桜の花の咲く頃に
中村ハル
第1話
はらはらと、桜が降っている。
空は青く、少し雲がかかっていて、綺麗だった。
舞い落ちる薄紅色の花弁を見上げて、俺は大きく息を吸い込む。新しい旅立ちの日。
「先輩!」
元気な声が背中にぶつかり、俺は振り返る。
子犬のような笑顔で駆け寄ってくるのは、後輩の棚橋だ。花束を持った手を軽く振ると、笑顔がもっと大きくなって、前傾になって走ってきた。何をそんなに急ぐことがあるのか。
ボールを前にした犬みたいなはしゃぎように苦笑を漏らしつつ、ゆっくりと棚橋に向き直る。突っ込むようにして眼前で止まった小柄な後輩は、満面の笑みで俺を見上げて「先輩!」と春よりも明るい声を出した。
「なんだよ」
「卒業、おめでとうございます」
「おう、ありがとな」
卒業証書の入った筒を振ってみせると、きょとんと大きな目がそれを追う。零れんばかりの笑みは、まるで棚橋が晴れの舞台の主役の様だった。
はらりはらりと舞い落ちる桜が、棚橋の髪に留まる。それを指で摘まんでやると、何が嬉しいのかにっこりと笑った。
きっかけが何だったのかは思い出せない。棚橋は二つ下の後輩で、いつも俺にまとわりついては、きゃらきゃらと転げまわっていた。登校時、校門をくぐるとどこからともなく俺を見つけて、下駄箱まで付いてくる。昼休みは弁当が空になる頃、必ず教室の入り口に俺を呼びに来た。放課後も部活の有無にかかわらず鞄を抱えて隣に並び、いつしか教室の誰よりも棚橋と一緒にいるようになった。
学年が違うのに、不思議と話がよく合ったのだ。とはいえ、共通の趣味があるとか、部活が一緒だとか、そういうわけでもない。ただただ、くだらない話でいつまでも時間が潰せた。
そんな棚橋だが、さすがに、休みの日まではまとわりついては来なかった。同じクラスの佐伯は、それを却って不思議がっていたが、棚橋にだって友達くらいいるだろう。実際、廊下や校庭で、棚橋が同学年の生徒たちと楽しげに笑っているのをよく見かけた。その度に、微笑ましくも若干、胸の内がもやっとしたものだ。
その横顔を佐伯につつかれて、嫉妬だといわれた時にははっとした。まさかそんなと笑ったものの、今こうして、春のように笑う棚橋を目の前にすると、あながちそれが的外れだとも言い切れない。
ひらり、舞い落ちた花びらに、ほんの少し、胸が疼いた。
「もう、これで、お別れですね。寂しいな」
爪先に視線を落として、棚橋がぽつりと言う。零れ落ちた言葉は、砂埃と共に桜吹雪に舞い上げられて、校庭の隅に転がっていく。俯いた唇は、薄く桜に色づいて、はかなげに微笑んだままだ。
ぎゅっと、胸の底にある塊が、小さく呻いだ。
「そうだな、淋しいな。煩いお前に会えなくなって」
「あ、先輩、ひどい」
いしし、と棚橋が笑う。くしゃりと歪んだ顔には、一瞬の寂しさと、俺を真っ直ぐに見返す澄み切ったまなざしがある。
「先輩に、言おうと思ってたことがあるんです」
ふと真面目な顔で見上げた瞳は、空を映して薄っすらと青に染まっている。はらりと降り落ちる桜が目の前を掠って、この光景をどこかで見たと、ぼんやりと思った。
「何?」
躊躇ったように、棚橋の唇が柔らかく開いて、また閉じた。指先が、制服の裾をぎゅっと握りしめるのが目に映る。棚橋がこんなに緊張するなんて、珍しい。
言いよどむ唇が、視線が、幾度も俺と桜と靴先をさまよい、それから口をキュッと引き結ぶと、棚橋は背筋をしゃんと立てた。
「先輩、あのね」
ざあっと、桜吹雪が、二人を隔てて舞い上がった。
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