第3話 仮想現実

 大型クラシックバイクのエンジンが唸り、ネオンに飾られたハイウェーの景色が視界の両側を流れている。アクセルを一ひねりすれば、マフラーから忽ち爆音が弾け、太いトルクに車体が持ち上げられるように加速する・・・・・・はずだった。


 音は聞こえるけれど、スピード感が体に伝わらない。速度を上げているのに風が感じられない。煙を吐き出す排気口から煙の匂いもしない。


『体験期間は間もなく終了いたします。エレクトリック・ドリーム社はいつもご愛顧いただいております、皆さまに心からの感謝を申し上げます』


 イヤホンからのナレーションと共に、視界の中央に接続終了のカウントダウン表示が現れた。


『3、2、1、0……』

『また、素敵な仮想現実でお会いしましょう。アカウント登録はこちらから』


 この表示を最後に、人工角膜に投影されたVR動画は消えた。


 ネオンが煌めくハイウェーの景色は薄汚れたコンクリートビルの街に変わり、クラシックバイクは『UVY-EATS《ユーヴィーイーツ》』の配達用電動スクーターに変わった。弱々しいモーター音と共に、小さな二輪車は二十歳になったタイキと大きな配達ボックスを乗せ、第三地区の下町をのんびりと走っている。


「あ~、イイとこだったのに~」


 タイキは大げさにため息をついた。彼は大崩壊前の世界に存在していたレトロな乗り物が大好きだった。


 『電夢工房エレクトリック・ドリーム』社は東陵都市国家にある最大級のエンタメ企業だ。創業と運営がセントリオンではなく人間であることも、あまた多くの企業がAIに統制されているのに対し、ちょっと異類だ。


 タイキにサービスに正式登録するお金などあるはずも無い。社会的身分も戸籍もない孤児だった彼は、大人になってからも定職に就けず、配達屋の日雇いをしながらなんとか生活を繋いでいた。仕事の合間を縫って、こうしてVR体験を無料で楽しむのが唯一の楽しみであり、辛い現実からの逃避でもあった。


 人工角膜が目に見えている風景に絶えず情報を付け足している。路面に浮かぶナビゲーションの矢印に沿っていくつかの角を曲がり、またいくつかの交差点を通り過ぎたころ、タイキはとある団地についた。アリ塚のように積み上がる大きな集合住宅ビルを見上げると、十階にある一室がハッチングされ、住民情報が吹き出しで表示された。


『配達依頼者:山本裕司 

 住所:区画地区外 コード4-207 日和レジデンス C棟1045号室

 品目:ニッソンスーパーカップ 豚骨醤油味 ー箱(20個入り)』


 タイキはC棟玄関口の傍にスクーターを止めた。周りを見渡すと、団地の中庭には初夏の日差しを浴びる老人と、老人たちに見守られて遊ぶ子供たちがいた。親たちは皆働きに出ているのだろう。錆びれた遊具はしゃぐ子供たちとは対照的に、年寄りの表情は虚無で、陰鬱だった。大人たちはまだ、過去の時代のトラウマに囚われているが、ここで生まれ育った子供達はすでに現実を受け入れたようだ。


 タイキは彼らの姿を羨ましそうに眺めながら、荷台からカップ麺の段ボール箱をか細い両腕で囲んだ。

 

 身長は150cmくらいだろう。華奢な体をダブりついたジーンズとTシャツが包んでいる。寝ぐせで膨張した髪の毛のせいで頭が大きく見える。二十歳とはいえ、タイキは中学生のようなあどけない風貌をしている。肉の薄い頬とやせ細った顎がいかにも貧相だが、顔立ちは整っている方だ。筋の通った鼻と整った唇、それから二重の大きな目を持っている。きちんと整えば美男子、女装すればかわいい女子校生に見えなくもない。


