夜:久慈による考察あるいは妄想

 換気扇のスイッチを入れて、ライターの火を煙草に移す。立ち昇った紫煙はたちまちに回転する羽に絡め取られて消えていく。

 何もない、精々が読みかけの本を数ページ眺めたぐらいしか何かをした覚えのない土曜の夜。明日は授業も予定もない日曜だ。どうせこれから意味もなく夜更かしをして明日の昼過ぎに目を覚ましてぼんやり夕方まで過ごしてから無駄な一日だったと後悔するのは目に見えている。けれどもそれ以外の有意義な使い道というのも、俺にはあまり思いつかない。


 授業のある日は大学に行き、帰って生活と雑事を片付け夜をやり過ごしてからまた次の日でも同じことを繰り返す。休みの日には課題でもない限りはぼうっとしている。俺は──久慈亮とはそういう人間だ。

 怠惰なのは否定できない。不真面目かと言われると少し違う気もする。精々が積極性が著しく欠けているというくらいで説明がつくのかもしれない。

 決まり切ったイベントをこなして、平穏無事な日常を送る。学業も生活もタスクのひとつだ。

 そつなくこなしてさえいれば責められることもない、そこに趣味嗜好が入り込んだところで、精々が煙草の銘柄ぐらいだ。何事であれ、執着は少ない方がいいのだから。


 そうしてルーチンワークで埋め尽くされた日常に、最近新しい習慣が追加された。

 近場のコンビニ、冷蔵庫への嗜好品の補充を兼ねた金曜日の散財。そのついで、とまだ言い張れるであろう国島先輩との取引だ。


 煙草を一本支払って、妙な話を聞いている。

 他人に説明しても理解してもらえるかどうかが微妙な塩梅の事実だろう。売るほうもおかしいし、買うほうも間抜けだ。でもそれだけの関係が随分長持ちしているのも事実だ。破綻していない以上は、互いに不満はないということだろう。


 自分は元々無趣味な人間だ。好き嫌いもあまりない。毎日変わり映えのしない食事でも特に堪えたこともないし、それを退屈だと感じたこともない。


 そんな人間としては、先輩との喫煙所での奇妙な雑談を数少ない娯楽として受け入れているのが少々不思議ではある。

 先輩自身が数少ない関わって不愉快ではない人間だと認識しているせいもあるだろう。先輩がさして俺に興味を持っていないのも気楽に関われる理由だ。

 何かしら、こちらの預かり知らぬところで感情を持たれたり向けられたりするのは、およそ厄介ごとの種になりがちだ。高校の頃にちょっと成績が良かったせいで同級生から恨まれたときは色々あって転校生が出るくらいに揉めたし、委員会で付き合いのある先輩がいつの間にか自宅を把握していて日曜の早朝に県外に行こうと誘いをかけてきたこともあった。

 俺には彼らにそんな行動を起こさせてしまうような真似をした心当たりがないし、どういうきっかけでそこまでの感情を向けられていたのかも思い出せない。他人はおよそ面倒だ。何かを期待してくる人間ならば、尚更だろう。


 先輩は俺に煙草の取引相手以上の感情を持っていない。目的が明確で、それでいて浅くて曖昧な関係だ。だからこそ、俺に対して向けられる感情が少なくて済む。それが心地いいのだ。

 すべてを知りたいなどと、個人の領域に踏み込みたいと思っているわけではない。ただ興味のある話題を提供してくれている相手が何らかの問題に面していたら──本人の自覚がなかったにしてもだ──、それを気に掛ける程度の執着はある。身勝手な話だがそういうことだろう。


 数少ない娯楽だからこそ自分は執着している。最近の自分の動向を鑑みるにそう考えるのが妥当だろう。人間相手のやりとりである以上、厄介ごとになるかもしれないが、生活に楽しみがあるのは決して悪いことではないはずだ。


 だからこそ、供給元の不調について気に掛けるのは自然なことだろう。気遣いというには筋が悪い、こちらの身勝手な期待に起因する動機だ。比較対象が随分と大それてしまうが、好きな小説の続きが読めなくなるからという理由で作家の無事を願うのと同じだ。心配の主体は作品にある。


 先日の先輩の顔色は誘蛾灯のせいにしても異様なものだった。血の気の失せた、生気の抜けた弱り切った生き物の顔。何も知らなければ病人だと思うはずだ。そんな顔色をしているのに、口調も何も変わらない。煙草の煙は悠々と夜にとぐろを巻き、真っ白な指先をしていてなお、先輩自身も大ごとではないとの認識だった。

