第2話 母との思い出

 返事をして、俺は今度こそ帰路についた。

 帰り道、ふと辺りを見渡すと、すっかり日が落ちており街灯が輝き始めていた。


 夏風が吹くと汗が少し冷えて心地良い。

 花を落とした桜の木は青々と茂り、夏の到来を告げていた。

 この町は都会とは程遠いが、駅周辺はそれなりに栄えている。今ぐらいの時間になれば、仕事終わりの人間で賑わっていることだろう。


 だが、それも駅周辺だけの話。そこから一歩でも外に出れば、途端に閑静な住宅街が広がる。

 草木が生い茂り、車のエンジン音すら聞こえない、虫の合唱だけが鳴り響く正真正銘の田舎だ。


 そんな俺以外誰もいないような道を歩けば、いつの間にか家の前まで来ていた。玄関を開けると、俺は自分の部屋に向けて歩き出す。

 だが、階段を登ろうとしたところで後ろから声をかけられた。


「ただいまくらい言ったらどうだ」


 そこには白髪交じりの黒髪をオールバックにした初老の男が立っていた。

 俺の父親だ。

 父は画家であり、常に家にいる。ゆえに、顔を合わす機会も多いものの、話しかけてくることは少ない。それでも、寂しくなったのか、たまにこうして声をかけてくる。

 正直、あまり好きではないのだが……


「ただいま。父さん」


 一応挨拶だけはしておく。


「ああ、おかえり。飯はできてるぞ」


 そう言うと父は台所へ向かって行った。俺は自室に戻り、着替えてからリビングへ向かう。すると、テーブルの上にはオムライスが置かれていた。

 席につき、スプーンを手に取って食事を始める。

 黙々と食べる中、唐突に父が口を開いた。


「輝彦、おまえ、コンクールの題材は決まったのか?」

「まだだよ」

「そうか。まあ、焦らずゆっくりやればいい。一度描き始めたら変えられないからな」


 そして再び沈黙が訪れる。

 別に気まずいわけではない。普段からこんな感じだ。


「そういえば、明日は美春と星祭に行くから」

「ああ、そうか。楽しんでこいよ」


 それだけ言うと食器を片付け、父はテレビを見始めた。

 相変わらず絵以外無関心な男だ。


 俺も夕食を食べ終え、食器を洗った後、風呂に入り、歯磨きをして寝る準備をする。

 時計を確認すると時刻は既に11時を回っていた。そろそろ寝ようと思いベッドに入るも、なかなか眠れない。

 仕方なく起き上がり、机に向かう。引き出しからスケッチブックを取り出すと、真っさらのページを開きペンを握った。


「…………」


 しばらくして、自分の手元を見ると無意識のうちに母の似顔絵を描いていた。母は俺がまだ小さい頃に病気で亡くなった。

 その記憶はぼんやりとしているものの、生前、母がよく俺のことを褒めてくれたことだけはしっかり覚えている。


『輝彦はお父さんに似て絵の才能があるのね』


 そんなことを言ってくれた。

 だからだろうか。俺にとって絵を描くことは母との繋がりでもあった。


 眠れない夜はこうして絵を描くことで、母のことを思い出して安心感を得ている。

 そんな気持ちを表すようにいつも決まって母のことを描いてしまう。全く同じものではない。自分の記憶にある母との思い出をワンシーンごとに切り取って絵にしていくのだ。


「ふぅ……」


 いくらか時間が経ったところで眠気が襲ってきた。

 今日はここまでにしておこうと思い、ペンを置く。

 スケッチブックを閉じると部屋の電気を消して、布団の中で目を閉じた。


 ☆★☆


 次の日の朝、目覚ましの音で目が覚めた。

 セミダブルサイズのベッドは汗でグッショリと濡れている。

 窓の外では小鳥達が鳴いていた。

 朝だというのに外は暑そうだ。聞こえるはずのないチリチリという音が聞こえてくる。


 階段を降りると父が仏壇の前で手を合わせていた。当たり前だ。今日は七夕であり、母の命日でもあるのだから。俺が起きたことに気づいたのだろう。

