第8話 花の都 東京へ
翌日朝早く、花屋の宅配便が愛梨沙宛ての花束を別荘に届けに来た。
「愛梨沙、見て見て! 素敵な花束が届いたよ! ほら、誰からだろうね」
差出人の名前も確かめず、杏里は愛梨沙の部屋のドアを開けて花束を抱えて入って行った。
愛梨沙はまだベッドの中にいたが、大きな美しい花束を見るなり、よろよろと体を起こした。
昨日はほとんど眠れなかったのだ。
「見て! 素敵だね! さっそく花瓶に入れて飾ってあげるね!」
杏里は愛梨沙に花束を渡して、花瓶を取りに出て行った。
愛梨沙は綺麗なピンクの薔薇やカーネーション、チューリップが束ねられた華やかな花束を見て、心がパッと明るくなった。よく見ると、花束の送り主からのカードがリボンの下に差しこまれている。
『この花のように明るく元気になってください 海原裕星』
「裕星? 私にこんな素敵な花を……嬉しい!」
花束をギュッと抱きしめて目を瞑った。
あの時の裕星のような香りがした。裕星の甘くて爽やかな匂いが、海で抱き上げてもらったとき香ってきたのだ。
「……裕星」
涙がスーッと頬を伝って流れた。
そこに杏里が花瓶を見つけて部屋に戻って来たので、愛梨沙は急いで袖口に涙を拭い、何事も無かったかのように花束を渡した。
この日以来、花束は毎日愛梨沙の元に届いた。一ヶ月がすぎ、二ヶ月目になろうとしていたが、それでも毎日花束は届けられ、裕星からの大切なメッセージも増えていった。
『笑顔でいてね』『今日は笑えてるかな』『今日も海を見ていますか?』『散歩は楽しかったかな』
裕星の言葉はどんな花束よりも嬉しかった。
ある朝、愛梨沙は杏里との散歩の日課の前に突然切り出した。
「あのね、私、歩く練習をしようと思う。お姉ちゃん、手伝ってくれる?」
杏里は一瞬何を言われたのかと驚いて沈黙してしまったが、すぐに「愛梨沙ちゃん! もちろんだよ! どうした? どんな心境の変化? やっとその気になってくれたのね!」と飛び上がって喜んでいる。
愛梨沙は嬉しそうに花束を指さした。
「私の王子さまとの約束を守りたいからよ」
「約束? 王子さまって、海原さんと何か約束したんだね? 歩けるようになること?」
「そんなとこよ。歩いて約束を果たしたいの。一年後にはちゃんと」
「一年後ならきっと歩けるようになってるよ! それじゃ、愛梨沙が歩くところを王子さまに見せてあげられるね! 一緒に頑張ろうね!」杏里は話を合わせた。
その日から愛梨沙の歩行訓練が始まった。毎日痛む足を引きずりながら立って歩く練習は、想像以上に辛かった。
今まで使っていなかったため、足の筋肉はすっかり落ちて折れそうなほど細く頼りなかったからだ。その足で立つことさえも至難の業だった。
しかし、一日、また一日と経つうちに、愛梨沙の足はどんどんと筋力をつけ、いつの間にか10分ほどならしっかり一人で立てるようになっていた。
「愛梨沙ちゃん、スゴイよ! あれからこんなに上達したんだ!」
大学の授業が終わるとバイトに行き、夜にはまっすぐ別荘に帰ってくる杏里が、愛梨沙の日々の成長に驚いて声を上げた。
「私が日中いないとき、家政婦の幸子さんと頑張ってたんだね! これなら一年も掛からない内、きっと歩けるようになるね!」
「ありがとう、絶対に頑張る! 絶対に生きていたいもん」
「――生きる? 変なこと言わないでよ、死んじゃうみたいに。大丈夫よ、きっと愛梨沙ちゃんは元気に歩けるようになるから」
杏里に励まされて、愛梨沙は悲しく笑った。
ふと目をやる先には、花瓶に飾られた今日の花束がサイドテーブルの上のあった。
今まで届けられた花束は玄関ホールの壁一面に綺麗なドライフラワーになって掛けられている。
そして、一番大切なもの、たくさん溜まった裕星からのメッセージは机の下の宝箱の中に大切に仕舞ってあった。
――このまま頑張れば、きっと一年後も生きていられるかもしれない。それに自分の足で普通の女の子のように歩けているかもしれない――
愛梨沙は希望に満ち溢れていた。
三ヶ月が経った頃、愛梨沙はもうだいぶ訓練も進み、自分の足で長い時間立っていられるようになるまで回復していた。少しの距離なら一人で歩けるようにもなった。
ある日の午後、杏里の提案で都内まで遠出することになったのだ。今日は杏里の友人が車を出してくれるという。都内を久しぶりにドライブしないかと提案してくれたのだ。
愛梨沙は即オッケーした。なぜなら、裕星がいる東京に行けば、もしかして本人にバッタリ出会うことがあるかもしれないと思ったからだ。
東京がどれほど広く、人が大勢いることなど全く知らない愛梨沙は、東京に行きさえすれば裕星と逢えるかもしれないと夢のような偶然に期待していた。
車が都内の大きな通りに来ると、愛梨沙が声を掛けた。
「ねえ、お姉ちゃん、JPスター事務所に行ってみたい。ここから近いの?」
「JPスター事務所は近くだよ。でも、いつも裕星たちがそこにいるとは限らないのよ。外から見るだけでいいの?」
「うん、外からでいいよ。もしかしたら、突然、裕星が出てくるかもしれないもん!」
アハハと杏里は夢みたいなことを言う愛梨沙を笑ったが、自分もあの事務所に何の疑いもせず、一通のファンレターを受け取ってもらえると信じて訪れたことを思い出した。
まさか本当に社長と会って、たった一通の手紙を受け取ってもらい、更に裕星が家まで来て愛梨沙の願いを叶えてくれることになるとは──夢にも思ってなかったのだ。
偶然は本当にあるのかもしれないと思えた。
すると、愛梨沙が突然叫んだ。
「
まさか本当に裕星が出てきたのだろうか、と杏里がキョロキョロしていると、「ねえ、あそこ、あのお店見て! あの花屋さん!」
愛梨沙が指を差す方向に見えたのは大きな花屋だった。杏里の友人が少し進んだ路肩に車を停めた。
「あの花屋さんがどうかしたの?」
「いつも裕星の花束を贈ってくれる花屋さんだよ! 私覚えてたの! いつもの花束のリボンのところにあの花屋さんのロゴが印刷されていたから知ってる! ねえ、近くまで行ってみてもいいかな? だって、この近くに事務所があるんでしょ? 絶対あそこから裕星が花束を贈ってくれてるんだよ!」
愛梨沙は
もしかすると、ちょうど今頃の時間、明日の花束を注文しに裕星がやって来るかもしれない。急いで確かめに行きたい――裕星に会えなくても、どんな花屋なのか見るだけでいいと。
愛梨沙は車から降ろしてもらうと、歩道の上を両脇を杏里とその友人に支えられるようにして、ゆっくりと進んで行った。
後もう少し、もう少し、後二十歩、杏里に励まされて、愛梨沙はゆっくりゆっくり足を前に出して進んだ。
ようやく辿りついたその花屋は、まるで裕星のご用達店かのように上品な内装で、高価な花がガラスケースの中に飾られ、店先には色とりどりの季節を先取りした綺麗な花々が溢れるように置かれている。
「いらっしゃいませ! どうぞごゆっくりご覧くださいね」
店員が出てきて、笑顔で丁寧に声を掛けた。
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