第2話 消されたID

 都市内の整然とした景色とはうって変わり、壁の向こうは混沌とした別世界のようだ。


 雑居ビルと崩壊しかけた残骸がひしめきあい、迷路のように入り組んだ路地裏が広がっていた。ビルとビルの隙間を埋めるように、テントや廃材で出来た簡易住宅が並んでいる。

 

 深夜とはいえ、スラムは寝静まることがなかった。時々、ガラスの割れることや酔っ払いの喚きが静寂を破った。子供が泣き出し、あやす大人の声も聞こける。ネオンを灯したナイトクラブからから電子音楽が漏れ出し、奇抜なファッションの若者たちが酒瓶を持ってたむろしていた。疎らな街灯が照らし出す狭い地面に、ホームレスや不審な商人たちが集まり、何かを囁きあっている。


 暗闇の中、明かりの少ない町全体がいびつな形をした巨大生物に見えて、危険な息遣いが聞こえてくるようだ。赤子を抱える女の両腕が強張り始める。路面に散らばるゴミに躓きながら、そのシルエットは闇の中に吸い込まれていった。


――

「マイクロチップの情報を改ざんしたいのか。壁の向こうにいる裕福層がこんな蚤のたまり場にくるほど、困った事情でもあるのかねえ」


 薄暗い半地下室の作業台の上に、その赤ん坊は置かれていた。広げられた風呂敷の中央で苦しそうに蠢いている。何重ものタオルにくるまれ、辛うじて顔が見えていた。生後間もない新生児の、少し触れると傷つきそうなほどきめ細やかなほっぺに淡い血の色が透けて見える。締め付けるタオルを解こうとしたのか、赤ん坊は力を込めて体を数回よじらせた。


 作業台の傍に立つ中年の男が、タバコのヤニで黄ばんだ歯を見せた。

「生きのいい奴だな。お前の私生児か? 旦那にバレるのが困るんだな?」

 女は表情を固めた。しばし考えてから鋭い口調で切り出した。

「私の事情はどうでもよいでしょう。お金は十二分に払いますから、この子の身分データ《ID》を消してください」


 男は作業台越しに女を見据えたまま声を出さずにいた。女は男の身なりをざっと見回した。この地区に住む名の知れた「裏技師」らしいが、身なりは金を稼いでいるように見えないみすぼらしさだ。着古したワイシャツと、骨と皮ばかりの肩からぶら下がる薄汚いエプロンに女は目をひそめた。


「あなたは本物ですか。データ改ざんからハッキングまで何でもできるというが、お金をかっさらいにきた難民にしか見えませんね」

 男はまたにやりと、狡猾な笑みを見せた。

「バカなことを言う。信用の証に、こいつのデータをちょっとハッキングさせもらおうかな」


 女の許可も取らずに、男はがさつな仕草で赤んぼを抱き上げた。巻き付けられたタオルをほどいて小さな頭を露わにすると、そのこめかみに黒ずんだ爪を押し当てた。爪先から細い糸のようなものが伸び出し、肌を突き破って頭蓋骨に侵入した。その痛みが伝わったのか、赤んぼは程なくして泣き出した。


 男の人工網膜が微かに光るのを、女はかたずをのんで見つめた。男は赤ん坊を放し、先ほど突き当てていた指を第一関節のところでポッキリと外した。セラミック製の人工関節に電子コードが格納されており、男はコードの先を引き出し、自分のこめかみにあるソケットに接続した。


 人工網膜がまた光り出し、男は何か幻覚を見ているかのように宙を見上げ、それからタブレッドを操作するようなしぐさで手を振っている。その傍ら、女は微かに血の滲み出る赤ん坊のこめかみに手拭いを当てた。


「こりゃあ、大したもんだなあ」

 しばしの沈黙のあと、突如としゃべり出した男に女は視線を合わせた。


「こいつのチップは特別だ。メモリーの構造が普通のヤツと違う。セキュリティもかなり厳重だ。TAKUMiの中枢管理ネットワークにダイレクトできる設計になっているが……」

 

 男の口角が吊り上がった。


 「この赤子はお前の甥、んでお前はこいつの両親の遺産がほしいんだろ? だから人口統制システムに登録する前に、存在をこっそり消そうってわけか。妹夫婦に子供が居ないことにすれば、継承者はお前になる。なるほどねぇ、ふふふ、ははは……」


 男は頭に接続していたコードを引き抜き、指を元に戻しながら興奮気味な口調で話している。暗澹としている視線を対照的に、笑に裂けた唇の下から見える前歯がぎらついていた。


