第7話 人魚の最後の願い

「……でも、もうあれから4年は過ぎたでしょ?」


「そう、もう4年が経ったのよ。だからもうすぐ私は死んじゃうのかもしれない。今はこんなに元気でも、きっとそのうちに……。だから、裕星に手紙を書いたの。生きてるうちに会って、願いを叶えて欲しくて、最後のワガママを言ったら裕星は来てくれたよね」


 裕星は愛梨沙の衝撃的な告白に、言葉が出せず黙って聞いているしかなかった。


「私が死ぬことはお姉ちゃんも知らないことだよ。だってあのときまだお姉ちゃんは14歳だったもの。あの話を聞いていたのは私だけだったし。パパもママもそのことを誰にも言わずに、海で死んでしまった――。だから、私しか知らないの」


 裕星は目を伏せながら、じっと愛梨沙の言葉に耳を傾けていた。

 船尾にいるゴンドリアンは、いつもなら景色を説明したり、ジョークを交えて客を喜ばせるはずなのだが、あまりにも深刻そうな二人に気を遣ってか、ずっと静かに前を向いてゆっくりゆっくり漕いでいるだけだった。



 裕星がやっと言葉を発した。

「愛梨沙ちゃん、その話は君だけしか知らないこと? その後、お医者さんには診てもらってないの?」


「私はあの時から病院には行ってないよ。だってもう決められた命だったら行ってもしょうがないもの」


「でも、もしかすると、何か治療法があるかもしれないよ。お姉さんだって心配するし、俺が付き合うからもう一度一緒に病院に行かないか?」



「ううん、でも、一つだけ助かる方法があるの」


「助かる方法?」


「笑わないで聞いてね。私、本当は人魚なの」



 裕星は耳を疑った。というよりも、突拍子も無い言葉がこんな深刻な話をしている中にあまりにも不似合いだったため、思わず眉を潜め首を傾げて愛梨沙を見つめた。


 愛梨沙は構わず話し続けた。


「――私、あの頃、嵐の海で王子さまを助けてから、また逢えるのをずっと夢見ていた。

 裕星は、あの時、私のパパが船で助けた人でしょ? 私はまだ小さかったけど、初めてあなたを見たときからずっと恋をしていたの。

 あんな嵐の日だったし、私は船に揺られて足も怪我しちゃったけど、あの時の裕星はとっても素敵で王子様のようにカッコ良くて、私を抱いて守ってくれたよね。──心強かったよ。

 昨日抱き上げられたとき、あのときのことを思い出したんだ。


 逢いたいって思ってたのに、ずっと逢えなくて……。テレビで裕星のことを見つけたときは、絶対に逢わなくちゃって思った。逢って、あのときのあの女の子は私だよって伝えたくて。


 裕星、私がこの世界で生きるためには──王子様のキスが必要なんだ。

 そうしたら、きっと私は死なずにいられるような気がする。

 だから、裕星、最後のお願いを叶えて! 『私にキス』をしてくれる?」

 そして、裕星を待っているかように静かに瞼を閉じた。




 裕星は黙って愛梨沙を見ていたが、「キスをして」と言われ、大きくため息を吐いた。

 そして、目を閉じて裕星のキスを待っている愛梨沙にゆっくり顔を近づけたかと思うと、愛梨沙の前髪の上からオデコにそっとキスをしたのだった。



 オデコにキスをされて、愛梨沙は驚いて目を開いた。

「裕星……あのね、私が言ったのは、本当のキスのことだよ!  裕星は私が命の恩人の娘だから優しくしてるんだよね? それでもいい! でも、でも、私の事を一人の女性として見てほしいの。だって、キスしてくれないと私は……」

