エンプーサの園

雨の粥

エンプーサの園

 「水鳥」という珍しい名前を持つ親友と出会ったのは、中学校の入学式の日のことだった。

 席が近かったわけでもない。

 気高く近寄りがたい、独特のオーラに惹かれ私の方から話しかけにいった。

 第一声は「水鳥みずどりちゃんって呼んで良い?」だった。

 水鳥は呆気に取られたようすだったが、すぐにフッと笑って「いいよ」と答えた。

 後に続けて、私は「ちか」という自分の名前の読み当てクイズを試みた。

 だけど、新入生用の大きな名札にはご丁寧にふりがなが振られていたので、一瞬で撃沈した。

 皆に可愛がられたい私と、取っつきにくい水鳥。成績は私の方が上位だったが、勉強は水鳥の方がよくできた。水鳥の成績が下がるのは授業をサボりがちなせいだった。

 担任教師は水鳥が学校に来るように、私に説得させたがっているところがあったけれど、私はのらりくらりかわしていた。水鳥が学校に来なくなった本当の理由は分からない。だが、水鳥の周りでもおかしなことが起こっているのは間違いなかった。

 プールのビニールバッグを持っていたから、夏のことだ。放課後、二人で川に遊びに行ったことがあった。二人で行きたい場所を出し合った結果、川原の怪談巡りをすることになった。

 巡り、と言いつつ一つしかなかったのだけど。

 なんでも、ビニール傘のような。

 クラゲのような。

 気球のような。

 変な表現だけれど、半透明の物体のお化け(?)が茂みの上に浮かんでいると、もっぱらのうわさだった。

 ボールを投げると当たるけれど、手で触れることはできないとか、なんとか。好奇心をくすぐられるような尾ひれがたくさん付いていた。

 紙飛行機はどうだろう、なんて話しながらうわさの場所に向かった。

 だけど、実際にその場に行って私たちが見たものは、折れたビニール傘と、スーパーの袋だけだった。

「特に何にもないね」

「……うん」

「クラゲの死骸は探せばあるのかもしれないね」

 水鳥が私を気遣うように優しく言った。私たちは笑い合った。それからどちらからともなく嬌声を上げて駆け出した。

 その日からは、たあいのないうわさ話に興味を引かれては二人で足を運んだ。

 近所にある喫茶店が怪しいらしいという話を持ってきたのは水鳥だった。水鳥の顔は真剣だった。

 季節は秋になっていた。

 開いてるんだか閉まってるんだか、よく分からない。妙に広い店内にはいつも誰もいない。

 水鳥はすでに何度か足を運んでいるようすだった。

「気をつけた方が良いよ、慈。あそこはヤバい。近寄らない方が良い」

 水鳥は言った。

 あれは何の話だったのか。

「気をつけながら近寄るのは?」

 私が混ぜ返すと水鳥は笑った。

 水鳥の細く長い指の先が、私の額に触れた。

「それじゃ足りない。よく考えて。あたしたち人間じゃ手に負えないことって、ある」

 ニンゲン?

 人間じゃ、ないのかな。けど、だとしたら何?

 自分たちを取り巻くすべてが分からないことだらけだ。と、私は思った。

(何と戦ってるの、水鳥)





 その日は午後から授業がなかった。

 朝から街の上空は真っ黒な雲に覆われ、時どき雷鳴が響いていた。気温は平年よりもずっと低い。寒いね、という言葉があいさつ代わりだった。私はお気に入りのパーカーを羽織っていた。おかげで身を切るような寒さとは無縁でいられた。

 私は帰り道とは反対方向のバスに乗っていた。

 大して意味があったわけではない。たまたま放課後の約束がない日だったのだ。ちょっとした暇つぶしのつもりだった。

 遠回りをすればいい。できるだけ長く、長く。

 私は常々そう考えていた。歩いている間は、少なくともどこへもたどり着くことがない。

 バスに乗っている間は雨がすごかった。

 バスの窓ガラス越しに眺める歩行者たちは青い影のお化けのようだった。時どき追い抜いていく赤いテールランプは人魂だ。私はそう思いながら景色を眺めてみることにした。

 すると見慣れた市街地はたちまち姿を変えた。

 今や窓の外は百鬼夜行の様相を呈していた。

 それともうっかり黄泉に向かうバスに乗り込んだのだろうか。

 だが、結末は思ったより早くやって来た。

 期待していたよりもずっと、終点のバスターミナルが近くだったのだ。気まぐれで始めた冒険はあっけなく終わってしまった。

(まだまだ、足りない)

 そう思った私は当てもなく歩き出した。

 川を渡るとちょうど雨雲の境目に当たったことも都合がよかった。

 そのまま遠くへ遠くへ、どこまでも続いている気がして貨物線沿いの金属のフェンスに沿って歩き続けた。

 煩わしい信号もなければ、無遠慮な好奇の目もなかった。

 イヤホンを付けていつまでも歩いていられた。

 何気なく考えていたのは水鳥のことだった。

 水鳥が学校に来ることがなくなってからも、二人の交流は続いていた。

 ある時期を境に、水鳥は妙なこだわりを持つようになった。

 なぜか絶対に鏡に映りたがらないのだった。いつも注意深く避けている様子で、透明の窓ガラスにさえ近寄ろうとしなかった。

 私はそのことに気がついていたが、なんとなく触れてはいけない気がして、あえて理由を訊ねないでいた。

 相談に乗るべきだろうか。何度そう考えたことか。だが、水鳥のようすを見ていると、私を巻き込むまいとしているようなところがあり、話を切り出すタイミングを計りかねていた。

 近寄るな、と彼女が警告していた場所。

 あそこにすべての鍵がある気がしてならなかった。





 雨に追いつかれてしまったせいだ。

 あともう少し天気が持ってくれたなら、準備もなしにあんな危険な場所に足を踏み入れたりせずに済んだだろう。

 強まってきた雨に追い立てられるようにして、私は軒下に入った。

 薄汚れたガラス越しに中を見通すことができた。

 大きなスタンドミラーと布張りの間仕切りが並ぶ店内は、街の片隅にある昔の美容院を思わせた。

 明るい照明には漠然とした安堵さえ覚えた。

 入り口の看板には「月世界げつせかい」と書かれていた。

 その名前を見てピンときた。ここがそうだ。水鳥が近づくなと警告していた場所。せっかく近くまで来たのだから問題の場所を一目見ていこう。

 湿気を含んでしっとりしてしまったたパーカーが程良く乾くまで、ココアでも飲んでいよう。それともマキアートにしようか。鹿柄のパーカーを脱いで椅子に掛けた。飲み物が届くまでの間、どこを見るでもなく視線をさまよわせておいた。目に留まったのは少し離れた席の肘掛け椅子だった。

 先ほどバスの窓越しに夢想したような青い影が座っていた。

(……………………?)

