第2章

2020

翌日から、サラから人間社会で生きていけるように、人間の常識やマナーというやつを教え込まれた。


人間は服を着る。


人間は匹ではなく人で数える。


今はイエス・キリストが生まれてから二〇二〇年が経っている。


現在は新しい年の始まりである一月。


人間は、国というものを作っていて、それぞれ種族やルールが違う。


ここは日本という国で、あらゆる種族のなかでも特に神経質で生真面目で調和を重んじる国民性であること。


それゆえ、あまり目立った行動はしないほうが良いこと。


目まぐるしい毎日だった。


何せ、これまでは一日中眠り、腹が減ったら起きて飯を食い、たまに友だちに会う生活をしていたのだ。


それが今では毎日八時に起こされ、一日中、人間社会で生きる上で必要なことを詰め込まれる。


昼寝はたったの三十分だ。


とても俺には耐えられないと思ったが、これは人間が皆やっていることなのだと言う。


人間がおかしいとは知っていたが、まさかここまで狂ったことをやっているとは思わなかった。


「その成果が出ているからいいじゃない」


珍しく褒められた。


サラも想像しなかったスピードで俺は成長を遂げているらしい。


教えているサラが驚くほどだ。


言葉もほとんど問題なく話せるようになっていたし、文字も小学校低学年で習うような漢字までなら、読めるようになっていた。


それに、以前よりも我慢ができるようになっていた。


俺は、野良猫のような不安定な生活ではなく、必ず飯にありつける安全な暮らしになったから、我慢できるようになったと考えていた。


しかしサラはそうではなく、脳みその違いにあると考えているようだった。


「人間の脳は、大脳辺縁系よりも大脳新皮質が占める割合が大きいからね」


「だいのうへんえん……?」


「簡単に言うと、生物としての根源的な欲求を発するのが大脳辺縁系、それとは反対に何かを考えたり覚えたりするときに使うところが大脳新皮質。人間は大脳新皮質が他の動物よりも発達しているから、色々なものを考えたり発明できたりするのよ」


