえば、お名前聞いてなかったですね」


裕太に言われてサラの顔を見る。

サラも俺を見る。


サラが口を開いたが、それよりも早く言った。

「俺は、クロだ」


俺がクロだと、猫だとわかってくれるのは裕太しかいない!


「黒田?」

「そう、クロだ」


裕太がまっすぐに俺を見つめる。


俺も視線をそらさずに見つめた。


裕太がにこりと笑った。


わかってくれた! 


そう思った瞬間、裕太が言った。


「黒田さんか。よろしく」


だめだこりゃ。ため息をついた。


隣のサラを見ると、口を手で覆っていたが、その下にはこらえきれないといった感じの笑みが浮かんでいた。


なんて腹立たしい顔だ。


「黒田さんのバンド、ギター探しているんですか?」


「そうだ。ギターとベースとドラムを探している」


「それは、つまり黒田さんがボーカルで、今は黒田さん一人ってこと?」


「そうだ。俺はお前が、ギターがそこそこうまいのを知っている」


裕太は笑いながら「そこそこかぁ」と言った。そして思い出したように言った。


「ちょうど、来週サークルのライブがあるから、よかったら見に来てください」


詳細を教えるために連絡先を聞かれたが、俺は連絡する手段を持っていない。


仕方なく、サラを経由して連絡してもらうことにした。


裕太は、サラが変わりに連絡先を教えることになるとわかると、途端に慌てだした。


顔を赤らめ、ポケットから取り出したスマートフォンを落とす。


「じゃ、じゃじゃあ後で、俺から、サ、サラさんに連絡しますね」


こらえきれないニヤケ顔を浮かべながら、裕太が言った。


立ち去る足取りもスキップをしそうな勢いだった。



裕太の姿が見えなくなると、サラの柔和な笑みは般若のような顔に早変わりした。


「何勝手なことしてるの」


「いやぁちょっと散歩でもしようと思って。でもほら、他の人間と全然変わらないだろ」


俺は得意げに両手を広げてみせた。


「サイズの合わない私のコート来て? 木の枝まみれで? 靴も履かずに?」


「寒かったらコートを着るんだろう? 靴だって履いているじゃないか」


「あなたが着ているのは女物のコート! それは靴じゃなくスリッパ!」


「なるほど、どうりで窮屈なわけだ。靴も何回も脱げるから、こんなに不便なもの履かなければいいのにって思ってたんだ」


俺の言葉にサラは頭を抱えていた。その後こっぴどく叱られたのは言うまでもない。



帰り道、なぜか隣の家に行った。


隣家の娘が怖がるので謝るという。


彼女と彼女の両親に謝ったが、父親が「こんな男が近くにいるのは危ない」と言って話しが進まなかった。


「もう! やっぱり面倒ね」


サラはそう言って、突然立ち上がった。


俺にサングラスを渡して、かけるように言う。


言われた通りサングラスかけると、サラが杖を取り出し「ここをよぉく見てください」と言って杖の先を指差した。


三人が不思議そうに杖の先端を見ると、突然フラッシュのような強い光が辺りに走った。


「この度はご協力ありがとうございました」


そう言ってサラは頭を下げる。


三人もなぜか頭を下げる。


あれほど渋っていたのに、おとなしく俺たちを帰してくれた。


「忘却魔法よ。一人ひとりにかけるのが面倒だったけど、この方法なら複数人に一気に魔法をかけることができるの。『メン・イン・ブラック』がこんな形で役に立つとは思わなかったわ」


なるほど。これで疑問が一つ解決できた。


俺が裸で商店街を走り回ったというのに、誰にも何も言われないのはなぜかと思っていたのだ。


俺の気を失わせた後に、先ほどの忘却魔法を商店街の人々に使ったのだろう。


魔法を使ったサラは、ぐったりとしたまましばらくソファに横になっていた。


どうやら体力を使うというのは本当らしい。


ライブにはサラと一緒に行くという条件付きで、承諾を得られた。


サラには「素人のライブは期待しないほうがいい」と言っていたが、それでもワクワクする気持ちは止められない。


眠ろうとしてもなかなか寝付けなかった。


翌日には、名前も決めた。


人間には名字と名前の二つが揃っていないといけないという。


俺は「月」という字を入れたかった。


あらゆる名付け辞典を漁り、「結(ゆ)月(づき)」という名前に決める。


その次の日には、サラが役所に登録してきたと言った。


この国に生まれた人間は、生きていることを登録しなければならないらしい。


どうやってやったのかわからなかったが、またずっと眠っていたのでお得意の魔法を使ったのだろう。



こうして、黒田結月は誕生した。

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