 明らかにあり得ベからざるものを見ているのに「あまり見つめていると悪い」なんて思ったのは、私があれを人間だと認識していたからだろうか。

 それは濃い霧のようだった。全体にまだらではあるが、一定の濃度を保っているので背景が透けて見えはしない。

 霧のような存在が、霧のようなカップを持って口に付けていた。

 あれはたぶんああいう人なのだろうと私は判断した。すぐに視線を逸らし、手鏡を見て前髪を直したり靴下のずれを直したりし始めた。

 いや違う。やっぱりおかしい。

 人間のはずがないじゃないか。

 思い直して二度見した時には消えていた。それこそ霧が晴れるように。

 私はこの時初めて、この店に入ったのはまずかったかな、と思い始めた。金属の骨組みに、ドレープを作ったベージュの布を張っただけの簡素なパーテーションが、突然とてつもなく不気味なものに見えてきた。

(見えないところにも何かいたら、いやだな)

 私は席を立って店内を一周してくることにした。私って怖がりなのにたまに大胆だよね。気をつけてね。呆れながらいつも見守ってくれる水鳥のことを思い出した。

 彼女ならこういうとき下手に動かない。

 だが、私は何が起こっているのか確認せずにいられない。

 店の奥にはトイレの案内板があった。簡略化された男性・女性のイラストと矢印が書かれた、どこにでもある工業製品だ。普通のものが普通に置かれているようすを見て、私はいくらか安心した。

 それでも少しは怖いので、水鳥のことを思い出しながら歩いた。

 こんな時、彼女ならどうするか。

(水鳥なら、他のお客さんを探すかな。私なら怖いもの見ちゃいそうだからパスするけど)

 そして水鳥が代わりに行ってきてくれる。だが、いざ人がいた場合は、無愛想な水鳥ではうまく話をすることができない。今度は私にバトンタッチすることになるので、おあいこだ。

 いつもは冷静な水鳥が急にしどろもどろになって、アイコンタクトで私に助けを求めるところを想像した。

(可愛い!)

 私は思わず吹き出した。

 そのままの勢いでそーっ、と通路をのぞき込んで、いくつかのテーブルを確認する。少なくとも近くのテーブルはどれも無人なようだった。

 隠れているテーブルには人がいるのかもしれないが、ぐるっと回って確認するほどの勇気は出せなかった。

 深呼吸をしてから扉を開け、奥の部屋に入った。

「わざわざぐるっと回るとかさすがに無理。怖すぎでしょ。水鳥が行ってきてよ……」

 私は独り言を言いながら飾り気のない廊下を歩いた。

 建物の奥まったところに位置しているのか、全く何の音も聞こえない。

 不気味な静寂が漂っていた。

 大した距離を進んだわけでもないのだが、この廊下がずっと続いているのではという不安をかき立てられてしまった。一旦怖い想像をしてしまうともう前には進めなくなってしまった。

 そうだ。こんな時は……。

「こういう時ってさ、そこのドアから誰か飛び出して来る前に逃げようとか考えちゃわない?」

 私は水鳥の口ぶりを真似して勇気を振り絞ろうとした。

 だが、予想していたよりも数段階いじわるな水鳥が出てきてしまった!

「そこ、私語厳禁だし!」

 結果、訳の分からない独り芝居を演じることとなり、失敗に終わった。

(……水鳥がわるい!)

 ぷんぷん。

 怒りとなけなしの勇気を目一杯ふりしぼり、元の扉までしぶしぶ歩いた。

 席に戻ろうとして、私は困ってしまった。

 さっきまで座っていた席が見つけられないのだ。同じパーテーションと同じ姿見が、全くと言って良いほど同じ配置で並んでいるのだから、これではまるで迷路のようだ。

 ここに来るまで何回曲がったか。記憶をたどろうとしたが、すぐにあきらめた。パーテーションで仕切られた空間は、それぞれがおよそ六角形のような形をしている。曲がったというより、道なりに真っ直ぐ歩いてきたというのに近い。

 胸に広がってきたのは不安よりも荷物の心配だった。学校のカバンとお気に入りのパーカーを置いてきていた。

 明るいブラウンで背中に子鹿のような白い斑点模様が付いたパーカーだった。

 同じ柄のパーカーはもう何着目だろうか。

 かけがえのない一点ものというわけではないのだが、鹿柄は小さい頃からいつも一番のお気に入りだった。常に洗い替えまで用意してあり、私のアイデンティティーの一部のようなものだった。

 幼なじみは皆、私をバンビちゃんと呼ぶ。

 中学生になって、その呼び名だけはさすがに少し恥ずかしくなってきたが、子鹿模様は相変わらず私のトレードマークだ。





「何か探し物?」

 声を掛けてきた女は濃いブルーの肌をしていた。片足だけが鈍い銀色に輝いており、歩くと鈍器で床を打つような音がした。義足だろうかとも思ったが、青い肌との間には継ぎ目がない。服は一切身に着けていなかった。躰の一部は灰色の体毛で覆われていた。

 私の視線は女の瞳に吸い込まれていくようだった。

 ちょっと変わった雰囲気のお姉さんだと私は思った。

 私は荷物を探しているのだと言った。

「あら、カアイソウねぇ。自分の持ち物を見つけられないのね」

 一緒に探してあげましょう、と言われ私はお姉さんの手を取っていた。

 自分からだったか、お姉さんが手をつなぐよう促したのか。気がつくと子どものように手をつないでいたのだ。

 お姉さんは背がとても高かったので、私はほんとうに小さい子どものように見えた。

 手をつないだままでさっきカバンを置いた席を探した。簡単には見つからなかった。ついたてで仕切られた狭い客席がどこまでも続いていた。

 さっきまでこんなに広かったかな、と不思議に思った。まさかほんとうに小さくなってしまったのだろうか。まるで果てがない。大通りに面した窓はどこにあるのだろう。

 疲れたでしょう。お姉さんは言い、椅子に腰掛けて私を膝に寝かせた。そのまま髪を指できながら暗いメロディーの子守歌を歌った。耳を傾けていると私の中で何かがぷつんと切れてしまうのが分かった。