 一人暮らしの大学生が健康に気を使った生活ができるとは全く思わない。ただの体調不良──ことに最近の暑さは異常なほどだ──と考えることに不自然さはないだろう。そもそもが痩せぎすの生白いひ弱なありさまだ。夏バテくらいは起こして当然だろう。


 普通ならそれで十分なのだ。規則正しい生活をしろ、というだけで話は終わる。

 だが、もうひとつの馬鹿げた可能性をどうしても考えてしまう──売り手語り手という妄想じみた思い付きだ。


 非科学的だ。論理がないのは分かっている。中高生ならまだしも、いい年の大学生が思いつくような代物ではない。


 それでもどうしてか結びつけてしまう。それはそもそもの行為自体が奇妙だからという理由もあるだろう。先輩は何をさせられているのか。分かっているからこそ要素が影のように滲む。

 他人から妙な話を聞かされている。そうして話を聞く手間の代わりに煙草を受け取っている。行為についてはこの二つで説明が足りる。話を聞いて対価を受けとる、これも引き取り料だとすれば理解ができる。先輩自身はキャバクラで話を聞いてもらうのと同じだと例えていた。例えが俗だが、内容としては同じだろう。粗大ごみの始末にごみ処理代がかかるようなものだ。


 最近暇潰しと勉強を兼ねて眺めていた動画や本によれば、怪談というものは感染するのだそうだ。直接体験しておらずとも、その話を聞いたり同じ条件を整えたりすることで、部外者であるはずの読者は体験者と同じ位置に引きずり出される。

 受け取ることが聞くことによる感染だとしたら? それなら俺も条件は一緒だ。先輩から話を買い取っているのだから、俺も体調を崩すなりなんなりの効果が出ているはずだ。


 でも俺には何も起きてはいない。夜もよく眠れるし、この夏も風邪ひとつ引いた覚えがない。

 まだ何かが不足しているのだろうか。それとも向いていないのだろうか。予想ひとつまともに立てられない──そもそも俺は先輩について何も知らないのだから、情報がなければあらゆる予想は妄想でしかない。


 バイト先はリサイクル屋だという。それだってそこそこ胡散臭いし、本当のことを知っている保証もない。監視役のような従兄がいる。そいつの顔も俺は知らない。 先輩がどこに住んでいるのかさえ俺は知らないのだ。


 手元の煙草が燃え尽きていて、慌てて灰皿代わりの空缶に放り込む。続けざまにもう一本を取り出せば、箱の中身が寂しくなっているのに気づいて舌打ちした。


 ただの取引相手がそんなことを知る必要はない。その通りだ。大学が同じでサークルで僅かに面識がある。そんなのは幾らでも同じ条件のやつがいる。

 先輩だけにここまで執着している理由は何か。精々が楽しめるコンテンツの提供相手を失うのが嫌だというだけのことだろう。そのコンテンツの出所を気にする義理など、倫理以外では消費者──俺にはない。


 まだ聞き足りないのだ。それが今のところ、俺が出せる理屈で一番確かなものだ。

 夜、紫煙と共に漂い消える奇妙な話。あのひと時の楽しみは、残り香のように染みつき始めている。俺はまだ先輩から話を聞きたいのだ。


 ではどうするべきかというのを考えるべきだろう。消費者が取れる行動は少ない。商品についての問い合わせならば販売元にするべきだろうが、今回の場合は販売元はただの窓口だろう。先輩だって下手をすれば俺と同じくらいに状況を把握できていないはずだ。


 話の供給元、この状況を作ったもの──そこまで考えて浮かぶのは、夜目にも鮮やかなアロハの柄と冷ややかな笑みのよく似合う鷲田の顔だった。


 あの男、鷲田さん関係者に、先輩に会わなければならない。この状況を知るためにはそれが必要だ。

 気の進まない結論だが、何しろ当てが少なすぎる。先輩以外で、この怪談の取引に関係がある人間で俺が存在を知っているやつなど片手でも指が多過ぎるくらいだ。

 今度先輩に会ったときにでも遠回しに聞いてみよう、とタスクをひとつ頭に仕込む。理由を聞かれたら、以前話を聞かせてもらった縁でとでも言っておけば最低限の体裁は取り繕えるだろう。先輩のことだから、どうせ細かいことまで気にするとは思えない。


 幼稚な企みを胸に、俺は長々と煙を吐く。

 見慣れた煙は眼前に揺らめいてから排気口へと消えていった。

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