第5話 天使の思いやり

 今まで恐怖で海を見ることさえできずにいたのに、今日こうして大好きな裕星が自分を抱き上げて、波打ち際まで連れてきてくれた。

 愛梨沙は、ギュッと目を閉じて裕星のぬくもりだけを感じて落ち着こうとしていた。


「ほら、目を開けて、海が綺麗だよ」

 裕星が優しく声を掛けるので、しばらく裕星の胸に顔を隠していた愛梨沙は、思い切ってゆっくりと海の方を向いて顔を上げた。すると、思わず声が出てしまった。


「わあ! なんか、あの時と全然違う……ずっと思っていた海と全然違う。この海、まるで裕星みたい」


「俺みたい? 海が俺みたいとは?」


「うん。裕星もテレビで観てたときは、手の届かない遠い人って思ってたけど、今日こんな近くで会ったら、とっても大きくてカッコよくて、優しい。だから、まるでこの海みたい!」うふふと笑っている。


「そうか、それなら嬉しいよ。意地悪な男に思われなくて良かった」アハハと笑った。



「でも、これで二つ目の願いも叶ったよ。『初めて海を見ること』ができた」愛梨沙は裕星の腕の中で静かに水平線の向こうをまぶしそうにながめている。


「愛梨沙ちゃん、他の願いも俺に出来ることなら叶えてあげたいと思ってるよ」


「うん……言いにくいことだけど、いい?」


「いいよ、だけど、無理なものは無理だって言うよ。俺は魔法使いじゃないからな」と笑った。


「一つずつでいい? 三つ目は、『裕星とデートをすること』なんだ」


「デートねぇ? 今のこれはデートじゃないのか。じゃあどういうデートがしたいの?」


「う~ん、映画みたいなデートがしたいな」


「映画だって色々あるよ。ホラーだってコメディだって」


 アハハハと屈託くったくのない笑顔で愛梨沙が笑った。

「はぁ~! 裕星って面白い人だね。こんなに笑えたの初めてよ。裕星はやっぱり私の王子様だ」


「俺は王子さまか。そんな立派なもんじゃないけどな」

 愛梨沙を腕に抱きながら照れて遠くを見つめた。


「王子さまだよ。私は足が動かないから人魚姫なの。人魚は助けた王子さまに逢いたくて魔女に足を貰うでしょ? そして王子さまのお城へ行くんだよ」


「そうなのか? そんなおとぎ話、俺は読んだことがないから知らなかったな――それで、チャンチャンってハッピーエンドになるのかな?」裕星がハハハと笑った。


「……ハッピーエンドにもバッドエンドにもなるよ」


「なんだそれ? ゲームみたいだな」


「ううん、何でもない。腕疲れたでしょ? もう車椅子に戻ろうよ」

 自分をずっと抱き上げたままの裕星に愛梨沙が気を遣った。



「ああ、俺は大丈夫だけど、明日次の願いを叶えるのにはそろそろ戻らないとな」

 そう言うと、また軽々と愛梨沙を抱いたまま少し早足で車椅子を置いた場所まで戻り、そっと愛梨沙を座らせた。


「明日はお昼ご飯を食べに行こうか? 体調が良かったら。それでデートということでいいかな?」

 裕星は近くのレストランに連れて行って愛梨沙にランチをご馳走してあげようと思ったのだ。


「よかったらお姉さんも一緒に連れて行ってやりたいが、それじゃデートにならない?」



 愛梨沙は、自分のために犠牲になってくれている姉のことが一瞬頭によぎり、お礼に食事に誘った方がいいのかと迷ったが、今日裕星が来てくれたのは、その姉が自分のためにとはからってくれたことだから、その好意に甘えようと思い直した。


 そして顔を上げると、「今回だけはお姉ちゃん抜きでお願いします! だって、人生初のデートなんだもん。保護者と一緒のデートなんて、デートって言えないでしょ?」と肩をすくめた。



 車椅子の後ろから「そうか、デートに保護者は付いて来ないか」と笑い声と一緒に答えが返ってきた。


 今の愛梨沙は、元気そうに見えて、まるで何かか弱い小動物のように裕星の手の中で温かい体温を持ちながらも震えているような、そんな痛々しく感じられた。




 別荘に戻ると、急いで杏里が玄関から駆け寄ってきた。


「海原さん、ありがとうございました! お疲れになりませんでしたか?」

 まだ18歳だというのに、姉らしく気遣いのある言葉を裕星に掛けた。


「僕は大丈夫ですよ。もし、このまま愛梨沙ちゃんの体調が良ければ、明日近くのレストランにランチに連れて行きたいのですがいいですか?」


「そんなことまで……ありがとうございます! 愛梨沙、体調はどうなの?」


「私は至って元気だよ! だって、憧れの裕星に逢えたんだもの、凄い元気になれた!」と陽気にガッツポーズをして見せた。


「あまり疲れないようにしてあげたいので、今日は帰ります」と裕星は気を利かせてドアの外に出た。


「すみません。明日またよろしくお願いします」

 杏里は頭を下げて裕星の車を見送った後、車椅子の愛梨沙をベッドの部屋へ連れて行った。




 裕星は途中の空き地に車を停めてケータイを開いた。すると、ケータイに美羽からメールが入っていた。


『裕くん、どうだった? 娘さんの具合は大丈夫? こちらの方は大丈夫だから、たくさん優しくしてあげてね』


「美羽……」

 裕星はメールを読んで、都内に帰るまで待ちきれず美羽に電話をした。早く美羽の声が聞きたかった。


「もしもし、美羽。今メールに気付いた。さっきまで彼女に付き合って海を散歩していたんだ。明日またランチを一緒にする約束をした。彼女の願いの一つだからな」


 <うん、こちらはいつも通りだから大丈夫よ! 裕くんもお疲れ様でした!>


 美羽の声を聴くと、裕星はいつも心が温かくなる。一番の理解者であり、たった一人の愛する人なのだ。

 裕星が苦しいときには春の太陽のように包み込み、寂しいときにはその天使のような笑顔が心を癒してくれる。教会育ちであるからではなく、彼女の持って生まれた温かい心がそうさせてくれるのだ。


 ケータイを胸ポケットにしまうと、裕星はまた都内に向けて急いでベンツを走らせたのだった。





 ***裕星のマンション***


 美羽は仕事を終えて、部屋の机の上に何やらパンフレットを広げていた。そこは贈答用の花束や鉢植えなど、見本の写真が並んでいた。


 ――裕くんは、足の不自由な女の子の願いを叶えてあげようと休みも返上して頑張っている。

 私も何か彼女にしてあげられないかしら? 女の子だからお花を贈ってあげたら喜ぶかもしれないわね。裕くんの名前で届けるのはどうかしら? それなら、私はただお花を手配するだけで、彼女に私の存在を知られなくて済むわね――


 美羽は少しでも彼女のために自分も何かしてあげたいと考えていた。

 裕星の名前で毎日花束を贈ったら、裕星が願いを叶え終えて帰ってしまった後も、自分のことを忘れずに花束が届くことで気持ちが明るくなれるのではないかと思ったからだ。


 裕星は忙しいだろうから自分が代わりに花を贈り、女の子に聞かれても戸惑わないように裕星には後で伝えておけばいい。美羽は早速裕星にメールを打った。


 裕星からはあれからまだ既読が無かったが、美羽は、裕星が役目を終える日から毎日花束が彼女の別荘に届く様に花屋に手配をしたのだった。

 その、小さくも温かい美羽の思いやりが、その後、大きな事件を巻き起こすことも知らずに――。

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