 家に帰りたくないよお。

 知らず知らず、私は大きな声で泣いていた。お姉さんはワタシはここで暮らしているの、あなたもここに住みなさいと言った。私は壊れたように首を縦に振りながら泣き続けた。





 お姉さんは大きなノートを持っていた。

 パンとチョークを使って不思議な絵を描くのがとても上手だった。

 たとえば、紙の上に浮いているとしか思えない小さな動物。ほんとうに手で触れられそうだった。だって足をバタバタさせているのに、それでも絵なのだからすごいなと思った。





 お姉さんは首がとても長かった。

 四つ足で歩いていた頃の名残なのだと言って笑っていた。

 お姉さんが笑うと私は赤くなった。

 お姉さんはとても眩しかった。





 夢を見た。

 カアイソウな私の新しい家になった喫茶店「月世界」にたくさんある鏡。その一つを私は覗き込んだ。

 すると鏡の向こうに、なんと水鳥がいた。

 床には赤い絨毯が敷かれ、天井にはシャンデリアが吊られていた。劇場だろうか。私に気がつくと、水鳥は走ってきて鏡を叩いた。

「慈! 慈! 駄目、そこから出て。そこはおかしい! 魅入られないで」

 夢の中で私は驚いて小さな悲鳴を上げた。





 囚われてから幾月になるだろう。

 子どもは独りだった。

 かくれんぼをしていて迷い込んだ扉の向こうは思いの外、広かった。

 ここなら誰にも見つからないだろうと思った。

 もっとも、誰も探しに来るはずがなかった。

 なぜなら子どもは一人でかくれんぼをしていたのだ。

 そのまま気が済むまで隠れて、暗くなったら家に帰るだけのはずだった。

 子どもを見つけたのは青くグニャグニャしたモノだった。

 それは腕を伸ばして子どもを抱こうとした。

 だが、子どもは触れられるのが厭だった。

 するりと身を躱して逃げた。

 青く不吉なもやの塊は子どもが欲しかったので、探し回った。

 子どもは隠れるのが得意だったのでなかなか見つからなかった。

 長い通路を通り抜けて、子どもは部屋の端っこまでやって来た。窓の外の景色を見て、彼は息を飲んだ。

 街の真ん中にいたはずなのに……。

 窓の向こうには霧深い森が広がっていた。

 山羊の頭をした奇妙な人影が見えた。

 グニャグニャした靄よりはあの人たちに助けを求めようと思った。きっとお祭りの仮装をしているのだろう。薪を囲んで踊っている人たちもいたからだ。

 あの怖いお面を取れば良いのになと思った。

 チャンスはなかなか訪れず、長い月日が流れた。手に取れるものは何でも口に入れた。水はタイルの割れ目から漏れていることがあった。隠れるために躰を曲げすぎたせいで、すっかり姿勢が悪くなってしまった。

 青い靄は相変わらず彼を捜し回っていた。

 目が慣れてきたのか、青い靄が四つ足の獣の姿をしていることが分かってきた。それはヒトの顔を持つ獣で、あさましい格好であちこちを嗅ぎ回っていた。

 彼はゾッとした。

 だが、彼はすっかりどこにでも隠れられる躰になっていたので、簡単には見つからなかった。

 どんなに狭い隙間にも入り込むことができた。

 そのまま外にだって出られるんじゃないかと思ってやってみたこともあった。だが、どんなに小さい壁のひび割れさえも外へは通じていなかった。たとえば天井の裏にある通気口の隙間。覗き込むとその向こうに広がっているのは森の木立ではなく、吸い込まれそうな深い闇だった。

 自分はこの奇妙な空間に囚われてしまったのだと知った。

 獣は不思議な幻術で団らんを演じてみせることもあった。

「坊やは遅いわね。もう夕飯もできあがったっていうのに」

 色とりどりの料理をテーブルに並べながら若い夫婦が言う。

「なぁに。今に帰って来るさ。今夜はあの子の好きなものばかり揃っているんだ。だってあの子の誕生日なんだから」

 テーブルに並んだ料理からは、湯気とともにおいしそうな匂いが漂っている。若い夫婦は肩を抱き合いながら歌を歌っている。

 彼は鼻白んだ様子でその光景を眺めていた。

 顔の形こそ同じだったが、若い夫婦は彼の両親からはほど遠かったからだ。食べたこともない、知識でしかしらないようなごちそうには食欲も湧かなかった。

 しばらくすると獣はかんしゃくを起こしてテーブルをめちゃくちゃに破壊してしまうのだった。

 彼と獣の追いかけっこは膠着状態に陥っていた。

 しかし、この危うい均衡を崩す出来事がとうとう起ころうとしていた。

 初めは機嫌の悪そうな少女だった。ある日、乱暴に扉を開けてやって来た。よほど機嫌が悪いのか、鏡に向かってわめいていた。

 獣は少女ににじり寄っていった。

 そのまま獣が少女を捕まえるかと思われたが、少女は最後によりいっそう大きな声で何かを叫ぶとそのまま飛び出していってしまった。

 次に現れたのは鹿の模様の服を着た少女だった。

 少女は建物の奥まで入ってきた。獣は少女に付いていった。

 チャンスだと思った。

 少女には悪いが自分ももう限界を超えているのだ。

 長い年月のうちに姿が歪んでしまった彼は、すっかり異形の幽鬼と成り果てていた。

 幽鬼は少女のパーカーを羽織った。

 フードをかぶるとかつてヒトだった頃の面影が偲ばれた。

 生者には理解しがたい幽界の理屈を、幽鬼となったかつての子どもは理解しているのだろう。死者にしか見つけられない通り道を使い、彼は外へ出た。

 向かった先は牧神という名の欲望の化身たちが集う、幽界の森だった……。





 お姉さんの口惜しそうな叫びで目が覚めた。

 私は寝室の窓から外を見た。あっ、と声に出して叫んでしまった。私のお気に入りのパーカーが森の奥へと逃げていく。

 何か見えたのかとお姉さんが怪しんだ。

 変な人影が走っていったから驚いたのだと私は答えた。なぜだか理由は分からない。なんとなくパーカーのことはお姉さんに隠してしまった。そんなふうに私が誤魔化しをすることをお姉さんはひどく嫌っていた。

 なのになぜ、隠し事をしてしまったのだろう?

