夜行コンビニ煙舌録

目々

金曜夜九時、コンビニ裏

「煙草一本くれよ。そしたら、面白い話してやるから」


 五月の重たい闇の中、やけに眩いコンビニの蛍光灯に目を細めながら国島くにしま先輩が手を差し出す。俺はその顔をまじまじと眺めて、とりあえず払い除けてから自分の煙草に火を点けた。


 俺の住む築十年の学生向けアパートから徒歩五分のコンビニ、その裏に設えられた喫煙所。

 週一、金曜日の夜九時を少し過ぎる頃、先輩は現れる。待ち合わせているわけでもないが、先輩と俺の都合が何となく合うというだけのことだ。


 大学が一緒、その上に何度かサークル活動──一年生の時に消去法的に選んで止めるきっかけも見い出せずにだらだら続けていた天文部──で見かけたことがあった。その程度の付き合いで、どうやら上級生らしいし喫煙者らしい、というぐらいのことしか知らなかった。

 初めて夜の喫煙所で会った時は向こうもどうやらそれに気づいていたようで、まじまじとこちらを見ながら煙草に火を点けられたときの居心地の悪さは鮮明に覚えている。

 なんでこんなところで吸ってるんですと聞き返せばバイト帰りなんだと返答があった。バイト先がこの周辺で、職場から自宅までの道中で一服するにはちょうどいい箇所にあるというのが先輩の言い分だった。


 バイト帰りという申告通り、先輩が現れる時間は几帳面なくらいに同じだった。顔を合わせたくないならそこを避ければいい話だ。俺は金曜の夜という明日に授業も私用もない最高の夜に散歩がてらコンビニでどうでもいい買い物をするのが習慣になっているだけで、多少時間が前後しようが何の問題もないのだから。


 それでも俺は時間をずらして先輩を回避しなかった。

 そんなことで悩むのが面倒だったのと、他人のために自分のやることを融通してやるのがなんとなく腹立たしかったからだ。


 幸い先輩は並んで煙草を吸っている分にはおおよそ無害な人物で、煙の合間に流れてくる雑談は、することもない金曜の夜の暇潰しとしては適切だった。たまにバイト先で貰ったらしい缶コーヒーやら知らないご当地菓子なんかのおこぼれを押し付けられるのも、そう悪くはなかった。


 そんな関係を続けていた矢先にこんなわけの分からないことを言い出したのだ。やはり春先は気が狂う人が多いのだな、でももう初夏の頃ではないか、だとしたら気づいてやれなかったのが悪かったのか──色んなことを考えながら、俺はとりあえず意図を問うことにした。


「どうしたんですか、金ないんですか?」

「あるよ。久慈くじはさあ、俺のことなんだと思ってんの。バイトしてんのに金ないったら俺ただのタコじゃん」


 先輩はいつものように雑に俺の名前を呼び捨ててから差し出していた手を引っ込めて、胸元から取り出した煙草をいつものように咥える。ライターのガスが切れかけているのか数度乾いた音を鳴らして、どことなしに憮然とした表情で煙を吐いた。


「言っとくけど今吸う分くらいはあんのよ。まあこれ終わったら帰りに店寄って買ってくけどさ、そんな残ってないから……」

「じゃあ何で後輩に煙草たかろうとしてんです。しかも一本単位で。みみっちい」


 言い返せば先輩は僅か首を傾げてから、一度間合いを取るように煙を吐いた。


「バイト先の人にさ、こないだ持ち掛けられたのよ。煙草一本やるからその間話聞いてくれみたいなやつ」

「バイトって先輩なにやってんですか」

「仕事内容としてはあれよ、古物取引つうか地元のリサイクルショップみたいな。俺はあれよ電話番? と運び役、みたいな。敬語喋れるし運転免許あるから」

「法に触れてるやつじゃないですよね」

「違う違う。こないだ運んだのあれよ、タンスとかだもん。ぼろっちいアパートでさ、絶対開けるなって言われたから梱包ぎっちぎちにしてさ」


 出てくる情報がひとつとして社会的な真っ当さを補強していない。

 俺の視線に気付いたのだろう。先輩は少しだけ黙ってから、


「一応さあ俺の従兄なんだよ紹介してくれたの。公務員だよ従兄。役所でこう、市民生活とかちゃんと書類仕事してるもの。だから大丈夫だってそんなの」


 大丈夫なんだよと確認するように呟いてから、先輩は盛大に煙を吐いた。


「でな、そこの社員さんとかが結構よくしてくれててさ。ちょいちょいお裾分けのお菓子とか夕飯奢ってもらったりとかしてたんだけどね。いつもみたく喫煙所で休憩してたら、たまに一緒になる先輩から頼まれてさ。煙草一本やるから、話をちょっと聞いてくれって」