「こんな贅沢なものをひと箱を丸ごと頼める奴って、いいなぁ~。俺は無料配布の非常食ジェルばっかりだ」


 そう独り言を吐くとたちまちお腹が鳴った。そういえば、お昼はまだ食べていない。農作物が貴重なこの時代、小麦粉と乾燥野菜でできたカップラーメンはご馳走だった。


 タイキは段ボールを抱えて玄関に入り、エレベーターに乗った。すり減ったスニーカーのゴム底が床と擦れて耳障りの音を立てた。変わっていく階数表示を睨みつけながら、今日の日銭をざっくり計算する。スクーターのリース料と通信費用を差し引けば、食事の額は浮きそうだ。カップラーメンを一杯買うか、非常食ジェルで我慢して貯金に回すか。


 また、腹が鳴った。タイキは懐に抱えている段ボール箱を見下ろす。ニッソンのロゴが何気なく輝いて見える。中には炭水化物と油分と塩分が詰まっている。生きるための大事なエネルギー源が詰まっている。


 この箱からカップ麺を一つくすねてしまえ。


 その考えにタイキは急いで頭を振る。こんなつまらないことでお客さんを怒らせたら大変だ。UVY-EATSの配達者プロフィールに赤信号が付き、仕事がもらえなくなる。そうなれば命綱としての収入が無くなるのだ。やはり最善の方法は地道に仕事をこなし、評価を上げて配達件数を増やすこと。運よくば正規雇用されるかもしれない。


「いや、それは不可能だ」自分に水を差すようにタイキはつぶやいた。


 正規雇用には身分IDの証明が必要だった。脳内に埋め込まれたチップの中の、誰にでもあるはずの情報が彼には無いのだ。


 自分は不法入国者がこっそり産み落とした子供だから、IDがないまま遺棄されたと、孤児院の先生から教わった。その言葉を思い出すたびに怒りに胸を焼かれる。そのせいでずっと社会から弾き出され、透明人間のように暮らしている。


 社会保障?

 セーフティネット? 


 そんなものは遠い世界の話だ。セントリオンは人間の世話をしてくれるが、それはあくまで中枢AI『TAKUMi』の管理ネットワークに登録されている者たちだけ。どんなに努力しようとも、個体識別コードがないというだけで、まともに暮らせない。


 育てるつもりないなら、産むな!


 両親がだれであろうと、タイキは彼らの面に向かってそう叫びたかった。


 廊下の端にある1045号室の前でタイキはインターホンを鳴らした。しばらくしても返事が来ない。数回鳴らしてみたが結果は同じだった。


「すみませーん、ユーヴィーイーツの配達です」


 扉を叩きながら何度か呼びかけると、今度は奥の方から『ドダダダ……』と忙しい足音が聞こえてきた。急に迫った気配に驚いて扉から離れようとしたが、すでに遅かった。


 勢いよく開いた扉に弾き飛ばされ、タイキの貧弱な体が廊下の壁にぶつかった。段ボール箱は地面に転がり落ち、衝撃で角がつぶれた。痛む後頭部と背中に顔をしかめ、タイキは玄関に立つ者を見上げた。


 人工角膜の表示にノイズが混ざり、男のだらしない部屋着姿が赤い枠でハイライトされ、その頭上で危険信号が点滅している。


「えっ?!」


 悲鳴を上げる余裕もなく、男は不自然なほど素早い動きで肉薄し、タイキを襟で掴み上げた。


「ついに捕まったぞ、この裏切り者め!我らが聖戦のための、生贄となるがよい!」


 酒気に満ちた粗野な叫びが廊下に響き渡る。言葉の内容がまるで理解できない。男の瞳が絶えず点滅している。VRで何か観ているのだと、タイキはようやく気付いた。男はその映像にのめり込みすぎて正気を失っているに違いない。


「お……お客……VRを切って……」


 締め付けられる首元が苦しくてうまく話せない。タイキは男の袖にしがみつき、決死の力であがいた。


「神聖なる教皇の前に、命乞いもいいところだ!」


 男は言葉を聞き取ったようだが、全く違う解釈をしていた。襟をいっそう締めあげられ、タイキはますます息苦しくなり、両目に星が見え始める。


「観念しろ!」


 そう叫び、男はタイキの脇腹にスタンガンのようなものを押し当てた。激しい痛みが全身を突き抜け、筋肉が硬直する。救助を呼ぶこともできず、タイキは程なくして意識を失った。


 


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