 お姉さんの醜い咆哮に不穏なものを感じたのだろうか?

「どこから来たのかしらね。あの子どもは」

 あの子ども?

 お姉さんは努めて穏やかな声音を使っているように思えた。私は今日二度目の不信感のようなものを覚えた。

(お姉さん? 一体どうしたの?)

 お姉さんは細い指先で私の髪を梳いて、そろりと口づけた。私はされるがままになっていた。薄い唇を離して、お姉さんは言った。

「しばらく留守にするわ。あの子を探さないと。森にはサテュロスがいて危険なの」

 私は無関心を装いながら頷いた。

 サテュロスというのは子どもを捕まえて食べてしまう怪物だと、以前、お姉さんから聞かされたことがあった。外の森にはサテュロスの巣があって危ないから出てはいけない、とも。

「分かった。気をつけてね、お姉さん」

「愛してるわ」

「私もよ、お姉さん」

 私は一人になった。

 とても久しぶりだった。もうどれぐらいお姉さんと一緒にいるだろう。外の世界。昔、長い過ごしていた場所に対する懐かしさのようなものはあまり感じなかった。

 親友だった水鳥のことも。

 たまに見る同じ悪夢に出てくる彼女のことを、最近では疎ましく思うようになっていた。

 頻繁にではなかったが、忘れた頃に例の夢を見た。

 ぐっしょり汗をかいて叫びながら目を覚ますと、お姉さんに抱かれながら、疲れ果てて再び眠ってしまうまで泣いた。

 一人になると、「月世界」の店内にある大きな姿見がとても不気味なものに思えてきた。私は寝室がある住居スペースを出て、長い廊下を進んだ。

 怖いと思ってしまったものは、大丈夫だということを確認しないと、かえって落ち着かない。何も問題がないと分かれば安心できる。

 だが、私は道に迷ってしまった。

 いつだったか初めて訪れた時に、何かが出てきそうだと恐れたあの廊下。よりによってそんな場所で。

 革張りの長椅子にしがみついて私は震えた。

 今、何か物音がしたら私の心臓は口から飛び出してしまうと思った。そのまま床に落ちて、腐って、朽ち果てて。そうやって私は一人、寂しく死んでゆくのだ。

 そう思うと恐ろしくて涙も出なかった。ただただ、胸ががらんどうになって荒涼とした風が吹いていた。

 どれぐらいの時間、そうやってうずくまっていただろう。

 カチャリ。

 ドアノブが回る音がした。

 その音は思っていたほど恐ろしいものではなかった。

 助かった、と。

 そう思って私は安堵さえ覚えていた。

 それはドアの隙間から覗いた顔が、美しい少女のものだったからかもしれない。

 少女は優雅な仕草で手招きをした。私を扉の中へ招き入れようとしているのは明らかだった。そして彼女は邪悪な存在ではない。これは私の直感だったが、この直感は正しいというさらに別の直感もまた同時に閃いていた。

 私はそれを信じることにした。

「早く、急いで」

 促されて私は扉を閉めた。

 中に入ると、私をいざなった少女をそのまま男性にしたような美しい青年がソファーに座っていた。

 双子だろうか?

「イシドールス、彼女を連れてきたわ」

 イシドールスと呼ばれた青年は軽く頷いた。

「きみは四つ足の獣から逃げているのか」

 青年は私に向かって訊ねた。

 四つ足の獣?

 私には何のことか分からなかった。けれど、サテュロスのことかもしれないと思い、違うと答えた。

「違う、ときみは言う」むずかしい顔をする青年。

「あっ。わたしはイーディス。こっちはイシドールス。よろしくね」

 美少女が言った。

「私は慈。井内慈です。よろしくお願いします」

「だが、きみはすでに魅入られているな……。イーディス」

 私の言葉を無視してイシドールスは喋り続けた。

 その態度に対し、イーディスは眉根を寄せて警告を発した。イシドールスは一瞬、はっとした表情になり、それからまた一つ頷いた。

「妹のイーディスと僕は、訳あってこんな場所に身を潜めている。しかし、しばらく前からやっかいな客が住み着いてしまってね。困っている。ヒトの顔をした四つ足の獣なんだが……。きみはほんとうに知らないのか?」

 イシドールスもイーディスも私のことを心配してくれているようだ。この兄妹のことは信用しても良いような気がした。

「いえ、話には聞いてますけど、出会ったことはないです。……子どもを食べる怪物だとか」

 私はお姉さんに聞いたとおりに答えた。

「ふむ。その通りだ。伝承によれば、彼奴きゃつは子どもを得たいと願ったが叶わなかったのだとされている。だが、転じて、子どもを喰う怪物に成り果てた」

 話を聞いていてどこか違和感があった。

 サテュロスではない?

「あの……」

「どうか……」

 イシドールスと私は同時に何かを言いかけた。薄く笑ってイシドールスが言った。

「どうか、気をつけてほしい。エンプーサは人間を喰うことしか考えていない。そのためには甘い顔をして相手を惹きつけるという。だが、奴らは冥界の主のしもべだ。本性は醜く、恐ろしい」

 二人は香料の入った温かい飲み物で私をもてなしてくれた。香料に邪気を払う効果があるらしい。イシドールスはさっき言っていた。私はすでに魅了されていると。

 それはそうと、しばらくまともなものを口にしていなかったことに気がついた。お姉さんがどこからか持ってくるミルクの他には食料がなかった。

 ……あれ?