「何ですかそれ」

「あれじゃない、自分の話に付き合わせるから迷惑料、みたいな。キャバだって話聞いてもらうために酒代出すじゃん。そんな感じでしょ」


 面白くないと話って聞いてもらえないじゃんと先輩は口の端を吊り上げてみせた。


「その理屈だと先輩が聞いた話、つまんないってことになりますけど」

「それがさ、結構面白かったから。だからお前に教えてやろうと思って」

「あんたそれ駄目でしょうよ」

「なんで」


 心底から不思議そうな問いが返ってきて、俺は一瞬怯んだ。


「その……守秘義務とか。又聞きっていうか、横流しは基本的に大体良くないでしょう、行儀が」

「あー、そういうんじゃないから。そういう感じのやつは話さないよ俺だって。当たり障りがないっていうか、ありそうなところもこう、個人の特定が不可能いい感じにぼかすようにしてるから」


 軽い口調でそれらしいことをのたまって、先輩は器用に俺の背後に視線をずらす。これは先輩が面倒なことを突っ込まれたときにする癖だ。

 これ以上問い詰めてもどうしようもないだろうと、俺は話を進める。


「じゃあ……その辺はいいですよ。何で先輩は俺から煙草毟ろうとしてるんです」


 その理屈──話を聞いてもらうために対価を払う──なら、先輩が俺に煙草なりなんなりを支払うべきだろう。先輩は何故か話をしてやるから代金を払えという要求をしている。主張の筋がずれている。

 先輩は意外なことを聞かれたとでも言いたげに目を見開き、


「だって俺人に煙草譲るとか嫌だもの」


 シンプルにろくでもない回答が返ってきて、俺は煙草を咥えたままその真っ直ぐな目を見つめた。蛍光灯の光が反射して煌めいているのが腹立たしい。


「だってさ、俺別にこれどうしてもお前に聞いて欲しいってわけじゃないもの。こういう面白い話持ってますよ、お代貰えりゃ話しますよ、っていう提案をしてるだけだからね。別にいいよ買ってくんないってんなら。無料版らしく何事もなかったように今日の俺の夕飯の話をするよ」

「その場合何を聞くことになるんですか、俺」

「塩おにぎり三つ」

「やめてください。ライターで焙りますよ」


 他人の侘しい夕飯事情を一服ついでに聞くのは結構な拷問だろう。それならまだ、他人の噂の又聞きの方が道義的にはともかく暇潰しとしては適切だ。

 そもそもこの状況で倫理において疚しさを抱いてしかるべきなのは取引を持ち掛けた先輩であって、その提案を蹴ろうが受けようが、俺には一切の落ち度はないはずだ。


「……煙草一本ってのはどうしてですか。値付けの根拠は何です」

「貰った話だから、じゃあ売るにしても同じ値段にしたほうがいいかなって。相場とか分かんないから、先達に習うよ俺は」


 先輩は咥え煙草のままこちらを見ている。

 興味がないわけではない。どうせ一服の間の暇潰しだ。不穏な話も噂話も退屈しのぎにはもってこいだろう。

 それでも良心の呵責がないわけではない。そこを無視しきれない程度には自分が善良で臆病なのを、俺は二十年ほどの平凡な生活において自覚している。

 こうして柄にもない躊躇をしているのは、先輩がもらった煙草は口止め料なのではないかという誰でも思い至るであろう疑念があるからだ。

 先輩に話を寄越した人間が、王様の耳がロバだということを知った床屋と同じだったとしたら。

 耐え難く堪え切れずに穴に吐き出された話を、穴自身が売りつけに来ているとはいえ関係のない第三者が盗み聞いても良いものなのか。

 躊躇する最中、先輩が煙を長く吐く。短くなった煙草を灰皿に押し付けて、


「俺お前にしか売んないから、お前が黙ってりゃ分かんないよ」


 そう言って目を細める。夜闇に黒い目が一層昏くなり、亀裂のようだった。


「……初回割引とかないんですか」


 先輩は笑顔のまま首を振る。

 俺は一度だけ儀式めいた溜息をついて、煙草を一本、その生白い掌に載せた。

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