第2話
「先輩、卒業おめでとうございます」
棚橋は、二学年下の後輩だ。
数年前に俺を見送り、そしてまた今日、俺を見送る。
桜舞い散る校庭は、あの日と同じように薄く晴れて美しい。
「まさかまた、先輩を見送ることになるなんて」
はにかんで笑う棚橋は、あの日と同じように見えるが、あれから三年が過ぎている。
詰襟からブレザーに姿を変えて、相変わらず子犬のように俺を慕う棚橋を見下ろしていた。
「ほんと、まさか高校でもお前にまとわりつかれるなんてな」
苦笑した俺に、棚橋は少し困った顔で頬を掻いた。あの頃よりも少しだけ、大人びたのだろう。柔らかな表情にも今日の空のように、薄く刷いた翳りが覗いていた。
確かに、高校を卒業すれば、もう、会えなくなるだろう。生活は変わり、俺は町を出て、棚橋が追いかけてくることは、たぶん、叶わない。
少し寂しい気もするが、それでも、きっと制服を脱げばいつしか忘れてしまうに違いない。それは俺ばかりでなく、棚橋も同じだろう。
同じ制服に身を包む間は、同じ群れの生き物だ。だが、それぞれに好きなものを選び、好きな場所に行けるようになれば、おのずと、群れはばらけていく。実際、棚橋が俺を慕って寄ってくるのは校内だけで、休日はどこで何をしているのやら、だ。
一度そうぼやいた時、スタバでラテを飲んでいた佐伯は盛大にむせて、それからびっくりした顔で笑った。
「お前、それは嫉妬だろ」
可笑しそうに俺を揶揄う佐伯の視線は、どこか憐れむような羨むような、そしてそこはかとなく母のような慈愛に満ちていた。彼女持ちのやつに何が分るというのだ。
棚橋が終始まとわりつく俺は、ついに彼女が出来なかった。いや、正確に言えば、できてもすぐにフラれてしまうのだ。だって、学校にいる限り、棚橋はどこからともなくやってくる。彼女と二人で弁当を広げていても、昼休みに屋上で語らっていても、放課後に教室で他愛なくじゃれ合っていても。
まるで「かまって、かまって!」と突進してくる子犬のごとき無邪気さで、棚橋は俺の目の前に転がり出て、それから辺りを見回して、バツの悪い顔をして去っていこうとする。
そのしゅんとした背中は、引き留めずにはいられない哀愁が漂い、俺が取り繕ったり彼女が話題を探したり、挙句の果てにはたまたまその場にいたクラスメイトに菓子を与えられたりするのだ。
しおれていた棚橋のしっぽが持ち上がる頃には、彼女はすっかり棚橋を気に入るのだが、それが毎日、毎週、毎月続き、季節が移り替わる前に、彼女の気持ちも移り変わっていく。
「あの子と私と、どっちが大事なの」
自分だって棚橋を構っていたくせに、涙目でそう訴えられた時には、唖然とした。狼狽えてしきりに謝る棚橋を追い返すことも出来ず、俺は幾人、彼女の怒れる背中を見送っただろう。
「もう付き合っちゃえよ」
冗談半分、呆れ半分を本気で包み込んで、佐伯からそう言われたが、俺が頷くことはなかった。棚橋は、俺を追いかけ懐いてはいたが、一度も、好きだと言われたことはなかったからだ。
意気地なしだとわかっている。それでも、俺は、どうしても言えなかった。
「先輩?」
不安げな声に我に返ると、棚橋が上目に俺を覗き込んでいる。
「ああ、ごめん、ちょっと感傷に浸ってた」
「もう卒業ですもんね」
後ろ手に手を組んで、ひっそりと棚橋が微笑む。柔らかな頬は桜の色を映して、ほんのりと染まっている。
「淋しく、なるなあ」
ぽつりと言葉は落ちて、足元に降り積もった桜を乱した。
「いやです、先輩がいなくなるなんて」
そっと伸ばされた指が、ひらりと俺の指を攫っていく。
棚橋の白く華奢な指先が、武骨な俺の指先をひんやりと包む。
「先輩」
ふ、と棚橋の目から、唇から、微笑が消えた。
まっすぐに、空の青を宿した目が俺を見据える。
「先輩、あのね」
ああ、俺はやっぱり、この景色を、いつか見ている。
ざあ、っと風が舞い上がり、俺と棚橋を薄紅の闇が次第に覆っていく。
「もう二度と、帰らないでください」
花びらの奥に紛れて、棚橋の顔はよく見えない。でも、泣いているような声が、胸の中にも降りしきる花弁を散らしていく。
ああ、俺は幾度、この光景を見ているのか。
棚橋とは、どこで、会ったんだっけ。