「気がついたか」

 イシドールスの目は真剣だった。

「……はい。いろいろおかしいみたいですね」

「そう。おかしい。言ってしまえば、おかしいどころじゃない」

 彼の口元は真剣なままだったが、目にはどこか事態を面白がっているようなところがあった。

「イシドールス。そこまでよ」

 私の解釈は当たっていたようで、イーディスが険のある口調でたしなめた。この兄妹のパワーバランスがつかめてきた気がする。

「きみはとても危ない目に遭うと思う。僕たちが直接助けることができれば良いのだが、残念なことにそれはできない」

 イシドールスはイーディスを見た。

 イーディスは少し考えてから、話を引き継いだ。

「あのね、わたしたちは隠れてなくちゃいけないの。とーっても面倒なお化けからね。あいつに比べたらエンプーサなんて小娘よ」

 エンプーサ。

 小娘?

「この部屋は一度出てしまうともう入れないのよ」

「そういう魔法だと思ってもらったら良い」

「余計なことは言わなくてよろしい」

 二人は喋り続けていた。

 私はあまり聞いていなかった。私が考えていたのは怪物のことだ。二人が言っている怪物を私はすでに知っているのではないか。

「あの、ちょっと良いですか」

 イーディスとイシドールスが私の方に首を向けた。

 ほとんど同じ顔がとてもよく似た動作で、同時に振り返ったので思わず笑ってしまうところだった。

 なんとか笑いを堪え、さっきから気になっていたことを二人に質問した。

「その、エンプーサっていう怪物。もしかして私と一緒にいるお姉さんのことですか?」

 その答えはもちろんイエスだった。

「僕らも見たわけじゃないから、確実とは言えない。だけれど、きみがそうじゃないかと思うなら、たぶんそうなんだろうな」

「そうね、たぶんそう。あいつはヒトに化けるから」

 さっきの飲み物に入っていた香料が効いているのだろう。お姉さんが怪物だと聞かされてもそれほどショックを受けなかった。どちらかと言えば嫌悪感の方が強い。知らない間に付け入られていたというのは良い気分ではない。

 それから身の危険を感じた。

 今にも私を奪い返しにあの化け物がやって来る気がした。

「慈。きみに大事な話がある。聞いてくれ。もう少ししたら、さっき飲んだ香料の効果は切れる。そうすると今のこの事態に対して、きみの立場はもう少し中立寄りになる。なぜならきみの中では、まだ強い魅了の魔法が働いているからだ」

 今度は少なからずショックを受けた。

 私はまだあの怪物に魅了されているというのか。

「あなたが元に戻るためには、あなたの持ち物が必要なの。あなたがここに持ち込んだものを取り戻して、入ってきた時と同じ扉からきちんと出て行く必要があるの。そうしないと、あなたはあなたではなくなってしまう」

 イーディスが言った。

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味よ。自分の持ち物を見つけられないなら、あなたはあなたではなかったことにされてしまうの。具体的にどうなるか、誰にも分からない。ここはそういう場所よ」

「この事は化け物とは関係がない。もっと大きなこと、この世界の根幹に関わっていることなんだ」

 イシドールスの目が笑っていない。私は息を飲んだ。

 ……………………。

「私はどうすれば良いですか?」

「まずは奴の……、エンプーサのねぐらを探すんだ。そこにはあの怪物が溜め込んだ戦利品があれこれ眠っているはずだ」これを持って行くと良い。イシドールスは小さな石を差し出した。「その時が来ればきみにかかった魔法は少しだけ解ける。奴はきみを見失うだろう。塒で見つけた荷物があれば、出入口は現れる。見つけたら、急げ。とにかく急ぐんだ」

 部屋の中は霧がかかったように真っ白になり始めた。

 私の視線の動きを感じ取ったのか、イーディスが優しく微笑んで言った。

「大丈夫。あなたはやれるわ。わたしたちが幸運を祈ってる」

 目の前は真っ白だ。

 白くて……

 もう自分の手も見え……

 ない……。





 気がつくと「月世界」にいた。

 お姉さんが戻ってきていた。イシドールスが言っていた通り、私に掛けられた魅了の魔法は解けたわけではなかった。お姉さんの姿を見て安堵している自分がいた。

「あたしがいないうちに何かあったようね」

「うん、変な二人組に会ったよ」

 私は自分の正直な感想を伝えた。さっきまでの自分の感情がもはや信じられなかった。「私を守るために魅了を解かなかったの?」「いやいや、そもそもあの二人が悪者じゃない証拠なんてないじゃないか」私の中で相争う考えが衝突していた。

 私は不快そうな顔をしていたと思う。私の様子を見て、お姉さんは満足した様子だった。

「知っているかしら。あの二人は人間じゃあないのよ」

「そうなの?」

 これにはさすがに驚いた。そんなこと、あの兄妹は一言も言ってなかった。これでまた少し、私はお姉さんの側に傾いた。

「あの二人はね、吸血鬼よ。生きて帰ってきてくれて嬉しいわ」

 お姉さんは私を抱き寄せた。私はまたされるがままになっていた。

 私はお姉さんの塒で自分の持ち物を見つけ、お姉さんの正体を理解しなければならない。そして出口を探すのだ。

 正直に言って私は家に帰りたいとはこれっぽっちも思っていない。だが、そこに付け入られて食べられそうになっている、今の状況をなんとかしなければならない。

 問題は塒のある場所なんて見当も付かないということだった。

 ほとんどノーヒントだと言って良い。だが、全くゼロというわけではない。私は魅了の魔法が働いている状態のまま、ここに戻された。これは危険を冒してでも、お姉さんと話をする必要があるということではないか。

(つまり、お姉さんに訊けということなのね)

 嫌悪している状態なら話をすることはできなかったはず。だけれど、魅了されている今なら、媚態をさらして甘えてみせることだってできる。

「ねぇ、前から気になってたんだけど、一つ訊いて良い?」

「何かしら」

 お姉さんの声がかすかに緊張を孕んでいた。ここで選択を誤れば殺されてしまうに違いない。考えろ。考えろ、私。

「お姉さんがいつも持ってきてくれるのって、お姉さんのミルク……だよね?」

「ふふ、気づいてたのね」

「あのね、その……、言いにくいんだけどさ。直接飲んじゃ駄目なのかなあって……」

 お姉さんが音を立てて陥落する瞬間を見た気がした。





 私は森の中を歩いていた。外に出るのは初めてだった。上を見上げると星がなかった。ここはほんとうの意味で外ではないのだと思った。洞くつの天井のようにごつごつした岩肌が見えた。太陽がないのに天井まで見通せるのはどうしたことだろうと思った。