 愛梨沙は涙で一生懸命に訴えた。


 裕星は黙って見ていたが、優しく笑って言った。

「始めに言ったように、出来ないことは出来ないよ。愛梨沙ちゃんはとっても大事な俺のファンだけど、俺は君を恋人としては見られない。


 愛梨沙ちゃんには、俺からもお願いがあるんだけど……。

 これからちゃんと病院に行くこと。そして、またあの海岸で会う約束をしよう。


 ずっと考えていたんだ。君が前を向いて生きていけるようになること。

 だけど今君の話を聞いて、俺のすべきことが分かった。


 ちょうど一年後の今日、あそこの海岸に来て欲しい。俺も約束を守るから君も守ってほしい。

 その時まで俺は仕事でもうこんな風に何度も君には会いに来れないと思う。だけど、忘れないでほしい、決して俺は君を見捨てたりしないよ。

 昨日と今日のこの思い出はずっと一生忘れない。

 君には元気になって、一年後またあそこで会えるように頑張って生きていてほしいと思ってる」


 裕星は一か八か、愛梨沙の生命力に懸けてみようと思った。

 愛梨沙の話した長くない命が本当なら、こんな残酷な約束はありえないことかもしれない。

 しかし、もうこれから長く生きられないと思って負の方向に向かっている彼女に、どうにかして未来に希望を持たせてはあげられないだろうかとデートの間中ずっと考えていたのだ。


 裕星は自分が冷酷な人間にも思えた。唇にキスをしてあげるくらい、他の男だったら簡単に出来たかもしれない。しかし、自分の気持ちと彼女の気持ちにどうしても軽々しい嘘はつけなかった。

 たとえ、本当に死を目前としている人間に対しても、嘘をくのと優しさとは違うと思っていた。



「一年後に? ――そんなの無理だよ! だって、私はこれからいつ死ぬかもわからないんだよ!

 それに病院に行って本当に間もなく死にますって言われる方が怖いよ。そんなことになるくらいなら、私はいつの間にか知らないうちに死んでいた方がいい! 裕星は私のことなんか何も分かってない! 死ぬことがどんなに怖い事か。

 それに私に付き合ってくれていても、心はきっと他の誰かのものなんだよね? 一緒にいてよくわかったよ。裕星はいつも誰かを想って遠い幸せそうな眼をしているもの。私が死ぬことなんてどうでもいいのよ!」


「そんなこと少しも思ってないよ、君が死んでもどうでもいいなんて。だけど、君に嫌われたっていい。

 俺との約束を守ってほしい。君が一年後あそこの浜辺に来るまで、その日は一日中でもずっと待ってるから」


 愛梨沙はそれには答えなかった。そして、ゴンドラから降りてからも裕星と目を合わせることなくずっと黙ったままだった。


 帰りの車の中でも愛梨沙は言葉を発しなかった。車の中は沈黙の重々しい空気が流れていた。

 あれだけ楽しんでいた遊園地や海での思い出も、最後の願いが叶えられなかったことで、今までの願いが叶ったこと全て無かったことのようにしてしまったのだろうかと裕星は心苦しかった。


 夜になって別荘に帰ってきた愛梨沙と裕星を、杏里が今か今かと玄関口で待っていたように裕星の車を見るなり飛び出してきた。


「愛梨沙、どうだった? 海原さん、ありがとうございました!」

 裕星に礼を言って、愛梨沙に車椅子を近づけると、愛梨沙は黙ってそれに乗り込んだ。


「愛梨沙?」

 杏里が愛梨沙の暗い表情を見ていぶかしげにしている。


「すみません、遅くなりました。今日はこのまま帰ります。愛梨沙ちゃんは疲れていると思いますので、ゆっくり休ませてあげてください。これで僕の役目は終わりました」

 裕星が車から出てきて頭を下げた。

 そして、また車に乗り込み出ていこうとすると、杏里が愛梨沙を乗せた車椅子を玄関先に停めて、急いで車に駆け寄ってきた。

「今日はありがとうございました! 愛梨沙に何かありましたか? 何だか二人とも疲れたみたいに見えますが」


「いや、申し訳ありません。彼女の最後の願いは叶えてあげられなくて……。でも、どうか彼女を見守っていてください。できればまた病院に行くように言いました。愛梨沙ちゃんが元気になるよう、僕はいつも祈っています」とウィンドウを下ろして答えた。


 裕星は、では、と真っ暗な海沿いの道路へと戻って行ったのだった。

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