すっぽかしたホワイトデー

うたた寝

第1話



「じゃあ、行ってきます」

 彼が玄関へと向かうと、出勤時間が違う関係で彼が出た後に家を出る彼女がスーツ姿で玄関に見送りに来てくれる。

「行ってらっしゃい」

 笑顔で送り出してくれる彼女。しかし、彼はそんな彼女の笑顔を見てぎこちなく固まる。そして恐る恐る朝から気になっていたことを聞いてみる。

「あのぉ……?」

「はい?」

「何か……、怒ってます……?」

 怒っている相手に怒っているかを聞くのは一番のタブーであると彼も分かっているのだが、心当たりがまるで無い以上、相手に直接聞くしかない。

 だが、

「いいえ? 怒ってませんよ?」

 何故そんなことを聞くの? というようなとびっきりの笑顔で否定してくる彼女。ぱっと見確かに怒っているようには見えない。だが彼には分かる。この笑顔はブチギレている笑顔である。何か逆鱗に触れるようなことをしてしまったらしいが、さっきも言ったように心当たりがまるで無い。朝起きた時からこんな感じだ。

 何か態度に出してくるわけでも表情に出してくるわけでもないが、明らかに何か強大な怒りを内包している相手というのは、例えるのであれば、いつ爆発するか分からない爆弾を抱えているかのような恐怖心がある。

 しかし聞いても答えてくれないし、爆発するかも分からない爆弾を何度も刺激するのは得策ではない。彼は、『そ、そっかぁ……』と曖昧に笑い返し、静かに玄関を出た。



 駅のホームに辿り着いた彼は彼女の怒っている理由をずっと考えていた。家からここに来るまでの間もずっと考えてはいたのだが、どうにもやはり心当たりが無い。

 何か記念日を忘れた? いや、その手の記念日はカレンダーに通知設定してある。彼女が録画してたお気に入りのテレビ番組を消した? いや、レコーダーは分けていて、彼女のレコーダーには触っていない。……浮気した? いや、その度胸も無ければ、寄って来る相手も居ない。

 何だろうなぁ……、と現実逃避気味に彼は隣の人が広げている新聞を見始める。ふーん、そんなことが……、と一面をこっそり読んでいた彼だったのだが、あるものが視界に入り、

「あぁーっ!!」

 駅の構内にも関わらず彼は大声を上げる。その大声に何事かと朝の通勤ラッシュで集まっていた他のお客さんたちが一斉に彼の方を見てきているが、そんな些末なことを気にしている余裕など彼には無い。

 彼女がブチギレていた理由が分かった。しかも、完璧にこちらがやらかしていることが分かった。やらかした。完全にやらかした。そりゃブチギレるわけだ。彼は内心焦りまくる鼓動をどうにか落ち着けようと、顔を両手で覆ってどうしたものかと考える。

「昨日……、ホワイトデーじゃん……」

 チョコを貰うだけ貰ってお返しをすっぽかした最低男は彼女がブチギレていた理由を口を覆っている手のひらの中に吐き出した。



 ブーッ! ブーッ! と職場のデスクの上に置いてある彼女のスマホが振動する。どうやら彼女が怒っていた理由にどこかの誰かがようやく気付いたらしい。昼休みになって慌てて掛けてきた、というところだろうが、向こうは昼休みかもしれないが、こっちはまだ業務時間。それにそれを差し引いたところで、

「フンッ!」

 大人な彼女は彼の前では態度に出さなかった怒りを今この場で発散し、出てやるもんか、と盛大にそっぽを向く。それを見て、『出ないんすか?』と話し掛けようとした横の後輩女子は触らぬ神に祟りなしと言わんばかりにそっと自分の席に戻っていた。

 朝から機嫌悪そうだなぁ……、とは思っていた後輩だが、どうやら彼氏さんが何かやらかしたらしい。勘弁してくれよ彼氏さん。貴方のせいで今日は一日中怒れる先輩がずっと横に居ることになりそうじゃないか。私じゃなければ早退してるぜ?