 ここは地底なのだろうか。暗いわりに妙に暑いのはどうしてだろう。

 森の木々をよく見ると不気味な形をしていた。ところどころ人間の躰のように見えた。初めのうち、それはただの連想なのだと思おうとした。

 だが、そうではなかった。

(オオォーン……。オオオォーン……)

 木々の梢は不気味な嘆きを発していた。

 見上げると、樹木の幹の分かれ目にヒトの顔があり、もはや声にならない声を上げて泣いていた。

 流す涙も涸れ果て、石のように泣いているのは木の幹に埋め込まれた人間だった。翼と嘴を持つ痩せこけた人影が彼らをついばんでいた。

 醜い鳥のような人影は人間の明らかに顔をしていた。

 吸血鬼の兄妹から受け取った石のおかげで、鳥人たちには私の姿が見えていないようだった。

 私は急いでその場を離れた。

 サテュロスの他にもヒトならざるものがいる森なのだ。

 行けば行くほどに恐ろしさは増し、耐えきれず走り出した。

 さっきの怪物たちだって、いつまでも私に気がつかないままでいる保証はないのだ。あんな恐ろしいものに襲われたら、私はきっと気が狂ってしまう。

 お姉さんの正体だって、私は怖くて怖くてしょうがない。

 エンプーサという魔物。子どもを喰う怪物なのだという。

 食べられるのは厭だ!

 私は怖くなって泣いた。泣きながら走り続けた。

 葉っぱのない裸の木々の間をすごい速さで駆け抜けていく。

 風がびゅう! と何度も鳴った。

 突然、地面に大きな落差が現れ、私は宙を舞った。

「痛い!」

 思わず叫んだ。

 乱暴な着地。

 躰のあちこちを打ちつけて激しい痛みに襲われた。

 足を挫いてしまった。

 私はもう立ち上がることができなかった。

 ここまで、なんだ。

 お姉さん、いや、あの怪物はきっと追いかけてくる。

 食べられる、んだったっけ?

 怖いよ。

 厭だよ、

 いやだよ、

 厭だよ!

 そんな風に死ぬのは厭!

 私は這いつくばって進んだ。

「きゃっ」

 急な斜面。

 さらに転がり落ちる。

 パキン!

 厭な音がした。

 どこか折れてしまっただろうか。

 躰じゅうが痛い。

 どこがどうなってしまったのか自分の躰なのにもう分からない。

 真っ暗だ。

 一瞬、意識を失ってしまって目の前が暗いのかと思った。

 だが、そうではなかった。

 穴に落ちたようだった。

 何かが躰のあちこちに刺さっていた。

 大量に出血していた。

 痛みの感覚すら、もう、

 ない。

 しばらく、

 私はほんとうに気を失ってしまったようだった。

 意識を取り戻した時には仄暗い水辺にいた。

 地面には大量の白骨が転がっていた。そこでとうとう私は見つけた。お気に入りの、鹿柄のパーカーが目の前にあった。血と土にまみれたパーカーは鋭い刃物で切り刻まれたようにぼろぼろになっていた。

 拾い上げてみた。

 袖を通すことはできなかった。半分以上が裂かれて失われていた。私はパーカーを抱きしめて泣いた。これで、こんなので、大丈夫なのだろうか。出口を見つけて帰ることができるのだろうか。

 あぁ! あぁ!

 声を上げて泣いた。

 頭上に開いた穴の縁に光るものを見つけてしまった。

 ここまでなのね。

 光っているのは怪物の目、エンプーサの目だった。

「慈ちゃん、逃げたのね。逃げたのね、あたしから」

 とん、とん。

 軽やかな足取りで穴の底へと降りってくるエンプーサは四つ足で立っていた。顔だけが人間の女性だった。長い首を傾けてケラケラと笑うので、私は恐ろしかった。脚の間が温かくなるのを感じた。

「前からずっと思ってたの。慈ちゃんっておいしそうよね。安心して。傷つけて殺したりはしない。綺麗に洗って、綺麗に着飾ってから大事に大事に。……ゆっくり食べてあげるから。だからおうちに帰りましょうね」





 エンプーサは私を抱きかかえ、元いた場所「月世界」へと連れ帰ってきた。

「着いたわよ。私ね、綺麗なドレスをたくさん持っているの。一緒に選びましょうね」

 全身の骨が折れている私は、もう指一本動かせなかった。

 死ぬのね、ここで。

 ひと思いに殺してはくれない、残酷な獣にもてあそばれて。

 私は意識の続く限り、躰を硬くして、もう何も感じないでおこうと思った。

 ぎゅっ、と。

 心を閉ざして何も感じないでおこう。

 そうすれば、きっと大丈夫。

 そうだ。

 私は、もう死んでいるの。

 死んだ、

 私は、

 何も、

 感じない……。

 その時だった。

 ふいに躰が重くなるのを感じた。

 目の前には両腕を失って呆然と佇むエンプーサの姿があった。

「大丈夫? 辛い目に遭わせちゃったわね」

 今、私を抱きかかえているのは怪物ではなかった。

 四つ足の獣ではなく、吸血鬼。

 イーディス!

 私を抱きかかえているのはイーディスだった。

 一方、怪物と相対しているのはイシドールス。

 イシドールスは躰を低くして怪物を蹴り飛ばした。大きな衝撃音は二度。ほとんど重なって聞こえた。壁にめり込む怪物。

「きみを見捨てるのはあまりに非人道的だと思ったものでね」

「わたしたちだって人間だったころがないわけじゃあないのよ。人の心があるの」

「あのかすの口から聞いただろう。ぼくたちの正体を」

「あえて言うわ。滓だってね」

 怪物は恐ろしい声を発し咆哮した。青い霧の塊へと姿を変え、五体満足な四つ足の獣の姿に戻った。

「何度でも元に戻れるのかもしれないが」

「わたしたちの敵じゃないわね」

 兄妹はまるで一人のようにぴったり重なって動き、代わる代わるに怪物を引き裂いた。

 裂かれる度に怪物は霧を発して再生するのだが、見る見るかさが減って小さくなっていった。子犬ほどの大きさになったところで二人は怪物に躍りかかり、鋭い牙で噛みついた。

 キィェェエエエエエエエエエエエエエエェェェェ――!