 父はゆっくりと立ち上がるとこちらを見た。


「おはよう」

「……おはよ」


 短く返事をして、俺は顔を洗いに洗面所へ向かう。冷たい水で顔を洗うと幾分か眠気が覚める気がした。

 タオルで顔を拭き、鏡を見る。そこにはいつも通りの冴えない顔があった。

 俺の顔は父によく似ている。特に目元なんかそっくりだとよく言われる。自分ではよくわからないが、他人から見れば似ているらしい。

 正直嬉しくはない。


 身支度を整えて食卓につくも、既に父は食事を済ませていたようで、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。

 俺も席につき、トーストにバターを塗る。

 すると不意に、父が話しかけてきた。


「輝彦も出掛ける前に陽夏ひなつに手を合わせて行けよ」


 陽夏とは俺の母の名前である。夏は嫌いだが、唯一、母の名前にある夏の字だけは好きだった。


「言われなくてもわかってるよ」


 ぶっきらぼうに返すと、バターを塗っていた手を止めて、仏壇へと向かう。

 遺影の中では母がやわらかな笑みを浮かべていた。あと数年もすれば、俺も追いついてしまいそうな程に若い姿だ。


 仏壇の上に置かれている線香を取り火をつける。煙を嗅ぐと、どこか懐かしい匂いがした。

 静かに目を閉じ、そっと合掌する。それから、心の中で母に向かって語りかけた。


 ——母さん……俺は元気にやっています……。どうか、見守っていてください……。叶うなら、もう一度だけ会いたい——


 心の内で話し終えると、朝食を摂り終えた俺は出掛ける準備をする。

 そして、靴を履こうとしたところで後ろから声をかけられた。


「輝彦。おまえ金はあるのか」


 振り向くとそこには財布を持った父の姿が見えた。


「あるよ」


 俺はズボンのポケットから財布を取り出しその中身を確認する。画材は安くないが、絵を描くこと以外に趣味も無いのでそれなりに金は持っていた。


「そうか。足りなくなったら言えよ」


 そう言い残すと、父は仕事場に戻って行った。

 俺はその後ろ姿を眺めながら、玄関を開ける。外に出ると、空は灰色の絨毯で覆われていた。

 雨が降るかもしれないな。

 そんなことを考えながら歩き出す。


 父と一緒にいるのが嫌で、なんとなく家を出た。けれど、美春との待ち合わせの時間まではまだまだ余裕がある。

 暇潰しでもしようと思ったが、これと言って何も思い浮かばない。どうしたものか……。


 考えながら歩いていると、いつの間にか駅前まで来ていた。星祭の準備をしている人たちの姿があちこちに見受けられる。

 まだ開催まで時間があるというのに、浴衣を着た観光客や子供達が賑わいを見せていた。


「もう完全にお祭りムード一色だな」


 しかし、この空気は俺と相性が悪い。ここにとどまっていると、祭りが始まる前に人に酔ってしまいそうだ。そう考えた俺は、駅前の商店街を足早に通り抜ける。

 すると、いつの間にか神社のある山沿いの通りに出ていた。駅前とは違い、辺りは静かで、涼しい風が吹いている。

 その心地良さに思わずため息が出た。


「ふぅ……」


 神社へ続く階段に腰掛け、一休みしながら辺りを見渡す。

 蝉の鳴き声が響き渡り、夏本番を思わせる景色の中を風鈴の音色が彩る。視界の端でヒラヒラと揺れ動くのは、色とりどりの短冊だ。

 大木に覆われた山の中、石段の傍に並んだ笹は沢山の願い事をぶら下げて、夏風に優しく吹かれている。

 数多の願いが同じ方向に流れるその様は、まるでせせらぐ小川のようだ。


「あれぇ? こんなところに人がいる。珍しいこともあるもんだねぇ〜」

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