 たまーにあるのでいい加減慣れて図太くなってきた後輩だが、それでも怒れる上司が横に居るのは精神衛生上よろしくない。何とかして先輩のご機嫌を取れないかと。後輩は仕事そっちのけで考えていた。



 出ない。全然出ない。仕事で出れないのか、無視されているのかも分からない。何となく後者のような気はする。

「はぁ……」

 彼がため息を吐くと、通りかかった上司が話し掛けてくる。

「何だ? またやらかしたのか?」

「はい……。ホワイトデー、すっぽかしました……」

「あー……」

 フォローの仕様がない、という顔をしている上司。これがまだ、物凄く細かい二人の間の記念日、であればまだ忘れたフォローもできるが、世間的にも有名なイベントをすっぽかしたのでは忘れた側のフォローは難しい。

「で、怒ってるの?」

「はい……。めちゃくちゃ怒ってますね……」

「でも何かされるわけじゃないんでしょ?」

「はい……。表面的にはいつも通りです……」

「優しい彼女さんだなぁ。ウチでやったら1週間は家に入れてもらえないぞ?」

「それはそれで嫌ですけど……、何もしないのに絶対に怒ってるってすげー怖いんですよ……。いっそ怒り散らして発散してくれた方がまだラクというか……」

「あー……」

 怒ってくれていれば、『ごめん』と謝ることができ、仲直りのきっかけにもできるが、『怒ってない』と言われてしまうと謝ることもできない。謝ることができないと仲直りするのは困難である。

 とはいえ、

「謝るしかないなー……」

「はい……」

『怒ってないって言ってますよね?』と言い返される未来が容易に想像できる彼ではあるが、自分が悪いのだからこれはもう謝るしかないのである。



 定時。いつもであれば仕事が終わった解放感でいっぱいの後輩だが、今日に限っては横の怒りオーラー全開の先輩からようやく解放されるという安心感でいっぱいである。まぁ、勇気を振り絞ってお怒りの理由を聞いた限りでは怒っても無理の無い話ではあると思うが。

 言い逃げだ、と言わんばかりに後輩はリュックを背負うと先輩に話し掛ける。

「まーまー、先輩。バレンタインデーぼっちでホワイトデーもぼっちって人も居るんすから、そんな怒らないでも」

 キッ! と彼女が睨んでくる。超怖い。このリュックサックにパラシュートは入っていただろうか? 窓から避難したい気分である。

 しかし、パラシュートなど当然持っていない後輩は避難が遅れ、

「フン。イベントに参加もできてない人にこの気持ちは分からないだろうね」

 グサァァァッ!! と鋭利な刃物が後輩の胸を貫く。血が出ていないことが不思議に感じるほどの胸の痛み。いや、目から流れ落ちる液体が心が流している血なのかもしれない。くそ……、任意参加だったら参加してるのに……、参加条件が彼氏持ちって厳しすぎるのである……、来年こそは……、来年こそは……っ!! と床に崩れ落ちる後輩を見て、流石に悪いと思ったらしい彼女は、

「ご飯でも食べに行こうか?」

 会社のイベント以外で会社の人とご飯に行くことなど滅多に無い彼女からご飯を誘ってくる、というのはかなりレアなケースである。実際、後輩は何度か誘ったことがあるが、『彼氏と食べるから』という、マウントなのか、事実を言っているだけなのか分かりづらい文言で断られてきている。どうやら、彼氏とご飯を食べたくない程度にはまだ怒っているらしい。

 何度誘っても断られてきた先輩とご飯に行けるのは嬉しいイベントであるハズの後輩だが、今さっき胸を貫いてきた危険人物とご飯に行くの? という抵抗がある。が、こうなったらもう慰謝料代わりに連れてってもらおう、と開き直った後輩は、

「奢りですよね? 行きましょう」

「奢りとは……。まぁ、たまにはいいや」

 一緒に行くの初めてなので、後輩と一緒にご飯に行った際に奢る程度の男気は持っているのか、先ほどの鋭利な言葉を相当負い目に感じているのか、後輩としては判断に迷うところである。奢ってやるんだから愚痴に付き合えよ? というメッセージかもしれないが。