 凄まじい叫び声を発してエンプーサは息絶えたようだった。

 兄妹は口元の血を拭ってから私を振り返って優しく微笑んだ。

 私は鋭い痛みに耐えながら涙を拭った。

 どんな顔をして泣いているのだろう。見てやろうと思い、鏡を覗き込もうと思った。

「いけない! 鏡を見ないで!」

 イーディスが叫んだ。

 だが、間に合わなかった。

 私はすでに鏡を覗き込んでいた。

 大きな音を立てて鏡が割れる。

 あの怪物の顔に似ているけれど、どこか違う。見たことのない女性がそこにいた。不思議そうな顔でこちらを見返していた。





 傷が癒えていた。

 いや、初めからなかったかのようだった。

 私はベッド起き上がった。クイーンサイズというのだろうか。映画でしか見たことがないような、とても大きなベッドだった。

 今まで持っていた覚えのない、知らないパジャマを着ていた。

 壁には大きな絵が掛かっており、意匠を凝らした洗面台が設えてあった。私が覗き込んでいたのはその鏡だった。室内の調度品はどれも高級そうだった。

 私は部屋から出た。

 そこには綺麗なダイニングがあった。「月世界」ではなかった。

 目の前には驚いて目をまん丸にしている女性がいた。

「慈さん……? 大丈夫なんですか」

 彼女は私が部屋から出てきたこと自体が信じられないというふうなことを言った。

「ここがどこだか、分かりますか」

 分からないと答えると彼女は少しだけ悲しそうな顔をした。だが、すぐに笑顔に戻ると、近づいてきて私をハグした。ぎゅっ、と力がこもっていた。戻ってきてくれて良かった。そう言って目鼻立ちの整った顔をくしゃくしゃに歪めて泣いた。

 私は一年前、自室で倒れたらしい。それ以来心神喪失状態だったのだという。

 それからは訳の分からないことだらけだった。まず、ダイニングにいた女性は年上だと思ったけれどだいぶ年下だった。というか私自身の年齢がずっと上なのだ。

 私は自分の年齢を聞いて頭がクラッとした。

 私は記憶喪失を装った。とりあえず、あれこれ情報を集めようと思った。

 もう一度鏡を見るまでもない。

 今の自分は別人だ。

 だが、名前は同じ「井内いうちちか」らしい。

 珍しいはずの漢字まで同じだ。

 小さい頃のアルバムを見せてもらったが、記憶にある顔とは全く別だった。水鳥という子を知らないかと聞いてみた。残念ながら彼女は私が成人してからの知り合いなのだという。

 話を聞いているうちに記憶が戻るかもしれないと考えたのだろう。彼女はいろいろな話を聞かせてくれた。

「具体的には私は、慈さんの職場のアルバイトちゃんだったんです。慈さんなかなか名前覚えてくれなくて、私のことずっとアルバイトちゃんって呼んでました」

 そう言って可憐に笑う女性の名前は有華。私はあだ名で呼んでいたらしい。もちろん覚えていないが。

 バスルームで一糸纏わぬ姿を鏡に映してみた。

 どう考えても自分ではなかった。

 大人の女性の躰が目の前にあった。元の顔の記憶が曖昧だった。自分の顔を見て、美人だと思う。だが吐き気がした。あの恐ろしい女怪に似ているのだ。肌の色が違うだけ。鏡に映っているのはあの化け物なのでは? そう思うと胃がひっくり返った。夕飯をすっかり吐き戻してしまった。シャワーを出しっ放しにして声を抑えて泣いた。

 バスルームの中もダイニングと同じ甘い香りがした。アロマオイルが似合う部屋だった。

 背中を洗っている時だった。

 もう一つ、決定的な違いを見つけた。

 驚かされることばかりだった中で、そちらはあまり驚かなかった。

 ベッドは一つしかなかった。遠慮がちに告げる有華という女性と一つの毛布に包まって寝た。翌日は彼女に連れられて病院に行き、一通りの検査を済ませた。倒れた時と同じで突然回復した原因も不明、とのことだった。

 名前だけが同じ井内慈という中学生だったという話はしなかった。変な場所で怪物のお姉さんと暮らしていたことも。とにかく状況が分からなかった。どっちがほんとうなのか。私としてはこちらが非現実で、迷路の喫茶店の続きなのだという認識だった。

 彼女のことは「有華」と呼ぶことにした。

 私の認識としては彼女が年上なのだが、今は違う。「有華さん」と呼ぶと冗談だと思われたようで、彼女は笑い転げていた。少し安心したようだった。可愛い人だと思った。

 有華に連れられてウィンドーショッピングをして、中学生だった頃なら入らなかったようなお店でケーキを食べた。道路に面したテラス席だったので恐怖はなかった。しばらく外食はできない気がした。どうしてもあの場所を思い出してしまうだろう。

 我が家であるらしい高層マンションに帰った。部屋の中に吹き抜けのらせん階段と噴水がある。なんと私の持ち物らしい。

 部屋には画材が置いてあったので仕事は聞かなくても分かる。デザイン関係の何かだろう。仕事のことを考えると吐き気がした。特にチョークを見ると思い出したくなくても思い出してしまう。

 有華が仕事に出ている間はテレビを見たり雑誌を読んだりして過ごした。まだまだ心配なので一人で外に出ないよう言われていた。自宅が閉鎖的な空間でなくて良かったと思う。疲れたらサンルームのウッドデッキで午睡だってできた。

 自分自身だけではない。

 元いたところとは何かが違っている。

 何週間か過ごすうち、ここは別世界なのではという考えが大きくなっていった。

 時間の経過では説明できないことがいくつもあった。

 漢字はもちろん、平仮名や片仮名の形でさえ記憶にあるものと違っている気がした。もともとニュースには疎い方だったが、知らない国名があったり歴史にも違和感があった。

(これって病院に行けばどうにかなるようなことなの)

