刻んだ話

 熱帯夜、寝ようとするとどうしようもないのが嫌なんだよな。出歩く分には気楽でいいんだけど。そんでクーラー入れればいいかっていうと、それはそれで肌寒くって明け方一歩前あたりに目ぇ覚めるし。ちょうどいいとこなかなかないよな。窓開けるのは……嫌だな。虫もだし、人も来るだろ。実家の父さんたち平気で開けるんだけど、あれ怖くないのかね。俺めちゃくちゃ嫌だけど。


 しっかり夏になっちゃったからなあ。お前、試験とか課題系終わった? 佐々木先生の試験、あれ持ち込み可だけど普通に範囲がバカ広いから舐めてかかると痛い目見るんだよな。ちゃんと授業聴いてノートつけてりゃ問題ないけど。日々の積み重ねが大事ってことを分からせられる感がある。地道にこつこつやんのが正解ってのは分かるんだけどね、好きかどうかはほら、個人の趣味じゃん。あと適不適。そのまま人生の適不適になっちゃうとむごい気もするけど。


 でまあ、毎度お馴染みって感じで話を進めるけど。ちょっと今日のはあれ、暗め。先輩から聞いて、煙草受けとって未練がましいやつですねって言ったら、先輩ちょっと考えてから俺の右足踏んだもの。そういう感じの話な。


 檜原さん、ご両親の実家が遠いんだよね。車で一時間とかそういうんじゃなくて、結構離れた県外。だから実家に帰るったら一大イベントっていうか、ほとんど旅行なんだって。高速で車飛ばして八時間ぐらいなんだって。その遠い実家の、父方の実家の話。

 そうやって夏に帰ると、当たり前だけど婆ちゃんとか親類とかに会えるわけ。お盆だしね、田舎だから親戚一同集まって酒飲んだり墓参りしたりする。

 その夏にしか会えない人の中で、檜原さんが特に好きだった人がいた。兄ちゃんって呼んでたって。檜原さんが裏庭でセミの抜け殻集めてたり縁側でひっくり帰ってたりすると、いつの間にかそばにいる。にこにこして、よく来たな今年も元気そうだなって普通の親戚みたいなこと話しかけてくる。


 でもその人死んでるってことは、結構最初から檜原さん知ってた。


 だって仏間に写真があったから。田舎の仏間って想像できる? 天井のとこに遺影がずらっと並んでんの。そこの左から五枚目に、兄ちゃんの顔があった。見つけたときに家の連中に聞いたらしいけど、誰も知らないんだって。これね、俺んとこもそうだから嘘じゃないんだよね。なんつうか、昔はよく……もらったりあげたりついてきたりしてたから。子供つうか連れ子とか、そんな感じで。

 で、檜原さんはその辺のこと、言わずにいたんだって。明るいし、テレビで見るやつみたいに血だらけだったり首絞めてくるわけでもないし。ただぼんやり自分の横にいて、くだんない話をして煙草吸ってる。幽霊って煙草吸うんだとは思ってたらしいけど、まあ総合してどうでもいいから聞かなかった。ただでさえ暇だし両親も構ってくれないのに、わざわざ話し相手の機嫌を損ねるのも嫌だって。


 話の内容、本当に普通のことだったんだと。今年も馬鹿みたいに暑いねとか、お盆って煮しめばっかり食わされるよなとか、墓で転ぶとめちゃくちゃ怒られるけどこっちは膝痛いのに怒られんの割に合わないとかそういうやつ。兄ちゃん幽霊のくせに話が上手くって、実家に帰るたびに檜原さんは会うのを楽しみにしてた。

 突然出てくるけど、いなくなるのも突然なんだって。誰か来たり、話が途切れて気が逸れた瞬間なんかにするっと消える。煙草の匂いだけ微かに残るけど、不思議と誰もそれに気づかない。

 だからまあ、かえって説明もできないんだよね。何にも残ってないから、トトロいたもん以上に信憑性のないうわごとになっちゃう。親族からすれば、一人遊びの上手な子供ってことで済んでたみたいよ。俺が言うのもなんだけど、雑な家だったんじゃない? 俺んとこもそんな感じだから。死んだり怪我してなきゃ大体見逃すんだよね。雑だろ。


 高校二年の夏だったんだと。来年はもう受験だしってことで、これでしばらく家族全員での旅行もなくなるなみたいな区切りめいた感じの帰省だった。

 檜原さんもさすがに高校生だからね。昔みたくセミ追っかけるってわけにもいかないけど、縁側でぼーっとしてたんだって。高校生ならスマホ弄ってるだろって話だけど、婆ちゃんちに回線なかったから、ギガ無駄に使えないなって蔵から出してきた読めそうな本積んで、でも気が微妙に乗らなかった。家族連中はお盆の買い出しだって婆ちゃん連れて出かけてて、デカい家には檜原さん一人だけだった。

 日差しが少し翳り始めて、お手本みたいな積乱雲が空を覆ってた。夕立が来るな、って思ったって。


「雨来るからさ、洗濯物あるんなら取り込んだ方がよくないか」


 声がして、横を向いた。兄ちゃんが煙草咥えて、檜原さんの方をじっと見てた。

 考えたらこの人昔っから全然老けないなって思って、その辺もうちょっと人間っぽく振る舞ったほうがいいんじゃないかって心配になったんだと。死人、っていうか生きてないものが年を取るかったらまた色々ありそうだけどね。


「今日は干してない。雨降るの」

「降るね。雲もだけど、風が冷たい。夕方くらいにごろごろ来るよ」


 せっかくお前に会えたのに天気が悪いのは嫌だねって、兄ちゃん目を細くして檜原さんを見た。その笑い方が家族の誰にも似ていなくて、この人は家にいるだけの他人なんだってことを実感した。