 彼女たちが建物を出ると、入り口周りに人だかりができていた。建物には他の会社も入っているため、帰宅時間が被ると混雑することはままあるが、こんな風に人だかりができているのは珍しい。

 何かあったのかな? と、人だかりを避けるようにそーっと脇に逸れながら、すれ違い間際にひょいっと人だかりの中心地を覗き込んで、ピターッ!! と彼女はその足を止めた。アイツ、一体何してるし。

 人だかりの中心地に人が倒れていた。いや、横に『謝罪中』と書かれている看板を掲げているところを見るに、恐らくあれは倒れているのではなく、土下寝中なのだろう。そんなことをこんな公衆の面前でやっているのだから、そりゃあ何事だ? と人も集まって来るだろう。

 世の中変な人も居るわねー、目合わせちゃダメよー、と普段なら通り過ぎる彼女だが、今回はそれができそうに無い。何故か? 輪の中心に居るのが彼女の彼氏だからである。

「……あれ、彼氏さん、ですよね?」

 指を指して後輩が聞いてくる。頷きたくない質問であるが、嘘を吐くわけにもいかないので、彼女は渋々頷く。

「……行ってあげなくていいんすか?」

 ホワイトデーすっぽかされて怒っている、というのを差し引いても、普通にあの人だかりの中に恥ずかしくて行きたくない、というのが彼女の本音ではあるが、あれ、行かないとずっと土下寝をしていそうである。

「ごめん、ご飯また今度で」

「へーい」

 後輩と別れて人だかりをかき分けていく彼女。そうして輪の中心に入ると、

「…………何やってるんですか?」

 不機嫌半分、疑問半分で聞く彼女。頭上から知り合いの声が降って来た彼は顔を上げると、土下座の姿勢にパワーアップ(ダウン?)し、

「いやもうほんとに、申し訳ありませんでしたっ!!」

 額を地面に擦り付けて謝って来る彼。周囲のやじ馬も『あの人何したの?』という目で見て来ている。『浮気したの?』これにそんな度胸は無い。『ママー、あの人捨てられちゃうの?』分別がよく分からないから捨てないよー、と彼女がやじ馬のコソコソ話に心の中だけで回答していると、彼はもう一回顔を上げて、

「ホワイトデーをすっぽかしてしまい、大変申し訳ございませんっ!!」

 続けて放たれた彼の言葉に、『えっ? それで土下座させられてるの?』という、彼を見る目が同情の目に変わった。いや、待てと。別にさせてないと。あれがボランティアでやっているだけ……、何だそのこっちが悪者みたいな視線は? ホワイトデーをすっぽかされた被害者だぞ、こっちは。

 とはいえ、ホワイトデーをすっぽかして公衆の面前で大の大人が土下座している。主観を無視して客観的に眺めれば、まぁ、土下座するほどじゃないよね、ってことにはなってしまうのだろう。

 汚い。凄く汚いと思うこのやり方。周囲の観衆の同情を手に入れたこの状況。迂闊な発言をすれば、彼女が悪者扱いになるのは想像に難くない。それに、怒っている理由を客観視させられたことにより、そんな怒ることでもないか、と彼女の中の怒りが小さくなってきてしまった。

 はぁ……、と彼女はため息を吐くと、

「分かりましたよ……。許せばいいんでしょ?」

 おおーっ、と周囲から拍手が巻き起こる。いや、プロポーズのシーンでもあるまいし、そんな盛り上がるの止めてくれない? と彼女が思っていると、お許しをもらった彼はガバッ! と勢いよく立ち上がると、

「優しいっ! いやもうほんと、そういうところ大好きですっ!!」

 人だかりの中心で愛を叫ぶ彼に再度沸くやじ馬たち。恥ずかしいので『助けてくださいっ!!』と叫びたくなる彼女であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すっぽかしたホワイトデー うたた寝 @utatanenap

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