よくわからないが、前よりも頭が良くなったということなのだろう。


一週間後には、運動の時間と称して外に出してもらえることになった。


サラから離れてはいけないというルールがあったが、やはり外は良い。


この体では塀の上や狭いところは通れなかったが、猫のときよりも長く走ることができた。


サラは自転車に乗り、俺が横を走るのが一番効率の良い運動方法だった。



それでもトラブルは絶えなかった。


一番は、サラが河川敷に行きたいと言ったことだ。


少し歩いたところに県をまたぐ大きな川がある。


その河川敷であれば、運動がしやすいとのことだったが、俺は絶対に嫌だった。


「河川敷で何かあったの?」


サラの言葉に答えず、俺はしばらく引きこもった。


サラとは一生口も聞きたくない気分だったが、サラが刺し身を買ってきたので、仕方なく食べてあげることにした。


河川敷には行かないことで、話しがついた。


なぜかサラは俺の頭を撫でる。


俺は優しいのでその手を払いのけないでいてあげた。


決してなで心地が良かったからではない。



商店街にも出かけるようになった。


しかしこれは、勉強よりも大変なことだった。


今までは人間に少しでも近づかないようにして生活していたのだ。


それが、これからは人間と一緒に暮らしていかなければならない。


はじめは雑踏の中を歩くだけでもパニックに陥りそうだった。


それでも少しずつ距離を縮めていくことで、慣れていくことができた。



家に帰ると、すぐに地下室に向かった。


サラの自宅には、地下に防音室があり、そこには古いレコードが大量に保管されている。


レコードを漁りながら待っているとようやくサラが降りてきた。


サラにレコードを渡す。レコードプレーヤーは繊細な機械なので、俺は触ることはおろか、近づくことも許されていない。


「またトミー? 毎日聞いてるじゃない」


そう言いながらも、レコードにプレーヤーにのせ針を落とす。


俺はソファに寝転がって目を閉じた。


まずはこのアルバムを聞かなければ、始まらない。


当然だがコンテストで優勝するには、音楽を演奏するための知識を知らなければならない。


昼すぎまで人間社会で暮らすための常識、その後は外出と運動、そして夜は音楽に関する勉強をしていた。


サラのコレクションであるレコードを聞きながら、その音楽に関する知識や時代背景、音楽理論などを教えてもらう。


勉強とは退屈なものだと感じていたが、音楽に関しては違った。


自分の知っている楽曲がどのようにして作られたのか、人物や時代背景を知ることがまったく苦痛ではなかった。


むしろ、もっと知りたいと感じるようになっていた。


夕食後は、映画を見た。映画は、人間の生活や常識を学ぶのに最適だった。


肌の色や国籍での差別、階級社会、金や権力への執着、男女の考えのすれ違い。


学んでいくうちに、猫と人間には共通点が多いこともわかった。


男と女の関係性がまさにそうだ。


俺は、女という生き物が何を考えているのか、これまでさっぱりわからなかったが、人間の男も同じようだった。


どうやら人間の女も猫の女と同じく、気まぐれでわがままで理不尽な生き物らしい。


しかしサラに言わせれば、「女だから」と決めつける姿勢は、現代では差別的な考えで良くないこととされているそうだ。


そういうサラも俺が画面のなかの美しい猫に興奮していると「男はそればっかり!」と怒ってくる。


それも差別なんじゃないかと言うと、耳を引っ張られる。

やっぱり女は理不尽だ。


「そんなことより、そろそろR2出場に向けて動き出さないとね」


サラが言った。自分に都合が悪くなるとこうやって話しをそらす。


R2とは「ROCK(ロック) ROOKIES(ルーキーズ)」の通称で、新人バンドの発掘を目的としたコンテストのことだ。


予選は三回あり、一次予選は音源、二次予選はSNSでのファン投票、そして決勝戦はライブで審査を行う。


晴れてその三回の予選を勝ち残れば、年末に行われる日本最大級のロックフェスティバルに出演する権利を獲得できる。


「R2は毎年、三千以上のバンドが応募してるのよ。そこから優勝するのは奇跡にも等しいことなの」


「俺なら奇跡くらい起こせるよ」


「いくらあなたが音楽の天才だろうが、いきなり優勝するのは難しいことなの。ビートルズですら、初めはオーディションに受からなかったのよ?」


「でも俺は猫から人間になった生き物だ。ジョン・レノンがもともとネズミだって言うんならわかるけど」


「まあチャレンジすることはいいことだと思うわ。私も今年のR2が無理でも、別のコンテストでも良いと思ってるし」


「冗談じゃない。最初にR2優勝って言ったのはサラだぞ。絶対、優勝して元に戻ってやるんだからな。それよりちゃんと俺を元に戻せるんだろうな」


「そりゃあ、もちろん」


そう言ったサラの視線が、一瞬揺れた気がした。


一緒に暮らして一ヶ月になるが、いまだにサラには謎が多い。


フランスの出身だということは教えてくれたが、それ以外は教えようとしない。


年齢も、どうして日本にいるのかも、会話のなかで探ろうとしても魚がするりと逃げるように、かわされてしまう。


いつか、どうにかしてサラの正体を突き止めたいと思っているが、今のところそのチャンスは訪れない。


「何かやましいこと考えてるでしょ?」


サラが顔を覗き込んでくる。


まずい。


あわてて頭のなかで暗算をした。


百から七を引いていく。


暗算をすると、それだけに思考が持っていかれるので考えを読まれずに済む。


「そんなにしょっちゅう、考えを読もうとしないわよ」


サラに曰く、魔法を使うことは俺たちが走ったり重いものを持ち上げたりするのと同じで、体力を消耗するのだそうだ。


だからいつでも好きに使っているわけではない。むしろ人間社会では、魔法を使うことはほとんどないそうだ。


「それよりR2のことよ。そろそろバンドメンバーを募集したほうが良いんじゃない?」


「バンドメンバーってどうやって募集するんだ?」


「ひとまず一人で歌手活動をしながら、出演したライブで上手い演奏者に声かけていくのが一番良い方法だと思うわ」


「じゃあ早く歌手活動をしよう。早くライブハウスで歌ってみたいんだ」


俺の言葉に、サラは口をつぐんだ。何かを考えるように顎に手を置いている。


「まだダメよ」


「なんでだよ!? 上手いって言ってたじゃないか!」


最近では毎日のように、地下室で歌っていた。


実際に歌ってみると楽しさがより倍増した。サラも、俺の歌声を聞いて一瞬、惚けるほどだった。


「歌は悪くないけど、あなたが一人で出歩くのはまだ無理だと思うの。まずはネットで配信を始めましょう」


サラ曰く、俺にはまだまだ人間社会に馴染めないらしい。


俺は十分だと思うが、もう一ヶ月は人間社会の勉強と慣れが必要だと言われた。


この体になってすでに一ヶ月近く経っているのに、冗談じゃない。


サラが食事を作るために、防音室から出ていった。


ここも安全で楽しいが、やはりもっと外に出たい。


そしてもっと外の世界を知りたかった。


不思議だ。


今までこんな風に知りたい気持ちなんてなかった。


気づけば、どうすればサラにバレずに外に脱出できるか考えていた。

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