 隣りで眠る有華には相談できなかった。必要以上に心配させてしまいそうだ。

 まず考えたのはこの「井内慈」はほんとうに私自身なのかということだ。同姓同名の他人ではないのか。

 真相を探るには、まずはあの喫茶店を探すべきかもしれない。今回の出来事にもし関わっているとしたら、こちらの世界(?)にも存在しているに違いない。もしそうではないなら、意識を失って見た夢、もしくは何らかの願望という可能性が高くなる。

 あちらの世界のことが、親友の水鳥が、妄想でしかないなら少し悲しい。たとえ、もう会うことができないとしても、彼女には世界のどこかに存在していてほしい。

 覚悟を決めるには時間がかかった。戻れないなら戻れないでも良い。最悪の結末は再びあの空間に囚われてしまうことだ。





 チャンスは思っていたよりも早く巡ってきた。

 昔、鏡とパーテーションだらけの不思議な喫茶店に行ったことがある、と話の流れで有華に話したのだ。すると、意外な返事が返ってきた。

「あー、あそこつぶれちゃいましたね」

「えっ、知ってるの?」

 勢い込んで訊ねた。

「慈さんの絵、飾ってたとこですよね」

 私の、絵?

 私が若い頃に自腹で開いた個展で、オーナーが私の絵を気に入ってくれたのだという。一番大きな絵を言い値で買ってくれたそうだ。喫茶店の方はオーナーが変わってから客足が途絶え、閉店した、と。

「それっていつ?」

「私が専門学校入る前だから六年は前ですよ」

「どんな絵だった?」

 ええー、覚えてないですよぅ。有華は大げさに泣き真似をした。慈さん、なんか真剣ですね。やっぱりあの店には思い入れがありますもんね。(その通り。あなたが思っているのとはたぶん種類が違うけど)

 地名が違っているので分からなかったが、二人が住んでいるマンションは、あの日乗ったバスの路線にあった。また、元いた世界では「丘」とは名ばかりの市街地だったが、こちらではほんとうに丘の上だった。

 有華が運転する車で丘の麓まで行った。彼女は麓の図書館に用事があるという。気が済んだら真っ直ぐ降りてきてください。一本道なので間違いようもないと思います。

 有華が運転したのは私の車だった。運転はまだ怖いと言ったらすんなり納得してくれた。たぶんこちらにしかない車種だと私は思った。CMで何度も見たので高級車なのは分かる。

(というか運転することになったらどうしよう。私、実質無免許だよ)

 あの場所に対する恐怖感は薄れていた。

 ここはのどかな丘の上で、近くには図書館や商業施設もある。見通しも悪くない。幸いなことに天気も良い。

 おかげで問題の建物が見えてきた時も落ち着いていられた。

 なんと、建っている場所が違うだけで全く同じ建物だった。ログハウス風の平屋。外壁は二面がガラス張り。一見居心地が良さそうな佇まい。その実態は古い歌に出てくる架空のホテルのようだ。チェックアウトはできるが立ち去ることは永遠にできないという。悪夢のような空間。

 古びた外壁は年月の経過を思わせた。ガラスは汚れるに任せられており、中は見えなかった。入口の前にひっくり返して置かれたメニューボードには「閉店しました」と書かれていた。

 試しに入口の扉を押してみた。なんと鍵が掛かっていなかった。

(えっ……)

 中を覗くよりも先にもう一度、周囲を見回してみた。

 どこをどう見ても廃屋だった。だが、よく見ると人が立ち入った形跡があった。乾いた泥の靴あとが埃をかき分けて道を作っていたし、床に転がったペットボトルは新しいものだった。

 当然と言うべきか、鏡もパーテーションも片付けられており、どこにも見えなかった。そのことは私を安堵させた。

(良かった。中がそのままだったらさすがに耐えられない)

 レジの裏を見て私は息を飲んだ。

 壁には大きな油絵が掛けられていた。木々に覆われた深い森の中の泉。むせ返るような芳香が漂ってきそうな画風には見覚えがあった。

(私の絵、だよね……。やっぱりどう見てもあの怪物の……)

 激しくえずいたがなんとか抑え込むことができた。

 泉の真ん中には大きな白い鳥が描かれていた。

(泉の……)

(水の真ん中に白鳥……)

(水の……鳥……)

(水鳥!)

 絵の下は不自然に四角く白い部分があった。両端に穴が開いていた。外れて落ちプレートは部屋の隅にあった。拾い上げて埃を払った。「『水鳥』井内慈」と書かれていた。

 この絵のタイトルは「水鳥」というらしい。

 どうしようもないほど、美しい。どんなに言葉を尽くしても足りないほどの慈しみに溢れた白鳥だった。この絵を描いた「井内慈」の祈りなのだと思った。

 私の頬を涙が伝っていた。この絵を描いた「井内慈」は怪物ではあり得ない。理屈ではなかった。そう信じて良いという気がした。同時にこれは、この世界には水鳥がいないということを示しているのではないか。理屈を超えた直感がそうも告げていた。

 こちらの世界の「井内慈」にとって、水鳥というのは親友の名前ではなく、表現の上で大切なモチーフとしてある、というか。

 背後から這いずって来る影を、私は肌で感じていた。

 青い靄の塊。

 それは次第に形を取る。

 四つ足の獣。顔は人間の女性。片足はロバの足。もう片方は真鍮。

 こんなところにもエンプーサが。

 私はあえて振り返らない。

 無遠慮な侵入者が近づいてくるに任せた。水鳥との時間を邪魔する者は誰であろうと許さない。

 醜怪な息づかいをすぐ横に感じる。

 あと一歩で指先が触れる。

 ギリギリまで引きつけておいて、私は背中に生えた大きな白い翼を広げた。

 そのまま宙返り。

 鋭い鉤爪で喉元を裂いた。

 口をパクパクさせながら絶命する骸を首を傾けて眺めた。

 死骸は残さない。喰らい尽くしてしまおう。その後で泉で躰をきれいに洗おう。有華に会いに行こう。一緒にドライブに出かけよう。

 舞い散る白い羽を一つ手に取り、慈しむように抱いた。


   (了)
















  

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エンプーサの園 雨の粥 @amenokayu

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