 内心をことごとく言い当てられ、女は悔しさと気味の悪さに眉をひそめた。

「脅しですか」

「口止め料はたんまりいただくぜ」

 女はため息をついた。

「いいでしょう。欲しい金額は払います。ただし、施術後に」

「先に半分もらおう。チップの操作は法律によって厳しく禁じられているぜ。何かあってから未払いで逃げられるのは困るんで」

「いくらですか」

「五百万だ。値引き交渉は受け付けない」

 女は口をつぐんだ。不機嫌をあからさまにする彼女を男は気に留める様子もない。

「なあに、お前がもらえる額とくらべりゃあ、微々たるもんだろ?」

 男を恨めしそうに一瞥してから、女は口を開いだ。

「分かりました」

 女の手から差し出された電子マネーカードを受け取り、男は読み取り機にかざした。


「確かに、受け取った」

そう言うと、男がまた笑い出した。

「何が可笑しいのですか」

「いや、なんというか、安心したよ。金に困らない上級国民でも、考えていることの汚さは第三地区の俺らと変わらねぇ」

 女は何か言おうと口を開いたが、言葉が見当たらずまた閉じてしまった。

 男は冷たいホログラムを映している人工網膜の瞳で女を覗き込んだ。

「俺たちは同じ地獄に落ちるぜ。楽しみだとは思わないか」

「いいえ」女は強く言い放った。声が震えていた。

「作業中は外に出でってくれ。邪魔されたくない」

 男は電子マネーカードを返し、それから「し、し」と手を振って女を部屋の外に追い払った。

 

――

 女は赤んぼを抱え、再び路地を進みだした。


 アルコールとジャンクフードの脂っこい臭気に充満した飲食街を急いで抜け、さらに貧民層が集まる巨大団地も通り過ぎるた頃、すでに夜が明けようとしていた。


 赤んぼの頭には包帯が巻かれていた。疲れてぐっすりと眠っているその顔に、乾いた涙の痕跡がいくつも走っていた。

 

 女はしきりに周囲を見回しながら、靴擦れで痛む足を引きずった。こんな時間に女一人で第三地区を歩き回るリスクを重々に承知しているが、立ち止まるわけにはいかない。頭の中で、裏技師の言葉が繰り返し浮かんでくる。


「身分を無くした子供をスラムの孤児にするくらいなら、いっそう殺した方がマシたぜ」

「生命活動が停止したところで、こいつのチップはTAKUMiとつながってないから、バレない」

「にしても、なんで生まれてすぐにチップ情報を登録しないのか、面白いと思わないか。きっと隠し子だな」


 取り止めとなく襲ってくる幻聴を消し去ろうと女は頭を強く振った。


「俺たちは同じ地獄に落ちるぜ」


 この言葉を最後に、女は立ち止まった。いくら歩いたかは忘れた。上層部が崩れたアパートに挟まれた、庭付きの小さな教会が目の前に迫っていた。尖がり屋根の先にさび付いた鉄の十字架が立ち、街灯に照らされた鉄格子が黒い影を中庭に伸ばしていた。花壇から雑草が生え、聖母マリアの石像にもつたが絡まっていた。


『聖心孤児院』


 そう書かれたネームプレードを確認し、女は滲み出る涙を堪えながらため息をついた。自分に何が起こるのかを全く知る余地もなく、赤ん坊はだたただ安らかな寝息を立てていた。


 妹との最後の会話が、女の脳裏にふっと蘇った。

――

「すっかり大きくなったね」

 立派な市立病院の一室。張り出した妹のお腹をさすりながら、彼女は優しく語りかけた。妹はベッドの上に横たわり、大変そうな、しかし嬉しそうな表情を見せた。

「名前は決まったの」

「うん。希望と喜びをいっぱい感じて、人生を生きてほしいの。だから大きいの『大』に希望の『希』と喜びの『喜』にかけて、『タイキ』と名付けたよ」

「そうか、素敵な名前ね! 男の子にピッタリ」

 女は自分よりもずっと年下の妹の、健気だがどこか悲しそうな笑顔を見つめていた。

 妹の家に運送用のドローンが突っ込み、生まれたばかりの赤ん坊を残して一家全員がこの世を去ったのは、それから一週間ほど後のことだった。


――

『タイキ』


 そう書かれたメモを、女は懐から取り出して赤ん坊を包んでいる風呂敷の中に差しこんだ。ネームプレートの下にあるインターホンを鳴らしてしばらくすると、眠そうで不機嫌な声がスピーカーの向こうから聞こえた。


「ごめんね……」


 ほとんど聞こえない声で呟き、女は赤んぼを玄関の前にそっと置いた。スピーカーの向こうで怪訝そうな声が上がる。転がり落ちる涙が女の顔を隠しているスカーフを湿らせた。嗚咽を噛み殺し、彼女はインターホンに応えることなくその場から走り去った。


 孤児院の前に遺棄されたタイキは、まだ夢の中だった。



 

 

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