「あのさ兄ちゃん。俺、今年でしばらく来れなくなるよ」

「そうか」

「来年、受験があるからさ。受かっても駄目でも、なかなか来られなくなる」

「うん」


 兄ちゃんは特に咎めるでもなくただゆるゆると煙を吐いて、


「残念だ。ただまあ、理由があるなら仕方がない」


 そう言って笑う目が、無性に癇に障ったのだそうだ。

 忘れられる、過去にされる、手放される──それが分かっていて、それを当たり前だと受け入れている顔だった。そんな顔をされるのが、檜原さんには我慢ならなかったんだと。

 不満のひとつも口にせずに黙って堪えられるのが、なんとも思っていないという顔をされたのが、気に食わなかった。


 思ってから、すぐに手が出た。どうにかして、

 檜原さん、兄ちゃんが持ってた煙草を毟り取って、そのまま自分の左腕の内側に押しつけた。

 蝉の声と吹く風に繁る夏葉が擦れる音、それらより一際大きく肌が灼ける音が聞こえた。


 兄ちゃん、一瞬あっけにとられてたけどもすぐに檜原さんから吸い殻を取り上げた。けど、もう灼けてるから意味ない。


「何でこんなこと──」


 そんときの兄ちゃんの顔、しっかり覚えてるって。人に言うのも惜しいって、先輩は教えてもらえなかったらしいけど。

 檜原さんとしては、その顔をさせられただけで嬉しかったそうだよ。もっと早くやっておけばよかった、お前のことを忘れてなんかやらないって、宣言しといてやればよかったって。


 ちょうど、というか間の悪いことに郵便屋が来たんだって。夕刊を直に受け取ってご苦労様って見送ったら、当たり前だけど兄ちゃんはいなくなってた。それから少し間を置いて夕立が降って、聞いてたより早かったなって思いながら絆創膏探して貼っつけて、家族が帰ってくんのを待ってたんだと。

 当たり前だけど、痕はきちっと残ったって。根性焼きだから当然だけどね。腕の内側だから、気づいたやつはいなかったって言ってたけど、気づいても言及しないよなって俺は思った。怖いじゃん。檜原さんの場合は事情が違うけど──そっちも怖いか。うん。


 そんでまあ、檜原さん一浪して。地元の大学入ってそっからは留年とかしないでストレートで卒業して、そのままいい感じの会社に一旦入ったんだけど、色々あって辞めちゃったんだよね。そんで折が……悪しくなのかな。その無職になった夏に婆ちゃんが死んだんだと。爺さんは大学入った前後で死んでたから、家には婆ちゃんが一人だけだった。けどその婆ちゃんが死んで、子供連中が誰も家を継がないっていうから、諸々の整理がてら家を壊したんだと。


 庭の木とか畑とか蔵とか、家とか。そういう、誰かの人生の痕跡みたいなものを始末した夏だったって。

 ちょうど仕事してなかったから、人手扱いで一ヶ月くらい居たんだそうだけどね。一度だって兄ちゃんは来なかった。


 幽霊なんだからさ、来ないのが当たり前ではあるんだけどね。でもまあ、何かをどうしようもなく損なったんだろうなってのは分かったって。

 家を、物を始末するってのはそういうことなんだと、納得したらしいけど。場がなくなったら拠り所もなくなる、そういうものだってのは先輩が付け足してくれた。たまに分かんないこと言い出すよなって思ったけど、黙って煙草貰った。でも感想言ったら足踏まれた。


 イマジナリー? だっけ。そういうのだって言ったらそれまでだけどね。そうするとあれかね、根性焼きの煙草も無意識でどっからか自分で調達してきたってことになるのか。それはそれで執念つうか妄執? みたいなやつが濃いんじゃないか。そこまで義理が立てられるんなら、妄想でも現実でもあんまり関係ない気がするけどね。そういうことをしたくなるくらいには深々としたところに関わった相手だってことじゃん。じゃあ虚実とか些細な問題だよ、きっと。それだけきちんと認識してるんなら、それで十分だろ。


 でも檜原さん、まだ覚えてるんだって。その人の表情も、煙草の匂いも、ふとした瞬間に思い出す。ひとつの火傷痕だけで、幽霊一人分を頭に焼き付けてるんだから……拠り所ってのも気の持ちようなのかもしれないな。極論すげえ真面目に話聞いてたら、それだけで全部忘れずにいられるかもしれない。そうまでして残したいものがあるのも善し悪しだと俺は思うけどね。重たいじゃん、そういうの。個人の趣味ではあるけどさ。


 そんで何、お前の方から先輩に会いたいってのは……いや、ちょっとどうだろうな。先輩なんか最近忙しそうでさ。話は週二くらいで持ってきてくれるんだけど、話んときぐらいしか顔合わせてない感じ。最近じゃ飯も一緒に行ってないな……いやたまにだけどさ。夜とか時間空いてるときに、飲みがてらね。従兄もたまに混ざってくるんだけど、そうするとすごいやり辛い。従兄と先輩はいいんだよあの人たち面識あるから。高校一緒とかなんだよな。そういうとこに一人だけ弱めの立場で入んの、結構神経使うのよ。年下ってさ、基本弱みになりがちだから。長生きしてる方が生き物としてはえらいもの。

 じゃあ、誰か話してくれそうなやついたら連絡しとくわ。たまにはね、他の人のも刺激になっていいと思うよ俺は。何のかって言われたらよく分かんないけど。

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