生れ落ちた疑問は、はらはらと舞い散る桜に翻弄されて、一向にひとところに落ち着かない。
このまま、また、この光景を繰り返すのか。
桜の花の咲くころに、別れゆく、この日を。
薄紅の花びらの向こうに、何かが過っていく。
目を凝らせばそれは、過ぎていった日々だ。
学校の廊下、教室、クラスメイト、春夏秋冬、楽しかった日々、思い返しているのか、巻き戻されていくのか、眩暈のように景色が流れて移り行く。滔々と過ぎる過去に未来に、思い出の端々に現れるのは、棚橋と、もうひとり。
いつも一緒にいるあの同級生。佐伯とは、中学も高校も一緒だっただろうか。
いや、あの日々は、卒業の記憶は、いつのものだ。
中高一貫でもないのに、同じ学校に進学した同級生などいただろうか。
あいつは誰だ。
思い出そうとするたび、仲が良かったはずの佐伯の顔は桜吹雪にまみれて判然としない。
なぜ、こんなに、俺の記憶は混沌としているのか。
伸ばした手を掴もうと、棚橋が腕を差し伸べる。
それを破って。
「もう、卒業だな」
佐伯が笑っていた。
棚橋が、眼を見開いて後ずさる。
咄嗟に引っ込めた手を、胸の前で守るように抱いて、怯えたまなざしで、佐伯を見ている。
心の底から驚いた顔をしているのが、はっきりとわかった。
そして俺は初めて、佐伯と棚橋が同じ空間にいるのを見た。
そうだ、いつも、二人はばらばらに俺のところにやってきた。決して顔を合わさなかった。佐伯は棚橋を知っていたようだってけど、棚橋が、佐伯のことを話題に出したことはない。いや、そもそも、棚橋が他の誰かのことを、具体的に俺に話したことがあっただろうか。
「おめでとう」
佐伯が、目の前で笑う。少し翳りのある顔で。
佐伯が、棚橋の方を向く。うっすらと柔らかく、唇が何か呟いた。棚橋が目を瞬く。
その驚いた表情に、俺は確信する。棚橋は、初めて、意思のある誰かとまみえたのかもしれない。いつだって楽しそうにはしゃぐ一団に紛れてはいたが、一対一で誰かと歩いているのを、俺は見たことがなかった。友達が多いのだと、そう思っていた。でも、棚橋には本当は、俺以外に一人も友達などいなかったに違いない。いつも誰かの影のように、近くに揺蕩うだけ。まるで散り落ちる桜みたいに。
棚橋が、ぎこちなく視線を移す。その先に、俺と佐伯の手に握られた卒業証書がある。黒い合皮の筒に入って、赤いリボンが巻かれた、卒業の証。棚橋の手には、それがない。
この学校から出て行けるのは、俺と佐伯の、二人だけ。棚橋はまだここから出られずに、学校に残るよりほかないのだ。
「ああ、そうか。俺はもう、行かなくちゃならないんだ」
佐伯がこくりと、頷いた。
ぎゅっと、棚橋が胸の前で手を握りしめる。祈るように、叫びを飲み下すように。
「先輩、あのね」
哀しい声が、耳を打つ。
その先を、俺は聞きたくはなかった。聞かなくちゃならなかった。
学校の中にしか、存在しない存在。棚橋は、繰り返す学校の日々の中に落ちている、影のようなもの。
「あのね」
幾度も言いよどむうちに、棚橋のまぶたが、桜色に染め上げられていく。
「先輩」
降り積もった学生たちの楽しい気持ちが集った影。生徒たちが忘れていく、無邪気さの塊。
「……先輩」
透明な雫が沸き上がり、棚橋の長い睫毛を飾っていく。
「もう、さよならしなきゃ、そう言おうと思った。でも、言えなかった」
先輩、あのね、の言葉の続き。負の存在ではなかったはずの棚橋は、その無邪気さゆえに、握った手を離せなかったのだ。
「先輩」
泣き笑いの上場で、棚橋が顔を上げた。
透明な雫は青空と桜を映して、柔らかな頬を滑り落ちていった。
「じゃあね」
さよならでもなく、また明日でもなく、きっぱりとそう言って、棚橋は笑った。
胸が苦しくなるほど美しい桜の花びらが、青空に舞い上がる。
「棚橋」
すうっと、俺の頬を伝っていくのは、花弁か涙か。
「じゃあね、先輩」
くるりと、棚橋が踵を返す。
佐伯が俺の手を引いて、歩き始める。
校門をくぐり、俺は後ろを振り返った。
視界いっぱいに散りゆく桜の中で、棚橋は、笑って手を振っていた。
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