第4話 懐かしの海

 翌朝、裕星は彼女がいる別荘に電話を入れて、これから向かう旨を家政婦に伝えた。


 海辺の別荘に向かう道中、久々に裕星は車の窓の外に広がる美しい海原に心癒されていた。

 青々と広がった空と海のグラデーション、渋滞のない広々とした海沿いの道に広がるヨットハーバー、窓を開けて入ってくる風すら澄んでいる気がした。

 周りの白い建物に囲まれ、いつしか地中海に来てしまったような錯覚を覚えた。

 裕星のベンツはそこからさらに高台の高級住宅地へと上って行った。

 

 車が別荘に到着すると、姉の杏里がもう庭先で出迎えてくれていた。

 裕星が車から降りて見回すと、岸壁の上にある広い敷地の真ん中にその別荘の屋敷はどっしりと建っていた。

 庭の向こうには青々とした太平洋が太陽の光を反射して眩しく見えている好立地な場所だった。

 庭から浜に下りるために舗装されたなだらかな傾斜の私道がカーブして続いている。その道なら車椅子で降りることも可能だろう。


 この別荘のオーナーだった浅加の友人は会社を経営する社長だったが、亡くなった今では、後継者がなくとうとう経営を他の人間に任せ、二人の娘たちは残された遺産で以前から世話をしてくれている家政婦を雇うのが精いっぱいだった。

 

 杏里と目が合うと、裕星は軽く頭を下げて近づいて行った。


「こんにちは。あの……先日は手紙を直々に頂いたそうで、ありがとうございました。海原です」



「あ、あの……海原さん、本当に来て下さったんですね! 私は阿刀田杏里あとうだあんりと言います。土日は妹の愛梨沙の世話をしていますが、休みが終わったら大学に行かなくてはならないので、こんなに早く海原さんが来て下さって本当に嬉しいです! ありがとうございます!」と深々と頭を下げた。



「それで、妹さんは今寝ていらっしゃるの?」

 裕星は玄関へ誘導されながら訊いた。


「はい、まだ歩くことが出来ずに寝たきりなんです。でも、本当はもう足は治っているはずなんです。後は、本人の歩く意志さえあれば大丈夫だと医者が言っていました」


 やはり、手紙にあった通りだ。しかし、裕星への願い事に関しては何も聞いていないようだった。




 愛梨沙の部屋の前まで来ると、杏里が明るく声を掛けた。

「愛梨沙、起きてる? ちょっといいかな?」


 すると、裕星の事をまだ聞かされていない愛梨沙がドアの中で返事をした。

「お姉ちゃん? お散歩に行くの? 今日はあまり気分良くないから止めとくよ」


「これでも気分が良くない?」

 杏里がドアを開けて、裕星に入るようにと目配せした。裕星は軽く頷くと、愛梨沙の部屋にゆっくり足を踏み入れた。


「こんにちは、愛梨沙ちゃん」


 愛梨沙はベッドの上に体を起こして何やら本を読んでいたが、低い男の声に驚いて、ビクッとして顔を上げた。

 すると、目の前に昨日までテレビの中で歌っていたはずの海原裕星がいるではないか。


 大きく目を見開き口をあんぐり開けて、本を抱えたまま声を出せずにいる。


 裕星は構わず、ずんずん近づきながら、「今日は気分が良くないって? 大丈夫?」と訊いた。


「い、い、い、いえ。だ、だ、だ、大丈夫です!」

 愛梨沙がやっと言葉を発した。しかし、言葉はそこまでで、その後は両手で口を抑えたまま涙目になっている。


「あれ? 脅かしちゃったかな。来てよかったのかな、俺」

 頭をきながら裕星が心配そうに愛梨沙の顔をのぞき込んだ。


「――こんなとこまで、ホントに来てくれたの?」

 愛梨沙が抑えた自分の両手の中でくぐもった声を出した。


「手紙もらったよ。来てほしいって書いたでしょ? だから来たんだよ」


 裕星に言われて、見る見るうちにまた涙が溢れだしてきた。


 布団に突っ伏してうわーんと泣いている。慌てた裕星は、思わず駆け寄って愛梨沙の背中を擦ってあげた。


「どうした? 気分が悪いの? 大丈夫?」


「だいじょうぶ……嬉しくて……」

 まだヒックヒックとしゃくりあげながら嬉し泣きしている。


「愛梨沙、海原さんに感謝しなさいよ! 海原さんも忙しい中こんなとこまでわざわざ来てくれたんだからね!」


「うん、あ、ありがとう、裕星」

 愛梨沙はやっと顔を上げて、涙でグチャグチャになった笑顔を見せた。



 裕星は優しく笑うと、近くにあったティッシュを勝手にスッと取り愛梨沙に渡した。

「はい、涙を拭いて。もし元気だったら、下の海岸まで一緒に散歩しないか?」


「え? 海に? でも……」


 杏里が愛梨沙の顔をうかがいながら見守っている。


 愛梨沙はしばらく表情を曇らせ躊躇ためらっていたが、大嫌いな海に大好きな裕星が今誘ってくれている。裕星と一緒なら行けるだろうか、それとも無理をして、裕星に迷惑を掛けるような事態にならないだろうかと迷っていたのだ。



 海を嫌っていることなど知る由もない裕星は、不思議そうに愛梨沙の顔を覗きこんでいる。


「――うん――行って、みようかな……」

 愛梨沙の言葉に驚いたのは杏里だった。今日という今日まで何年間もあれほど嫌がっていた海に、裕星の言葉一つでまるでのろいが解けたように行こうとしている。


 杏里は、裕星によろしくお願いしますと頭を下げて二人を玄関で見送った。


 裕星に車椅子を押してもらい、愛梨沙は海への恐怖と裕星への想いが重なり、胸の鼓動がドキドキと跳ねて何も話せずにいた。


 海岸まで降りるなだらかな道すがら、裕星は愛梨沙の背中に向かってそっと手紙の事を訊いてみた。


「あのね、手紙のことだけど、俺に叶えて欲しい七つの願い事があるって……どんなことかな?」


「……あ、一つ目はね、『裕星に会うこと』なの。だから叶ったよ」


「俺に会って、そして、その次はどんな願いなんだ? 後六つあるってこと?」


 話をしながらカーブに差し掛かると、道の両側に生い茂っている防風林の木々の間からチラチラと青い海が見えてきた。

 舗装された道はそこまでだった。後は木の板を渡して海岸の近くまで道を作ってはいたが、車椅子で海の近くまで行くのは到底無理なことだった。



 裕星は私道から砂浜に渡した板の上に車椅子を乗り上げると、そこで車椅子のストッパーを掛けて、正面に回り込んで愛梨沙に対面してしゃがんだ。

 愛梨沙は恐怖でギュッと目を閉じたままだった。


 すると、裕星は愛梨沙の肩に手を置き、「準備はいい?」と声を掛けた。

 愛梨沙が恐る恐る目を開けて裕星を見上げると、裕星は愛梨沙にニコリと微笑んで、車椅子の中の愛梨沙をヒョイと抱き上げたのだった。


「ゆ、裕星? やだ、恥ずかしいよ、下ろして!」

 愛梨沙が声を上げると、「だって、こっからはこうしないと海が見れないでしょ? もっと波の近くへ行ってみようよ。きっと気分が良くなるよ!」と愛梨沙を軽々と抱き上げたまま、真っ白な砂浜をザクザクと踏み締め海へと近づいて行った。

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